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精神の暗黒大陸を照らす光はカニバリズムなのか

ここ数ヶ月、投稿をしていなかったのは、何も考えていなかったからではなく、むしろ考えることが多すぎたのだった。いや、とにかくただただインプットをしていたのだ、ともいうのかもしれない。

HUNTERXHUNTER専門のnoteにしようと思って再開したこのnoteだったが、久しぶりになにか書こうとすると、はて、どうしたものかと思う。

暗黒大陸編の話でもしようか。

ツェリードニヒ王子はどう考えても作者である冨樫義博の作品内分身であるわけだが、しかし一体、あれを読んで家族はどう思うのだろうか、と、いらぬ心配をする。
系列としては、幽遊白書の右京さんだったか左京さんだったか、あのギャンブラーの彼に始まって(もしかしたらもっと過去の作品に萌芽があるのかもしれないが、未読のため、一応彼を始点とする)、仙水、あとエベルEにもそんなキャラクターがいたとは思うが、うろ覚えなのでスキップして、HUNTERXHUNTERの世界では握力が強いおじさんとか、占い師の娘とか、幻影旅団団長に、爆弾魔の彼とか。

要するに、宮崎駿が「人がゴミのようだ」と作品において語らせるのと同じ形式の表現であるわけだが、ツェリードニヒ氏は、ダークサイド、まさにここに極まれりというところがある。

あ、だから”暗黒大陸編”なのかもしれない。地理的な意味の暗黒なのではなく、心の暗黒面のお話なのである、と。

精神の暗黒とはつまり、「人を人として思わない」ということである。この対となる感性に、「人でないものを人と思う」がある。そうやって考えると、クロロVSヒソカの戦闘がなぜあのタイミングで物語られたのか、ということにも合点がいくのであって、いよいよ冨樫義博は、「仲間とは」という問いからさらに一歩深く沈潜しようとしている、というわけである。

私達は、人を人とも思わないことがしばしばある。

ただそれに気づいていないだけなのである。

考えてみたらそれは、至極恐ろしい話なのだが、その恐ろしさに気づかないようにして人の認知システムというものは動いているのではないか。なぜカニバリズムが忌避されるのかというと、ある存在を「人として認知する」という行為とは、それを自分自身の延長として認めるということだからだ。自分自身を食して生き延びることは、エネルギー保存則と熱力学第二法則からして、不可能な話であり、そんなものはきっと生物進化の初期段階でみっちりプログラムされていたに決まっている。いや、そうでもないか。ザリガニとかコオロギとか、結構どの生物も平気で共食いする。
してみると、「人を人として思う」という行為は、大脳新皮質のなせる幻影なのかもしれない。

「なぜ関係ない人を殺せるの?」とゴンは問い、クロロは「関係ないからじゃないか?」と答えた。そこに本作の、というか、作者である冨樫義博の暗黒面の本質がある。

誰かのことを、「人を人として思える」瞬間は、意外と短い。

親との断絶の感覚が、それを意識させる契機となる。だからこそ、かえってそのことに自覚的でいようとすることが、かえって露悪的なライフスタイルを生み出すのもまた皮肉な話である。

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