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うんこの味がするカレーのような本が錬成される理由

本が好きで何十年も読んでいるとそのうち自分の好きな本ははっきりしてくると言うけれど、小さな頃から物語にはつまらないものは無いと言う信念だけは変わらないと思っていた。

でも流石に最近とまではいかず一定量のうんこを食べさせらていると世の中にはどうしようもないゴミが存在することを理解してしまう。というか再利用することすらできない廃棄物の存在を知ってしまったらもう戻れないゴミ人間って実は多いんやな。

まあそう言う本って物語がない。
何でなんだと分析すると唯一当てはまるのが巻末につらつらと並べられた資料本の多さよ。

別に参考資料が多いのは悪くない、むしろ膾炙する為にはそれが明記されてない本は信用しにくい。
でもおしなべてそうじゃない本ってプロットを抽出する為に使われていて、たまにその中に読んだことがある資料なんかがあったりするとまるっとバレててぶち◯したくなる時がある。

だってまぁそんな時ってその本を他の人がどう読んでいるのか気になって調べるけれど大体の話、その資料を読んだ方が感動するんじゃないですかとツッコミたくなる。何々の苦しみや辛さが心に響いてきますだとか、こう言う人がいるんですねだとか。そんなものちゃんとした物語なら無いとゴミじゃねぇか。そもそも論として存在理由。抽出してるだけなのがバレてないと思っている文章。

所詮人間の共感性なんてそんなものかと羞恥すら湧いてくるわ。はっきりと言って話しの要素として素材を手に入れただけならばコピペしている論文をどうこう言える立場にない人とと大差ない。むしろ人工生成された文章で作られた物語に勝てる自信がそれであるのに驚くやで。

面白くて読ませる文章を書く事は分かりやすく言うと文章に特徴のある人を真似てみると言うけれど村上さんみたいなやれやれ期の話を真似たところで本質は違うしどれだけ上手く自動生成出来ていたとしても中身を読み込もうとするとまぁ辛くなるのに近い。

それなのになんの因果か人に読ませることばかりを考えてどこかで見たような話を自分の言葉として使う言い回しは笑えない。

一度その思考回路にハマってしまうと売れ線を公言した小説賞なんて読む気がなくなって行くのは道理やろ。

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