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ハチミツの日

父が死んで一年が経った。

何というか、無理やりにでも気持ちに一区切りつけるのに、一年というこの長さは実にちょうど良い。別に一年経ったからどうと言う事もないけれど、短くもなく、長くもなく、忘れるでもないくらいの程よい日数が過ぎて、じゃあせっかくだし少し前に進んでみようかね、というような、何となくその理由になるような「一年」というこの期間。

たぶん、同居していたせいもあってだろう、父がいなくなってから今日まで、父を思い出さない日は一日もなかった。それがまず、自分にとっては意外だった。

テレビの前でアームチェアに深く座って映画を見ている後ろ姿。ダイニングの窓の脇で腰に手を当ててぼんやりと海を眺める立ち姿。麦わら帽子をかぶって畑の中で座り込んで雑草を抜く姿。食卓で孫たちの喧しい話に耳を傾ける祖父としての姿。カーステレオから聞こえる曲のアーティスト名を聞く助手席での姿。背中を丸めてMacに向かってペンタブを動かす仕事中の姿。玄関に座ってスニーカーの紐をゆっくりと結ぶ後ろ姿。

感傷的になっているわけではなく、父のいなくなったこの家には当たり前のように今もあちこちに父の姿が漂っていて、あぁ、これほどまでに毎日思い出したりするものなんだね、と。少し嬉しくも可笑しくもあったりして。

そして、そんな日々に一年という区切りがつき、少しだけ振り返ってみたり、改めてギュッと思い出してみたりするのにちょうどいい時間が経過したような気が、今はしている。


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◉デザイナーの父
フリーランスでテキスタイルデザインの仕事をしていた父は、僕が幼い頃こそ横浜に事務所を構えて仕事をしていたものの、僕が小学校にあがる頃には家の一室を仕事場にして働いていた。絵を描くことが好きだった(もちろん両親の影響)僕は、父の仕事を見るのがとても好きだった。自分と同じくらいの子どもたちが楽しそうに遊んでいる絵、淡い水彩で描かれたペンギンやクジラやイルカたち、細かなロットリングの線に着彩された恐ろしく緻密なペルシャ柄、マティスの絵のように豪快に描かれた動物や植物や幾何学模様、高島屋のバラみたいに緻密に美しく描かれた花々。そして見たことのあるそれらの絵が、壁紙やスカーフやタオルやハンカチなどの商品になったのを見るのもとても誇らしかった。子どもの頃はただ「すごいな」「綺麗だな」としか思わなかったけれど、同一人物が描いたのとは思えないほどのその表現の幅は、デザイナーになった今の僕には、とても手の届かない偉業に映る。


◉DIYの父
今でこそDIYなんて言い方をするとちょっとした趣味みたいにカッコよく聞こえるけれど、我が家は昔から何でもまさに「Do It Yourself」の家だった。家具作りや塗装はもちろん、今僕らが住んでいるこの家も個人の大工さんと一緒に父が設計して建てたものだ。もちろん当時高校生だった僕や中学生の弟も一緒に、天井や壁に壁紙を貼らされ、外壁にペンキも塗らされた。父がいなくなって一年、家の立て付けを直したり、電気の配線をいじったりと僕が家の修繕をするたびに、あちこちに父の手作業の跡をみつけては父の存在を感じたりする。「なるほどこうやったのか」「だからここはこんな形なのか」と。今も父の作ったこの家を通じて父と会話をしている。


◉モトクロスと潜りと釣りの父
バイクが大好きな父は、僕が小学生に上がる頃、モトクロスにハマっていた。友人たちでチームを作り大会に出ては盛り上がり、レース後によくワイワイ騒いでいた。小学一年の時に、多分僕は頼んでもいないのに、子ども用のバイク(ヤマハ PW50)を買ってくれた。当時バイクに乗っている子どもなんていなかったから、近所の公園で乗り回していると公園中の子どもが集まってきて、僕はいつも一人照れながらも得意になっていた。

そして気がつくといつの間にか父の趣味はモトクロスから素潜りになり、仕事以外はいつも家の前の海で潜っては僕らの晩ご飯のために魚を突くのが日課になっていた。だから我が家で食べる魚はどれもお腹にモリで突かれた穴が開いていた。

そしていつの日か素潜りから釣りに趣味が移行し、気がつけば相模湾のポイントをすべて知り尽くすほど釣りに出かけるようになった。その頃、家の玄関には大きな水槽が置かれ、中には釣ってきたクロダイやイシガキダイ、メジナ、メバル、トコブシやサザエなんかも入っていてなんだかちょっとした料亭のようになっていた。朝起きたら水槽から飛び出した魚が床に転がって死んでいた、なんてこともよくあった。そして、父の釣りという趣味は死ぬまで続くことになる。好きなことを好きなだけとことんやる人だった。


◉自分の哲学が強い父
好き嫌いがはっきりとしている人だった。役人、警察官、自衛隊、自民党、天皇崇拝・・・そういった人たちを父は嫌っていた。正確には決まり事を正として変化や改善をしない事や人を嫌っていた。その辺りは僕もそのイズムを継承しているフシがある。

家族に向けては、家の中が散らかっている時と子どもがうるさい時がとても機嫌が悪かった。僕が子どもの頃から普段まったく怒らない父だったが、兄弟喧嘩などでうるさいと、よく怒鳴られて外に締め出された。そういえば、それ以外は怒られた記憶がまったくない。

死んだら墓には入らない、とも常々言っていた。僕と弟にも「そもそもウチは墓を作らないから自分が墓に入りたいなら自分で作ってくれ」と言い、「自分が死んだら灰を家の前の海に撒いてくれ」とも言っていた。墓やお寺、神社などで父が手を合わせている姿を見たことがない。母や僕らが母方の墓参りに行く時でも僕の知る限り父は必ず不参加だった。


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こうして思い返してみるとけっこう面白い父だった。家族の長、と言うよりはチームの要(かなめ)のような存在。吉森イズムというものがあるとすれば、確実にこの人の要素に依るところが大きい。

そのチームの要を失って一年、もっと喪失感が大きいだろうと思っていたけれど、意外と僕は寂しくはなく、今もふわふわとその辺にもしくは自分の中とかにボンヤリと父が居る気がしている。そして多分これは何年経ってもこのままの様な気もする。実際、僕は肺移植で父と弟に肺を分けてもらっているので、父がいなくなった今でも、僕が呼吸をするたびに僕の胸の中で父の肺が今も動いているという事実があり、そう言う意味では、まさに「自分の中に父が居る」と言える稀なケースでもある。

先日、母と弟と一緒に海への散骨を済ませた。父の骨は、孫五人を含む家族みんなで、「じいちゃんをこぼさないで!」とか「あ!じいちゃん吸っちゃった」とか言いながら、ワイワイと綺麗にすり潰して灰にした。この光景を父が見たらきっと嬉しそうに微笑むだろうと、多分あの場にいた全員が思っていただろう。まさに父の遺してくれた吉森イズムがそこにあった。

そしてまだ灰は残っているので、コロナが収束したらいつか家族みんなで、父の生まれた佐賀県まで灰撒きツアーに行く予定だ。

そうそう、父の生家は佐賀県で「吉森養蜂場」という小さな養蜂業を営んでいて、我が家には僕が小さな頃から必ず、レンゲやミカンの蜂蜜が一斗缶でたっぷりあり、砂糖の代わりに蜂蜜を使うことが常だった。という訳で「吉森」と「蜂蜜」の関係はとても深く、だから、父は8月3日(ハチミツの日)に逝ったんだ、と僕は今でもわりと本気で信じている。


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今、これを書いていて思い出したことがある。いつだかどこでだったかは覚えていないけれど、前に父と「生死感」について話したことがあった。

もしも魂のようなものがあるとして、無数の魂が川のように流れている場所があるとして、こうして何かの生き物として生まれた魂は実は極わずかで、大半の魂はただ大きな流れの中で流れ続けている。だとすると、この世に生を受けた命はすべて、それだけでものすごくラッキーなのだ、と。そしてこの先死んだとしても、僕らはまたその大きな魂の流れに戻るだけだから、そもそもこの世で生きられて、時間の中を過ごせたことを、ただ「良かったな」と思えばそれでいいのだ、と。何となく父らしくない話だったのでよく覚えていて、同時に何だか肩の荷が降りたような安心感もあった。

父と、男同士の親子として一緒に過ごした長くも短い46年間は、確かに、ただただとてつもなくラッキーで、ものすごく面白い出来事だったよな、と、47年目にして父のいなくなった一年間を過ごしてみて、今は思う。

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