#1 思っては消えていくこと
雨が降るなら
雨の日って、とんでもなく憂鬱。
洗濯物は乾かないし、自転車は使えないし。
でも、それによって生かされているというのも事実。
だから決めた。自分が変わろうと。
雨が降ったら、コンビニで甘いものでも買おう。
雨が降ったら、アイスをハーゲンダッツにしよう。
雨が降ったら、自分の読みたい本を買って、満足しよう。
雨が降ったら、家事の一つを明日の自分に任せよう。
雨が降ったら、あなたとの思い出を見返そう。
雨が降ったら、いつもより少しだけ、自分のために生きよう。
雨が降るなら、びしょ濡れで踊ればいいじゃない。
鬱々とした雨の日を、まず自分自身が、少し前向きになれたら。
その気持ちが周りに少しずつ広がって、すべての人の気持ちがが明るくなればいいな。
なんて思った雨の日の夜。
ブラック企業
ブラック企業を作るのは、愛社精神の強い人が多い世代だって話を聞いた。
それで思った。「ああ、きっと「できる」の強要をしたんだろうなって」。
何かが好きでのめりこむって、とてもすごいことで、何より会社に愛があるって、うらやましいことこの上ない。
でも、あなたと後輩の、成長速度って同じなわけなくて、根本にあるのは、その愛の深さが違くて。
だから、自分にできたから相手にもできるって、「できる」の強要が起こるんだろうなって。
人は人、あなたはあなた、私は私。
期待してないから、期待しないで。
働くって難しい、働きたくない、でも働くって楽しい、働かないと。
余白
最近、生きづらい社会になったなって感じる。
何もかも二極化されてる。
勉強ができるかできないか。仕事ができるかできないか。外国語が話せるか話せないか。運動ができるかできないか。誰かのことが好きか嫌いか。
そんな50%が認められない現代社会では、勉強が50%できる奴は、できてないところを見て怒られる。
仕事が50%できる奴は、「仕事が出来ないやつだ」とされる。
外国語が50%話せる奴は、外国に出ていかない。
運動が50%できる奴は、継続できない。
誰かを50%好きな奴は、失うだけ。
50%は、半分ないじゃなくて、半分もあるってこと。
もちろん、日によって40%だったり60%だったりするけど、一個だけ言えるのは、いつだって100%は無理ってこと。
でもピンチになったら120%出せるから、認めてほしい。
そんな、50%を認める余白みたいなものを、いつも探してる。
惰性
昨日を乗り越えて、今日も生きていたから、明日も生きていけるだろう。
そんな風に生きていたら、一生があっという間で、つまらなく感じるのかな。
でも実際、そんなもんな気がする。
生きているなら、常に前進しないといけないのか。
前進はしていたい。でも、昨日生きていた惰性で、今日を生きてもいいでしょう?
昨日はすごく、成長できたし人として大きくなれた、今日はどーする?って
いつまでもおんなじマインドを保って生きていくなんて、できっこないし、心が疲れる。
だから今日は、ギアをNに入れて、エンストしないように、クラッチを大切に生きていこう。
正解の教え方
この世の中の正解は、一つじゃないと思う。
数学だって、答えは一つのように見えても、解き方は無数にある。
だから、2をかけて計算して2で割っても、4をかけて計算した後4で割っても、答えは同じだったとしても、解き方としては違う。
たまに、合理的な解き方、スタイリッシュな解き方が、「最短ルート」だから正解だと思っている人がいて、それを誰かに押し付けているのを見かけるし、自分もその経験がある。
人生には、死ぬまでの壮大な暇つぶし。
その一番甘くておいしいところは、自分ができるようになっていく過程を、楽しむことにあると思う。
誰かの人生のその一番甘くておいしい部分を、自分が味わったときの感想で埋めてしまう人は、「何をそんなに焦っているのだろう」と、思ってしまう。
「良かれと思って」は時に猛毒にもなるんだな。
Noteがかけない
書きたくて、キーボードをたたいても、いい文章を書きたい気持ちに溢れて、いつも中途半端に終わってしまって、下書きがただただたまっていく。
そうだ、短く簡潔に、書きたいことを書こう。
自分の心の中にストレージを圧迫している、書きたいことを書くために、必要最小限に、書きたいことの核だけを書こう。
そんな風に思って、ただつらつらと、書きたいことを書いてみた。
誰かのためではなく、あなたのためではなく、ただ自分のために。
書きたいことを書いていこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?