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歪なカケラたち

「おい誠哉、手。そんなに痒いんなら外せって、それ」

 まただ。またやってしまった。
 食事をする時も、連れと街中をうろついている時も、仕事中の気怠い時間も、スマホゲームのスコアランキングを見ても……。
 何をするにしても、あの人と一緒に居ることができたらどんなにいいかと考えてしまう。
ありもしない妄想が頭の中を支配する。それは決まって都合のいい展開ばかりで、現実の世界に戻る度に反動で倍になった虚しさが毒のように身体中を蝕んだ。 

 ――かゆい。手の平が疼く。
 作業着の袖を捲し上げ、手元を見ると、無意識に手首までかきむしり赤くなっていた。筋状のかさぶたになっていたところさえ、また微かに血が滲んでしまった。
 つい先ほどまで握りしめていたスマホケースには、無理やりつけていたストラップが揺れている。その先端にはシルバー製の歪なモチーフのトップが控えめに輝き、存在感を放つ。

 高校の同級生だった吉村海斗(23)からは最近怒られてばかりだ。そしてその罵声は、俺にとって心地よくもあった。変な意味ではなく、なにがまともなのか現実に引き戻してくれる確かな存在だ。他愛ないことでふざけ合えるのに、高2から抜かされた身長と共に最近スーツ姿が板についてきたのもあり、頼りがいのあるオーラは増すばかりだ。

「 うーん……」
「いや外す気ねぇじゃん」

 このやりとりを繰り返し1年半が経とうとしている今、矛先は動物の生態系にありついた。
 これは本能だ。だから仕方ないのだ。
 狩りをするのが雄。支配したいのが雄。遺伝子を残したいのが雄。独占したいのが雄。大切なものを守りたいのが……。
 手に入らないものほど欲しくてたまらない。
 入りそうで入らないから、じれったくて躍起になる。余程良いものではないかと、脳ばかりが先行し美化していく。
 これではまるで駄々をこねているガキ同然。駄目だ。このままではあの人は振り向いてくれない。もっと頼りがいのある大人にならないと。
 俺はあの人がどうしても、欲しい。

  *  *  *

 白石花音(31)と出会ってから、自分の変化については自覚していた。
 当時まだアルバイトで、ガテン系の建設業など今日で辞めてやると毎日思いながらも、生きていくためには続けるしかなかった。海斗が紹介してくれた所でなければ、とっくに飛んでいたに違いない。その海斗自身は本社勤務で現場に顔を出す事など無いというから、上手く嵌められたものだ。

 あの日、いつも通り殺されそうな仕事量をこなし、汗に纏わりついた粉塵や泥もそのままに、腹の虫をなだめるため足早に事務所を出ようとした。
 上司や先輩方に仕方なしにしている挨拶ももう緊張しなくなった。いつも通り流れ作業のようにキャップを頭から外し声をかけようとした瞬間、目を疑った。
 事務所の出入り口の外で、仕事中も休憩中にも見たことのない楽しそうな笑顔の笠原修一先輩(32)に、俺は思わず変な声を出してしまった。

「お疲ぁ、えぇ~っ!? か、笠原先輩が笑ってる⁉」

 こちらに気付いた笠原先輩からは案の定、笑顔は見る見る消えていった。やはりいつも通り、般若の形相になったのはコンマ一秒の体感。

「殺すぞ! 鈴木ぃ!!」

 身震いしながらも見えたのは、笠原先輩の横で華奢な見た目からは想像できない程に大声で腹を抱えて笑う女性、それが白石さんだった。あまりにも笑っていたので、先輩は白石さんをはたいた。驚きから危機感へと変わる間もなく、それでもケラケラと笑い続けるその人とつられて笑い出す笠原先輩には、言葉にする必要もない信頼関係みたいなものが初見でも見受けられた。

 そんな出会いを機に、奇妙な関係が始まった。
 先輩はそれからよく飲みに誘ってくれた。白石さんもしょっちゅう一緒だった。
 毎度、笠原先輩の独擅場ではあったが、俺は白石さんの方が面白かった。
 学生時代の先輩後輩関係だという笠原先輩は、白石さんを『しらいし』ではなく『シロ』と呼んでいた。
 8歳も年上の白石さんは、独身とのことで、はしゃぐその姿やお酒のせいもあってか年齢差を感じさせなかった。かと思えば、般若がデフォルトのような強面の笠原先輩をいじったり、説教したり、フォローや世話を焼いたりと、姉御肌や聖母のような優しさまで多様な一面を見せてくる。
 なるほど、信頼したご主人様に懐くようなその無邪気さと健気さ。笠原先輩の気持ちが『シロ』と呼ぶ気持ちも、分からなくもない。時折、こちらに笠原先輩の圧を感じながらも、白石さんが話し出すと惹きつけられて仕方なかった。
 仕事はフラワーアレンジメントの教室を開いたりしているらしく、フローラル系の香水とは全く違う柔らかい香りに納得がいった。服の趣味はいつもバラバラで何が好みなのかよく分からなかったが、どんな時も左手にはいつもハードなデザインのシルバーのブレスレットをしていた。
 笑顔で温厚で華奢、そんな花のように優しい雰囲気には、白石さんには、……正直それは似つかわしくなかった。

「いつもつけてますね、それ」

笠原先輩と白石さんの笑い声を止めてしまったのに気付いたのは、変な沈黙の最中だった。しまった、と気付かない方がおかしかった。

「シロはよ~、抱かれる時もそれつけてんだぜ」
「まじっすか!?」
「先輩、一旦黙りましょうか」

 そう言って、3人分のお通しの卯の花を笠原先輩の口に無理やり詰め込む白石さんは楽しそうに笑っていた。
 その場は、また元の空気を取り戻した。
 笑ってもいい雰囲気を作れて、許される。笠原先輩は、大人だ。

お会計を終え、白石さんが化粧室に行ってくると離れた間、隣で今にも吐きそうな笠原先輩が言った。

「わりぃ、シロのこと駅まで送ってやって」
「先輩は大丈夫っすか」
「気にしなくていいけど、俺が無事家に帰れたか聞くメールくれや」
「なんすかそれ、めんどくさいっす」
「なぁ、アイツはやめとけよ」

 一瞬、身体中を熱いもので撃ち抜かれる感覚に襲われた。

「せ、先輩、飲みすぎですよ。むしろ俺はなんで先輩たちがそういう関係じゃないのかが不思議です」
「俺らくらいの歳になったら分かるよ、この気持ち悪さが…うっ」
「え、まじ、先輩ここはまずいっす」
「はいお待たせしました、氷ギャンギャンのレモン水!」

 白石さんが間髪入れずにレモン水を笠原先輩に飲ませていた。
 トイレに行ったんじゃなかったのかよ。
 なんだか羨ましすぎる二人の関係を見せつけられ、俺も吐きたい衝動に駆られた。

「鈴木くん、氷多めのレモン水覚えといてくださいね。キンキン超えてギャンギャンに冷えたやつがいいみたい。ほら先輩、飲んだらとりあえず出ますよ」

 先輩をなんとかタクシーに乗せ、俺と白石さんは駅へと歩いた。横並びの俺たちの間には、妙な一定の距離が保たれていた。
 話題と話題の間にできる、束の間の沈黙が、俺を試しているようだ。白石さんはといえば、鼻唄混じりで夜空を見上げご機嫌な様子だ。酔っているはずなのに、とても落ち着いた余裕を見せていた。
 白石さんも、大人だ。

 駅に着き、改札の側で立ち止る。

「ありがとうございます、送ってくれて」
「いえ」

 不思議なほど、時間がゆっくりに感じられた。

「手のかかる先輩でごめんなさいね。じゃあ、また今度」
「あの、念のため、白石さんの連絡先も聞いておいていいですか」
「はい、構いませんよ」

 気まずい間を作らない代わりに、目が少し丸く見開いた気もしたが、即答だった。それとも何もかも見透かされているのか、こういう人なのか、まだつかめないまま微笑む白石さんと連絡先を交換した。

 別れた後、俺は笠原先輩へすぐメールをした。

〝今、白石さんを駅まで送り届けました。”

 そして、聞いたばかりの白石さんにもメールを打つ。

〝鈴木誠哉です。今日もお疲れ様でした。気を付けて帰ってください”

 意を決して送信する。
 間もなく、受信されたメールを急いで開く。

〝殺すぞ、俺の無事を心配しろ! おやすみ”

 誤送信したのかと、思わず送信履歴から宛先を確認する。大丈夫。
 間髪入れず、また受信メール。白石さんだ。

〝こちらこそ、いつもありがとうです。また飲みに行きましょうね。白石花音”

 花音。やっと下の名前を知ることができた。似合いすぎて、テンションが上がる。調子に乗って、もう一つの賭けに出る。

〝今度は二人でいきませんか”
〝いいですよ、楽しみにしてますね!”

 絵文字も顔文字もないそのメールがたとえ社交辞令だったとしても、世間でいう大人というものにやっと対等でいられているような気がした。歳の近い女友だちからの電話の着歴やメッセージなど開くことなく、白石さんとのメールのやりとりを何度も読み返していた。

 それから、何度か二人きりで会った。
 お酒を飲みに行くこともあれば、お茶だけしたり、街中を歩いたり。それ以上の何かを求めるような事もしなければ、お互い何かを意識しているような。そんな時間がもどかしくも楽しかった。
 先輩後輩でもなく、友達でもないような不思議な関係。
 笠原先輩と飲む時ほど白石さんは笑い転げないのが、少し悔しかったが、それ以上に俺の話を心地よさそうに聞いてくれる姿が嬉しくもあった。
 だからなのか、まだ告白などできずにいた。

 白石さんの話をする度、海斗は笑った。

「可愛がられてるだけだろ」

 でも、俺はどこかそれ以上の何かを感じずにはいられなかった。期待など、最初からしていた。

 初対面の日から、笠原先輩とも職場で話す機会が多くなった。
 ただ、白石さんと二人で会っていることは言っていない。聞いてもこなかった。それでも変わらず以前と同じように3人で飲みに連れていってくれた。人生の先輩としてもいろんな事を教えてくれる兄貴のような存在は、少し優しい般若になっていた。

 同世代の少ない仲間たちが今や社会にでて、スーツが似合うようになってきたこと。そんな彼らとバイトの自分との境遇を比べてしまい、特にやりたい事も無い俺の中途半端な焦りすら、相談すれば二人とも親身に話を聞いてくれた。

「収入とか面白味とかやりがいとか、なにを基準とするかが大事ですかね。まぁ先輩はそれで女を選びましたけどね」

 白石さんの一言が頭に残った。

「おまえ、言い方に気を付けろよ」
「そうじゃないですか~、愛する嫁を守るために命かけて家を建てるんだーって! 仕事に燃える男、笠原パイセンかっこいい!」
「おまえな、……もっと大きい声で言え!」

 やはり、二人の掛け合いが羨ましい。
 般若も笑顔になるのがわかる。

 そして先輩は、無理ならそれでいいから一回なにかにマジになってみろ、と上司に口利きしてくれ、俺は正社員になる決意をした。
 稼ぎも少し上がった。自信がつけば、仕事も面白くなってきた。現場の人たちからもお節介が過ぎる程に可愛がられた。

 正社員としての初給料で俺は、白石さんを誘った。
 二人きりの時、ご飯代は白石さんが出そうとするのだが、俺はそれを断り続け割り勘でと押しきっていた。だから今回は尚更、俺がリードしたかった。

 中学生のようなデートコースを手も繋がずにお喋りをしながらまわり、まったりとした時間が過ぎていく。
 予想通り、白石さんは奢られることを拒んだが、俺の気持ちを汲んで立ててくれたのか、申し訳なさそうに笑って食事のお礼を言ってくれた。
 俺はその日、確信に迫ろうと決めていた。
 意味ありげな左手のシルバーブレス、ずっと彼氏をつくっていないこと、脈なしとは思えない俺への対応。
 聞きたいことは山ほどあったのに、帰り際まで持ち越してしまった。

「今夜は本当にごちそうさまでした。まさかこんな若い子にご馳走して頂けるなんて」

 そう言って笑う。また予防線を張られた気がした。

「ありがとうございます、じゃあ気を付けてね」

 何も言えぬままあっさりと帰ろうとする白石さんの手を、思わず掴んだ。

 ――わっと重なる声が響く。
 掴んだ左腕の、歪に尖ったシルバーのブレスレットが俺の袖に引っかかってしまった。
 刹那、嫌な音と開放感が訪れた。カシャンと冷たく鳴る高音に、血の気が引いていくのが分かった。
 それの付いていない左手首が一層華奢に見えた。

 かがんで拾い上げる白石さんの髪が顔を隠す。
 それを俯瞰で見て、事の重大さにようやく気付いた。
 白石さんは、いつものようにくすくすと穏やかに笑っていた。

「あらー、ついに切れちゃったかぁ」
「うわぁぁ!! ほんとすいません! どうしよ、弁償しますからっ」
「大丈夫、大丈夫! むしろごめんなさい、引っかけちゃって」
「マジ、すいません!! 大切にしてたやつなのに…俺のせいで」
「あはは、このコもまだ帰りたくなかったのかな」

 何事も無かったように笑って、ポケットに直した。
 このコも、ってなんだよ。いや、今はそれどころじゃ……。
 あぁ、最悪だ。

「もうー、そんな顔しないで! 本当に大丈夫だから。ほら、終電逃しちゃうから行きましょう」

  もう一度、ご馳走さま、そうお礼を言って白石さんはエスカレーターでホームへと消えた。
 自分の乗る電車の最終便を告げるアナウンスで、俺はやっと重たい足を動かした。

 人間の習慣っていうものはすごい。
 これも生物の帰巣本能というものか。
 頭の中は真っ白で、ただただ罪悪感だけが渦巻く身体は自分の降りるべき駅でちゃんと下車し、歩き、帰宅できていた。
 ベッドに倒れ込み思う。海斗に相談、いや、笠原先輩に報告するべきか。顔合わせられないな。仕事も辞めたい。いっそ殺してくれないだろうか。と、それでも誰かを頼ろうとする自分ばかりで、ひどく落ち込んだ。
 俯瞰で見た白石さんのかがんだ姿だけが何度も再生された。

 メールの受信音。
 今は何もかもどうでもよかったが、白石さんにもう一度謝罪のメールを送らなくてはと、スマホを手に取る。
 暗い部屋には目が痛いほどの眩しい画面。
 俺は飛び起きた。白石さんだった。初めて、白石さんから送られてきた。

〝今日はありがとね。明日の夜、空いてたら少しでも会えないかな?”

  いつになくフランクな文面とお誘いに、俺はまたもやパニックだった。

〝もちろん空いてます。さっきは本当にすみませんでした”
〝じゃあ、仕事終わったら連絡ちょうだいね。あと、それ以上謝ったら丸坊主に処す!! おやすみなさい”

 丸坊主でもなんでもいい。あんなひどい事をしてしまったのに、この人は俺を喜ばして何のメリットがあるのだろう。
 早く明日の夜にならないかと、眠ろうとすればするほど眠れなかった。何度もメールを見直しては、朝陽がようやく迎えてくれた。

 その夜、いざ会うとなってもどんな顔で会えばいいのか分からなかった。
 謝るなと言われても、謝らなくていい訳がない。大切な人からもらったものかもしれない。同じものが売っているかも分からない。
 壊れたものは、そう簡単に戻らない。
 待ち合わせの場所に着くと、俺の気も知らないで白石さんは無邪気に手を振って駆け寄ってきた。

「これ、良かったら貰ってくれませんか?」

 二人だけでよく行く居酒屋で席に着くなり予想していなかった言葉に、驚くしかなかった。
 手渡された小さな封筒のようなものから中身を取り出す。
 何度も目に焼き付けたシルバーのブレスレットの、歪なモチーフの連なっていたひとつが、レザーの紐に通されストラップになって揺れていた。

「え、これって……」
「かっこいいでしょー、私って天才じゃない?」

 その笑顔は、笠原先輩といる時と同じ悪戯そうな満面の笑顔だった。
 見惚れていたら、左手首を目の前に突き付けられた。
 そこにあるべきシルバーのブレスレットがあった。

「もう十何年付けてるからね、体温でシルバーが伸びたのか、ゆるくなってるとは感じてたの。この一個ずつを繋げてる輪っか、丸カンっていうの? それも伸びて外れたみたい。だから縮めたの」
「でも、それならもとの長さにも戻せたんじゃ……」
「んー、ひとつ縮めた方がなんだかサイズピッタリだし」
「……も、元カレさんのとかでは」
「なにそれ、そんな訳ないでしょう! まぁ要らなかったら処分していいからね」
「いや、一生大事にします!!」

 大きな声で言ってしまい、周囲の好奇な視線を感じた。
 白石さんは顔を隠しながら、笑いをこらえていた。
 違う意味に聞こえることに、ようやく気付く。

「ほんと、熱い男だねぇー」

 耳まで熱くて赤くなっていることに自分でも分かったが、そんなものはどうでもよかった。すぐにスマホのケースに取り付けた。
 覗き込むように白石さんの顔が近づいた。
 いつもの100万倍の優しい声で話し始めた。

「それね、お守りなんだ」
「…誰か、からもらったんですか」
「二十歳の頃かな、アメリカで買ったの」
「アメリカっすか⁉」
「うん、私もその頃に色々と迷っていたから。自分の進むべき道を見失わないようにって願掛けしてね」
「俺、そんな大切なお守り、壊したんすね」
「何言ってるの、ミサンガとかもそうでしょ。切れたら願いが叶うってやつ。だから、これもタイミングだったのよ」

 俺は白石さんから目が離せなかった。

「壊れても、新しいものが作れる。私の仕事もそう、お花はいつか枯れるけど、またいつか綺麗に咲くために種を残すのよ。誠哉くんもさ、正社員になったばかりで不安もあるだろうけど、素敵な仕事でしょう。そうしていつか、守りたいもの見つけられるといいね」

 少し遠くを見つめて微笑む顔が店の窓に映り、俺は外の夜景を見るふりをして反射した白石さんを見た。
 下の名前で初めて呼ばれた夜だった。

  *  *  *

 自販機からガシャンと落ちた音の方を見た。
 海斗はいつのまにか缶ジュースを2つ買っていた。自分には冷たいコーヒーを、俺にはグレープソーダをくれた。

「まだ会ったりしてんの」
「こっちが誘えばって感じ」
「それってさー、そーいう事なんじゃねぇの」
「……なんか、うまくいかねーんだよなぁ」
「だって、いつからだよ。俺もう何回おまえに同じこと言ってるか」
「それに関してはほんとすいません」
「さっさと一発ヤっちまって切っちゃえよ。ってか歳的にもう無理だろ」
「そこデリケートゾーンだからな」
「まったく、何がいいんだか。こっちも、あっちも」

 直接的に何も言わなくても分かってくれている海斗が、また大人びて見えた。

「あ~、海斗が女だったらいいのに」

 あたりまえのようにくれた俺の好きなグレープソーダのお礼のつもりで言ったのに、海斗は吹き出し、むせていた。思わず俺は笑ってしまった。
 辺りにコーヒーの香りが漂う。

 今思えば、このストラップをくれた日、白石さんが話していたことは全て嘘だったのかもしれない。
 あれ以上俺が気にしないようにと。
 あの窓の向こうに何を、誰を見つめていたのか。
『抱かれるときもつけてんだぜ』
 ふいに、笠原先輩が言っていた言葉を思い出す。
『進むべき道を見失わないようにね』
 少し甘えたような声で、言い聞かせるような白石さんの言葉も思い出す。

 俺がいつも握りしめているせいかもしれないが、初めて知ったんだ。
 自分が金属アレルギーだったこと。
 あの日以来、白石さんを想わない日がないこと。
 こんなにもうまくいかない恋があること。
 誰もがみんな、何かを抱えていること。
 それでも繋がっていたくて、壊したくなくて、でも距離を縮めたくて、俺はまた白石さんを誘うためメールを打つ。

「気持ちわりぃなー」

 口許のコーヒーを拭い、むせながら言った海斗の言葉にはっとする。

 あぁそうか。
 いつか、吐きそうになりながら言っていた先輩の気持ち悪さって、このことか。

                               了

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