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8.26 雑記 

※映画『ルックバック』のネタバレがあります。

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 ドイツ語には「懐かしい」という意味の言葉がないらしい。

 類似する言葉として、「nostalgisch」などはあるらしいけど、かなり文語的な表現で、かつ堅苦しい言葉として存在している。ドイツ語しか話せない人は、懐かしさを感じたときには、いちいち文で説明する必要がある。

 映画『ルックバック』を見に行った。たったの1時間しかない映画で私は30分泣いていた。泣く気で行ったのだから驚かなかったけど、こんなにアッサリ泣かされて恥ずかしい気もする。でも藤野の虚栄心の高さや、行動力の高さゆえの危うさにはどうしても共感してしまうので、初見で見たとしてもきっと20分は泣いていただろうと思う。まぁ10分は泣きに行っていた気もする。

 友達と映画館を出て、ビルの明かりと人でまだにぎやかな街を歩いた。映画の感想を言い合っていて、ある話題に差し掛かった。「京本の家に、藤野が卒業証書を置きに行くシーンあるじゃん。それで、藤野が即興で書いた4コマ漫画が、引きこもってる京本の部屋に入っちゃってさ。急いで藤野は家を出るけど、その後を京本が追うでしょ。あそこ印象的だった。」と言った。私はそこが最も好きなシーンだったので、興奮しながら大いに共感した。しかし友達は続けてこうも言った。「なんか、京本のことを人格者として見習わなきゃなって思ったんだよね。自分より絵が下手な人を褒めるって、よっぽど人ができていないとできないと思うんだよ。」

 あー、やばいかも、と思った。
 京本は表面的な「絵のうまさ(それも主観的な)」なんて全く見ていなくて、とにかく藤野の4コマ漫画が好きで好きで、元気を貰ったりクスッと笑えるところに本当に救われていたんだろう。京本は心の底から藤野を尊敬していたと思う。普通「先生」なんて、小学生の女の子は呼ばれない。しかも同級生からの言葉でほとんど初対面で、ままごとをしているわけでもないのに。と、説明を何回かしたけど、友達は結局「?なるほどね、あー。私も人格者になりたいなぁ」と言っていた。

あー。言葉なんかなければいいのに。伝わらないのが本当に本当に本当に本当にもどかしい。今、私の気持ちが伝わっていないと人生であと何回思えばいいんだろう。言葉なんかがなければ、この気持ちは諦められる。というか、私の気持ちが人に伝わったことなんて、そもそも人生で何回あった?私の言葉選び、説明の力、表現力、気力、相手の傾聴の力、読解力、2人が共有する文化の解像度、言葉への信頼、周りのうるささ、その時の心の余裕や、体調だってきっと言葉を左右する。あー、あー、あー、くやしい。絶対に京本はそんなことを思っていないのに。京本は人格者じゃない。同じものを見て、かつ説明を何度もしても、こんなに伝わらないことがあるのかと思うと気が狂いそうになった。言葉なんかなければこんな思いをすることはなかった。

 紙で指を切ったときの痛みは、同じレベルの痛みとしてすべての人が共有できるものなのか。同じ体験をして同じ言葉の感想が出たとしても、同じことを感じていると言えるのだろうか。応援しているアーティストのライブに行って「その場にいる人の気持ちがそろっていた」なんて本当にあるのだろうか。慣れや心の調子、体質で痛さの度合いが違う。それまでの体験や語彙の量のバラツキで同じ言葉を使ってしまっただけ。みんな違う思い出や経験があって、思い浮かんでいることが違う。美味しいと感じるものが違う。不味いと感じるものが違う。アレルギー反応が出るものが違う。言葉なんかで気持ちを共有しようだなんて無茶なことを私たちはしている。そんなに気持ちを共有したいのか?したい。

 高校の時に所属していた部活で、顧問にイラつきすぎて大嫌いだった時期がある。それは当時の部員8人とも思っていて、あるときそれが爆発して、みんなで部室で泣いたことがある。詳しく言うと、2人くらいは泣いていて、1人はバッグを蹴っていて、3人くらいは延々と愚痴を言っていて、後の2人はオロオロとしていた。何がきっかけでそういう状況になったのかは覚えてないけど、わたしは「みんな少しずつ顧問の何が嫌なのかとか、なんで泣いてるのかの理由が違うね」と言った。3日後くらいにその時いたうちの一人から、「あれ、本当にそうだね。」と丁寧に共感された。

 大学に入ってからは、「同じものを知っている」ことで、人と分かりあいたいと思うようになったから、競技クイズを始めた。知を愛していたわけではないけど、名作と言われる本や映画、漫画、はたまたアカデミックの世界の著名人、自然現象の名前、美術作品、言語、宗教、スポーツ、観光地、国、星の名前を知っていることで、言葉一つで説明するより、作品の厚みをもって、または特定の単語だけが持つニュアンスをもって、人と気持ちを共有できるようになるのではと思った。結果的に一定量の「世界共通」の知識を持つことができた。が、相手がそれらを知らなければ、この努力も何の意味もなくなるという脆さは依然としてあるままだ。

 言葉なんてなければいいと何度も思ってきたけど、私はことばが好きだ。
唯一無比に表現できた時の気持ちよさ、日本語にはない表現を他の言語で見つけられた時、日本語と同じような言い回しの仕方を他の言語で見つけた時の不思議な驚き、1単語で言いたいことが伝わったときの同じ世界観を共有している感覚、絵や映像にはない距離の近さ、既知の単語に違う意味があると発見した時の嬉しさ、ことばはあまりに魅力が多い。ちなみに、好きだけど嫌いといった感情のことを、日本語では「愛憎相半ばにする」と言うが、英語でも似たような表現で「love-hate relationship」と言うことができる。

 最近の私の趣味は短歌を見る・詠むことだ。これまでの人生をたどれば、私が短歌を好きになるのは必然であるように思う。31音で気持ちを伝えるという無茶に無茶を重ねた試みに、今まで多くの人が心酔してきていて、私もその一人になろうとしている。まだ完全に「ハマった」とは言えないけど、最近いろいろよんでみている。

 こういう背景があるので、私が急に短歌を引用しだしたり詠みだしたりても、引かずに「あー、気持ちを伝えようとしてめっちゃ必死なんだんだなぁ」と暖かく見守っていてほしい。


偶像の破壊のあとの空洞が多分ぼくらの偶像だろう

松井秀『5メートルほどの果てしなさ』


(了)

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