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新里愛蔵さんの思い出

 新里愛蔵さんが亡くなられた。

 私が、沖縄の音楽に出会い、中野の沖縄コミュニティにたどり着き、今は与論島へ至ったきっかけになった人物だ。

 当時の事を少し思い出してみる。

 2001年の5月、バックパッカーだった私が、タイのチェンマイの安宿に宿泊していたとき、外のフリースペースで三線を弾く謎の老人と出会った。

 THE BOOMのヒット曲「島唄」の影響で、沖縄の音楽に興味があった私は、声をかけて唄と三線を習い、タイの安酒を飲みながら彼の唄を聞く数日間を過ごした。

21年前、初めて三線を弾く私

 分かれ際の連絡交換で、「東京の「中野」で「山原船」という店をやっているからおいで、「三線愛好会」をやっているから、来るといい」そう言われた。突然のキーワードが3つ。

 その後、半年間の旅を終えて、大学に復学し、日本の暮らしに追われるようになった頃、ふと思い出して「中野」の「三線愛好会」に行ってみようと、会の代表に連絡したときには、すでに愛蔵さんは「山原船」をたたみ、チェンマイに移住した後だった。

 「三線愛好会」は別の沖縄料理屋で続いていたので、毎週島酒を飲みながら、どっぷり沖縄音楽に浸り続けることになる。

 愛蔵さんはチェンマイに暮らしながら、一年に一回、東京でライブ活動をする生活を、体調を悪くして沖縄へ帰るまで数年続けた。

 当時、東京の中野、特に中野駅北口にある昭和新道には、複数の沖縄酒場がありった。沖縄出身者、沖縄好きのコミュニティだけでなく、ただの酔っ払い、音楽好き、奄美諸島出身者、アイヌなど色々な人々が集まり、不思議な世界を作っていた。私は三線愛好会に参加し、沖縄の音楽に触れ、意味も分からず、東京にもあった、旅続きを楽しんだ。

 思い出すのは、新宿の歩行者天国でのこと。愛蔵さんが泡盛の一升瓶を脇に唄っていると、いつのまにか音楽好き、沖縄好き、酒好きが集まり、そこは大宴会の場になってしまうのだ。都会のど真ん中で、あり得ない話しだ。

 彼の伝説の沖縄料理屋「山原船」もそんな店だったと聞く。だいたいの事はいい加減(てーげー)だけど、愛蔵さんがいるだけでそこは沖縄になり、人が集まる。それだけの懐と魅力があった。今思うと、僕らは偶像としてそういう彼を望み、巻き込まれに行っていた気もする。

 出会いの多い愛蔵さんは、私の事を覚えいなかったと思う。それでも、東京から、後に与論島へ離島へ移住してしまうことになる私のきっかけは、あの出会いだった。

 愛蔵さん、ご冥福をお祈りいたします。

愛蔵さんと伝説の沖縄料理屋「山原船」については、下川裕治さんの著書があります。
沖縄、中野の歴史的背景がよく分かります。
下川さんと、中野の仲間と共にチェンマイの愛蔵さんに会いに行ったのも思い出です。



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