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爺さんがいた夏

 コミケの原稿を脱稿してから多少の反動があり、1週間ほどVARORANTと原神しかやっていなかった。そろそろ書き始めなければならないと思ったので、リハビリがてら書いていこうと思う。

 この前、死んだ父方の爺さんのことを思い出した。きっと戦争を振り返るテレビ番組を場末の食堂で見かけたからだと思う。昭和初期に生まれたぼくの爺さんは戦争を幼少期に体験し、高度経済成長期から平成を生きた人だった。ぼくの実家は三世帯住宅だったから、父方の爺さんと婆さんと一緒に住んでいた。だから小学校で「戦争の話をおじいちゃんやおばあちゃんがいる人は聞いてくるように」という夏休みの課題に苦労することはなかった。

 ー自分がすんでいた当時の地元は田舎だったから、空襲が来ることはなかったな。ただB29がどこかを襲った帰りに見かけることはある。悠々と飛んでてな……そこにすっと雀みたいな大きさのゼロ戦が単機で向かっていく。するとポン、ポン、って音がしてな、そうするとゼロ戦のほうだけ煙を上げて落ちていくんだよ。あれを見たときに、日本は負けるのかなって子供ながらに思ったんだ。それで日本は昭和20年の8月15日に負けた。でもじいちゃんは戦争中、自分は将来特攻隊になって戦艦に突っ込んで死ぬんだと思ってた。だから今でも、そういう夢をみて起きることがあるんだ。

 この話を聞いたときは夏だったから、地元の空に飛ぶB29とゼロ戦の想像には大きな入道雲が浮かんでいた。爺さんの語りは今と変わらない一直線上の時間の流れの中で、確かに日本が戦争をしていた時期があったことを確かなものにさせるには十分すぎるほどの語りだった。爺さんは子供で戦地にはいかず、空襲がなかったけれども、そこには一つの戦争が確かにあって、それは戦争が終わって何十年も経った後でも重く爺さんの上に残り続けた。ぼくは聞いたことをまとめて、学校に提出した。

 爺さんは、酒が全く飲めない体質だった。昭和の気風があったにもかかわらず下戸というのは苦労が多かったに違いない。代わりにということで、煙草を長い間吸っていた。それがおそらく原因になったんだろう、ぼくが5歳のころに肺炎になってそこから7年間闘病することとなった。

 肺炎になる前、ぼくを自転車の後ろに乗せて、家の回りをよく走ってくれた。幼少のぼくは、自転車の後ろに乗りながらいろいろなところを見て回るのが好きだった。あの頃は家の周りにある草木や虫、小動物の何もかもが新鮮で面白くて、好奇心を掻き立てるものだったと思う。爺さんはぼくを後ろに載せて走りながら、いろいろな童謡を歌ってくれた。赤とんぼとかふるさととか、日本の昔の歌は爺さんから教わった。

 趣味で指す将棋を教えてくれたのも爺さんだった。ツノ銀中飛車とか金矢倉とか、ぼくが使う戦法が昔の戦法なのにはこの辺りが理由になっている。爺さんが将棋を教えてくれたおかげで、現代の戦法が蔓延る中、金矢倉裸一貫、小学生限定大会で入賞した。多分あのころが、一番将棋が上手かったころだと思う。

 そんな爺さんだったが、ぼくが12歳の夏になったころに肺炎が酷くなり、ついに入院することになった。爺さんを病院に運んでやりたいが、身体を起こせず車で運ぶことができない。行きつけに相談したら、もう救急車を呼ぶしかないという話になって仕方がなく呼んだら、サイレンを鳴らしてくるものだからご近所が出てくる騒ぎになってしまった。家の庭で担架に乗せられていく爺さんを見ていると、隣のおじさんが生垣越しに話しかけてきた。

「大丈夫。よく庭で君のおじいさんはアンタが20歳になるまで頑張るんだって話してたから。結婚までは無理だろうけど、成人までなら頑張るんだって。そういう風に話してた。だから、きっと大丈夫だよ」

 爺さんはそれから1ヶ月後くらいに病院で死んだ。その日の関東は猛暑で、爺さんを乗せた霊柩車を見送るとき、体中に汗が噴き出してそれがTシャツとズボンに張り付くようだったことを覚えている。今日の最高気温は35度らしい。間抜けなほど青い空と湧き上がる入道雲、そして肌にへばりつく汗は爺さんがいたころの夏と同じだ。今年の盆はスケジュールの都合で墓に行ってやることができない。心配になって化けてこられても困るので、次の年末には行ってやろうと思う。

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