昭和の思い出〜給食

戦後の学校給食は、貧しい家庭の児童も栄養のある食事を食べれるように、という目的から始まったという。私が小学校に入学した時はすでに牛乳が出されていたが、その前までは脱脂粉乳だった。今はご飯が中心らしいが、私の育った横浜市はご飯の導入が遅く、最後までパンだった。

ところで実は私は給食のせいで登校拒否になりかけた。小学校1年生の時の担任は年配の女の先生で、まだ戦後の食糧難の時代の空気が残っていたのだろう「給食は残してはいけません」と厳しく指導された。
だが子供ながら「甘い煮物に食パンにマーガリン、しかも牛乳って、何?」「おでんとパンとジャム?あり得ない!」と完全に受け付けられず、元々少食な子だったせいもあり、給食のお盆が目の前に置かれたとたん食欲がなくなり、当然ほとんど食べれず、先生にも叱られ涙する毎日だった。しかも食べ残したパンを給食袋(懐かしい!)に入れ、ランドセルに吊るして下校していたら、パンの匂いに釣られた野良犬(今は地域犬、ですね)に追いかけられ、泣きながら帰ったというおまけまでついている。そう、私の給食に関する思い出は悲惨の一言なのだ。

しかし天は私を見放さなかった。1年生の夏休みから学校が建て替え工事を始め、給食がなくなりお弁当になったのだ!それから私は人が変わったように活発になり、学級委員も務め、打って変わって順調な小学校生活を送ることが出来た。
給食が再開したのは3年生の頃だったろうか。その頃には「絶対残すな風潮」は薄まり、私も多分食べ盛りになっていたのだろう、あまり困った記憶はない。
しかしあの1年生のほんの数ヶ月の経験はずっとトラウマとなって残り、40代半ばまで定食が苦手だった。目の前にお盆で食事一式置かれると、食欲がなくなってしまうのだ。

さて今回学校給食について調べていたら、偶然子供の私が信じられなかった「煮物とパン」の原因を見つけた。当時のアメリカの小麦の余剰分が日本で学校給食として用いられたらしいのだ。もちろん米食しか知らなかった日本人にパンを広めるためもあったようだが。
その目論見にまんまとはまり、私も含め今の日本人がパン大好きになっているのは、ちょっと後ろめたい気がする。

当時と比べ食生活は段違いで豊かになり、私たちの周りには美味しいものが溢れるようになった。その反面、今の日本でも、貧困で本当の意味で給食を必要としている子供が少なくないという話を耳にする度に、何とも胸が痛む。そして今、コロナのせいで、給食はお喋りせず黙って食べなくてはいけないらしい。早く友達と楽しく給食が食べれる日が戻るよう祈るばかりである。

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