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「アテラ」2 卑弥呼の弟?


 「アテラ」とは誰か?  

 3 卑弥呼の弟?

 卑弥呼とはだれなのか?

 卑弥呼は人には会わない。そして唯一人会うことのできた弟とは?

 初代斎王であったトヨキイリヒメ(豊鋤入姫)とその次の斎王であるヤマトヒメ(倭姫)は女王ではなかった。
 
 そのときの王はミマキイリヒコイニエこと崇神天皇であったことになっているが、これまでに述べたようにその時にはすでに亡くなっている。西暦180年崩御したといわれる。崇神天皇の御陵は行灯山古墳である。その墓誌の調査資料からはそう解読されるという。そして、行灯山古墳を造ったのはイクメイリヒコイサチこと崇神天皇の皇子であった垂仁天皇である。崇神天皇の娘であったトヨキイリヒメから垂仁天皇の娘である倭姫に斎王が変わったのもそういう経緯であった。つまり、斎王としてトヨキイリヒメがアマテラスの御魂を宮中から出して祀ろうとしたときの実年代は、垂仁天皇とその娘であるヤマトヒメの時代ということに。

 トヨキイリヒメについてもう少しつけくわえると、彼女は崇神天皇の娘ではあったが、実の子ではない。崇神天皇の皇后であったミマキヒメの子は垂仁天皇とヤマトヒメとヤマトヒコであり、トヨキイリヒメとトヨキイリヒコはミマキヒメの連れ子であったといわれる。

 ミマキに入ったはイニエはミマキに居たミマキヒメと結ばれミマキイリヒコイ二エとなり後に崇神天皇と呼ばれた。そのときまでにミマキヒメには配偶者があり、トヨキイリヒコとトヨキイリヒメが既に生まれていたといわれる。その後、イニエとミマキヒメとの間にイサチとヤマトヒメが生まれたのであった。

 ミマキとはどこか?
 
 御間城と書かれるが、これも固有名詞としての地名ではない。"間の城”である。"間”とは"東征”している"間”のことで、"神武”として東征している間の城、つまり、豊の国にあった城のことである。

 イニエは豊の国に居たミマキヒメと結ばれ、トヨキイリヒコとトヨキイリヒメの父となったのである。実の父はイニエではなかった。ここでも、豊の国の王位を継ぐためにはその王の娘との婚姻が必要となる。イニエの子で後に垂仁天皇となるイサチは日子坐王の娘サホヒメとの、古くは大国主もスサノヲの娘であったスセリヒメとの婚姻が王位を継ぐための必須条件であった。

 トヨキイリヒメは豊鋤入姫と書かれるが、トヨキイリヒコは豊城入彦と書かれる。つまり、ミマキは御間城こと豊城のことであった。

 トヨキイリヒコとトヨキイリヒメの母はミマキヒメではなかった。トオツアユメマグワシヒメ遠津年魚眼眼沙姫であった。ミマキイリヒコとなったイニエと同様に、トヨキイリヒコ、トヨキイリヒメとなったのは豊城に入ったからである。トオツアユメマグワシヒメとはナカヒメやミチキマドと姉妹兄弟であり、その母は紀国造の娘であるアラカワトベ(荒川戸畔)であるといわれる。

 トヨキイリヒメとヤマトヒメがアマテラスを祀るために"巡行”したのは奈良の三輪山の檜原神社から笠山坐神社、天神社を経て、京都丹後の籠神社(与佐宮)に移り、再び奈良与喜山の與喜天満神社に戻り、和歌山秋月の日前神宮、伊勢部柿本神社を経て、岡山の伊勢神社、吉備国内宮、穴門山神社を経て、奈良三輪の大神神社にもどり、その後は奈良、三重、滋賀、岐阜、愛知、三重と移っていった。その数38社目に伊雑宮に、39社目にやっと伊勢内宮に鎮座したといわれる。紀伊半島を多く巡ったのも紀国造の家系であったからか。

 豊の国は今の九州のオオイタ(大分)である。ここに崇神天皇となるイニエも、その皇后となるミマキヒメも、垂仁天皇となるイサチも居たのである。イサチはミマキ(御間城)ではなくイクメに入りイクメイリヒコとなった。イクメも九州であり、紀家元も九州の出自であるから豊の国とはかかわる。

 ここで神武天皇について確認してみよう。神武天皇はウガヤフキアエズとタマヨリヒメの子であり、皇后はヒメタタライスズヒメであった。ヒメタタライスズヒメは出雲の王の娘であった。出雲の王位を継承した神武天皇の皇后は確かにヒメタタライスズヒメではあったが、父と母は別にいたはず。なぜなら、ヒメタタライスズヒメと結ばれたのは国譲りのときの武御雷でもなく後に神武天皇とよばれたサノでもなかった。出雲の王の娘ヒメタタライスズヒメと結ばれたのは迦毛大御神こと加茂別雷であった。この人物が後の古事記で藤原史によって武御雷とされた。そして彼は大物主とも呼ばれる。大物主の妻は賀茂タマヨリヒメである。ウガヤフキアエズの妻もタマヨリヒメである。九州に居たタマヨリヒメは豊の"タマヨリヒメ”であったことに。そう創作したのは稗田阿礼こと藤原史であったといわれる。

 つまり、神武東征を行ったのは神武天皇と呼ばれた加茂別雷でもなく、サノでもなかった。後に神武天皇と呼ばれたカムヤマトイワレヒコは実際には加茂別雷であり、大物主であり、出雲の王の娘を娶った大神であったことになる。そして、神武東征を行ったのは後に崇神天皇と呼ばれたミマキイリヒコイニエであった。そのためにこそ大神である大物主の子である本当の神武天皇は崇神天皇の前から消えてもらわなければならなかった。

 つまり、本当の神武天皇である加茂別雷こそがカムヤマトイワレヒコであった。母は賀茂のタマヨリヒメであった。父は大物主であり丹塗矢であった。

 上賀茂神社とも呼ばれる賀茂別雷神社には二つの砂山がある。一つは
賀茂別雷神であり、もう一つは神武天皇といわれる。この神武天皇こそが迦毛大御神であり、天照大御神とならぶーこの世にこの二神しかいない"大御神”であった。


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