親を見送るということ〜 父、最後の入院編 〜

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咽頭癌で緩和医療を選択し、自宅療養中の父。

12月に入ると病状は明らかに悪化していたが、なんとか年末年始を乗り切った。

しかしヘルパーさんに頼ることも増えたし、貼るタイプの麻薬(痛み止め)も少し強いものになった。

父は薬が変わったせいで自分の体調が悪くなったのではないかと思っていたようで、前のものに戻して欲しいと訴えていた。

私たち家族には上手く父を説得することは出来なかったが、訪問看護の医師やヘルパーさんになだめてもらい、なんとかやり過ごす日々だった。

1月の半ば近いある日、真夜中に母が私を呼びに来た。

「こんな時間に呼びに来るということは・・・」と、緊張が走った。

実家に行くと父は頭を押さえ、身の置き所が無いといった感じだった。

「お父さん頭痛いの?」と訊くと、

父は「痛くない、モヤモヤする!薬が変わったからだ。」と言った。

もう私にはわからなかった。
父の病状が悪くなるのは胃瘻のせいなのか、薬のせいなのか、病気のせいか。

しかしその日の父はいつもと違った。

少しでも楽にしてあげたくて、座薬でも入れたら少しは眠れるのではないかと説得してみた。

しかし父は「座薬を入れるとますます頭がモヤモヤする」と言って聞き入れなかった。

仕方なく病院に連絡すると、介護士さんが今から来てくれるという。

結局父は介護士さんに説得され座薬を入れた。

こんな真夜中に来てもらうなんて、と申し訳ない気持ちで一杯になった。
私達家族が父を説得出来ないばかりに…

座薬を入れた父は少しは落ち着いたように見えたが、眠ることは出来ないようだった。

その日は私と家の裏の畑を歩いたし、夜は自分で胃瘻の管理もしていた。
昨日と同じように…

今、目の前にいる父は今までと何が違っている。

私たち子供の前でさえ辛さを隠せなくなっているのかもしれない。

思うように動けない状態の父に手を貸しながら、

「どうしたら楽?」「どうして欲しい?」とみんなで声をかけたが、

父は首を横に振るばかりだった。

そして突然茶色い液体を吐き出した。

びっくりした私は助けを求めるように病院に電話した。

ヘルパーさんが来てくれて座薬を入れてくれた。

少しは落ち着いたが、ヘルパーさんは、

「もしかするとまた座薬を入れなければならないかもしれません。必要であればまた電話して下さい。」

そう言って帰っていった。

苦しむ父はまた吐いて、私たちを動揺させた。

座薬を入れようと言っても、父は首を横に振る。
「入れるたびに頭がおかしくなる」と言うのだ。

何をしたらいいのかわからない私たちは、ヘルパーさんを頼るしかない。

私が座薬を入れようか、と言っても父は拒絶した。

母にしてもらうならいいのかもしれないが、母は「私には出来ない」と言う。

3度目にヘルパーさんに来てもらった時、「明日入院した方がいいかもしれませんよ」と言われた。

こんなに一晩のうちに何度も来てもらうのは申し訳ないと言う気持ちもあったし、この状態が何日も続いたら私たちがつぶれてしまうとも思った。

母と私は「お願いします。」と、頭を下げた。

不思議なことに、空が白み始めると同時に父の容態も少しずつ落ち着きはじめていた。

病院からの迎えが来るまでの間、少しでも気が紛れるのではないかと、父に家族の結婚式の写真を見せた。

私は自分の結婚式の写真を見せながら、「これは誰?」と父に聞いた。

父はにっこりしながら私を指差し、次に弟の写真を見せると弟を指差した。

父と母の写真を見ると、自分と母を指差した。

もう言葉を発する力は無かったのかもしれないが、頭ははっきりしていた。

迎えが着くと父は覚悟とも諦めともつかない表情で、抵抗することなくストレッチャーに乗った。

私と母も病院に向かい医師から説明を受けた。

「これから胃瘻からの栄養は断ちます。誤嚥や出血の危険があるからです。」

「もうあと1ヶ月はもたないと思ってください。」

「PCR検査の結果が出るまで2日間は個室に入ってもらいます。その間は家族にも会えません。」

「それ以降の面会については入院の手続きをしてから受付で説明を聞いてください。」

全ての手続きを終えて家に帰り、私は職場に「今月一杯休ませてほしい」と電話した。

もう1ヶ月もたない。

年単位の話では無いから、一気に短くなった。

が、現実味は感じられなかった。


一睡もしていなかったので少し寝ようかと思ったが、疲れ果てているのに眠ることはできなかった。

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