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詩集 黄道のシンフォニア(非常識な補注)【未定稿】

 本稿は、『詩集 黄道のシンフォニア』におけるオマージュに特化した作者の備忘、未定稿という著作物であり、著者が承諾していない複製・配布や引用・公開等は控えていただきたい。また、本稿は決して自作解題ではなく、「原注」と同様、詩の読み方を制約する情報として使用されることを想定していない。

[1-1] 茫洋とした汀にひたすら拾う者がいる
・狂濤に打擲された船:ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー奴隷船』がすぐに想起されるが、加えて私には、南半球で目にしたトレミーが浮かべたアルゴ―船の残骸、いや詩作というノイラートの船、または大洋や地中海における難民船、あるいは日日利用している通勤列車など、イメージのフォーカスが多数ある。
・端切:クリスチャン・ボルタンスキーぼた山』の引喩であるとは、言いすぎかもしれない。

[1-2] 白い部屋で息をとめる私たちに
・庭:本詩における庭の風景に、防風林のうえに腰を据えた手稲山、その手前に、父が植えた蝦夷ヒバ、オンコ、紅葉、種の美味しい私の顔より大きな向日葵、父と作った風力計と風向計、三角屋根の雪が落ちるあたりには母の菜園、季節によってアスパラガスやミニトマト、胡瓜や隠元豆、裏庭には蚯蚓を増やすための堆肥桶、私が小学校の通学路で拾い自然発芽したちまち塀より高くなった鬼胡桃、いつからあるのか行者大蒜などを加えれば、実家の庭園のおおまかな再現となる。泥炭地であるため、50m先のバス通りをバスが走ると、窓が音をたてる。泥炭では草木が育たないため、土壌改良や肥料の専門家でもあった父は、黒土を入れて小さな庭を作った。夏には遠くの蛙にまじり、オケラがよく鳴いた。夏のおわりには、繋がり蜻蛉の赤い群れが幾条もの幾重もの帯となり、清んだ空の一方向を目指していた。そういえば、小学校の研究課題で、父の協力で泥炭層の50㎝ほどの標本を作成して提出したことがあった。泥炭、その点で親近感を持って思いだされるのは、祖父の代から続く泥炭の切り出しという重労働にかかわる自詩を、掘る(dig:墓堀りという意味もあるが)リズムと重い聲によって朗読するシェイマス・ヒーニーだ。

[1-3] 夜の半球で軌道がずれた黄道を
・椅子と円卓:ヴィクトル=マリー・ユーゴー『レ・ミゼラブル』のミュージカル版(製作:キャメロン・マッキントッシ、2010年)より、失敗した蜂起から隠れ家に一人だけ戻ったマリウス・ポンメルシーの演技と舞台の引喩だが、記憶違いがあるかもしれない。
・百千の物語:このくだりは、アンナ・アフマートヴァ『レクイエム』について、彼女とアレクサンドル・ソルジェニーツィンとの会見にかかわる引喩(同、木下晴世訳)。

[1-4] 壁の内側から今日また機械人形が抛り棄てられる
・機械人形等:私の青少年時代を豊かにしてくれた手塚治虫石ノ森章太郎藤子・F・不二雄、『攻殻機動隊』(原作:士郎正宗、監督:押井守など)のほか、カレル・チャペックなどへのオマージュ。
・聖母嶺が苦しみ悶え:私には、敬愛する芸術家にして詩人のミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニの『瀕死の奴隷』のイメージが喚起される。

[1-5] 小瓶の中に

<次章2の前に、クシシュトフ・ペンデレツキ『ルカ受難曲』などをきいておくとよいかもしれない>

[2-1] 抽象都市のポリメトリック Ⅰ 地下水道
・地下水道:この語はただちに、映画のアンジェイ・ワイダ『地下水道』やアニエスカ・ホランド『ソハの地下水道』(原作:ロバート・マーシャル)、さらには沖縄のガマなどを喚起する一方、私には日日使う地下鉄のトンネルもまた身近であり、電気を消して部屋にあるとき自身のどこかへ通じる空洞も「地下水道」ではないかとおもうことがある。
・舌が三角錐:パブロ・ピカソ『ゲルニカ』の左端にいる女の舌と似ていないだろうか。

[2-2] 抽象都市のポリメトリック Ⅱ 筏
・筏:筏といえば、テオドール・ジェリコー『メデューズ号の筏』であるが、その絵を見るたびに、私があるいまここは、その筏の上だと確信することがある。

[2-3] 抽象都市のポリメトリック Ⅲ 野営地
・難民:これまで、主に途上国における難民や医療、子どもや地域開発を支援する国際機関国際NGOをささやかながら長期にわたり支援してきたが、本詩篇のイメージの一部は、それらのレターや年次報告書、毎年開催されている映画祭などに触発されたものである。また、自然災害(しばしば人災により過激化される)により生じる国内避難民についても同様。自分は、単に偶然の諸条件に恵まれている難民であるという感覚は、過剰なものではないだろう。たとえば、東京で大災害があれば、私はまちがいなく悲惨な難民の一人となる。
・薔薇:薔薇は私にとって、しばしば、ライナー・マリア・リルケの薔薇だ。

[2-4] 暗号世界のトリプティカ Ⅰ ラブドール
・サブタイトル行:ウォシャウスキー兄弟『マトリクス』の一部映像に似ていると言えなくもないが、電脳鍵盤でのみ詩を打鍵する(詩作する)私がときどき行う遊び、QWERTYと似てある鍵列(本例は、特殊記号を含む数字列)をただ左から順に打ちこんだだけのもの。ただし、打ちこんだ瞬間、私たちはディスプレイの暗号世界に連れ去られる。

[2-5] 暗号世界のトリプティカ Ⅱ 聖剣士
・不明瞭であるため具体的に挙げられないのだが、読み返していると、ウィリアム・シェイクスピアミゲル・デ・セルバンテス、あるいはアルフレッド・ジャリなどを覗いている感じがする。

[2-6] 暗号世界のトリプティカ Ⅲ カミ見習い
・二つの電波塔の風切聲、羊飼いのいない疎集合の電気羊、落穂をさがす半壊した錫板人形:ジャン=フランソワ・ミレーの絵画晩鐘』、羊飼いの少女』、落穂ひろい』のオマージュ。
・悪をおこなうカミ:簡単にオマージュをあげることができない。

[2-7] 偽軌道上の構造體 Ⅰ トーラスコア
・トーラスコア:トーラスの中心が始まりも終わりもない穴であることについて、推敲している際になぜか、学生時代、友人たちと丸山真男『日本の思想について激論していた光景が思いだされたことは付記しておきたい。

[2-8] 偽軌道上の構造體 Ⅱ カジノルーム
・カジノ:フョードル・ドストエフスキー『賭博者』を回想してもよいが、Palo Altoで金融工学の講座に出席していたころ必読文献の一つだったピーター・バーンスタインの『リスク』に一部インスパイアされている(「夜の半球で軌道がずれた黄道を」の「リスカーレ」も同書による)。

[2-9] 偽軌道上の構造體 Ⅲ ライフボート

[2-10] 蒼蒼のカタストロフ Ⅰ 第六葬船
・第六:地球の地質年代における5回の大量絶滅(今後の研究で増える可能性がある)に続く、ヒト(真核生物ドメイン動物界脊索動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト族ヒト属ホモ・サピエンス種・亜種ホモ・サピエンス・サピエンス)由来の急速に進む第6の大量絶滅期。私の青少年期には、「宇宙船地球号」(バックミンスター・フラーなど)という標語が流行した時期があった。

[2-11] 蒼蒼のカタストロフ Ⅱ 集団墓地
・トレンチ:オマージュするまでもないだろう。現代社会は、穴だらけだし、どのようなグロテスクもめだたない時代だ。
・鐘:私が最も敬愛する詩人のひとり、サミュエル・ローゼンストック(筆名:トリスタン・ツァラ)の『L'Homme approximatif(近似的人間)』で打ち鳴らされる「鐘」のオマージュ。ただ、私の部屋では、一駅離れた丘の上の寺で撞く鐘の音が時おり耳もとで聞こえることも事実だ。澄んだ夜には、鐘の聲に交差して、混雑する海域の長い船笛がきこえることもある。

<次章の3にうつる前に、私は、アルヴォ・ペルト『Da pacem Domine』をきくことにする。そのあとは、ヴァレンティン・シルヴェストロフ『Requiem for Larissa』もよいだろう>

[3-1] 崩れた天井を蓋う黑布の隙間から射す
・本詩篇は、ジョルジュ・ルオーサラ』、つまり彼が人生の最期まで描き続けたという、唇よりも厚く絵具が塗りかさねられ、そのため震動に耐えられないほど弱弱しい画肌であり展示が難しいとされていた、その画と私が向かいあうことができた、そのオマージュである。画家が死ぬまで手元におき筆を加えていた未完成画である点や微笑みは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『La Joconde』とも同じであるが、濡れた絵具の盛りあがるマチエール、その肉感や身体性は「サラ」固有のものだ。

[3-2] うつろな緑 脅かす黄 青の孤独
・色彩の詩人といえば、私には、アルチュール・ランボーやゲオルク・トラークルよりも、同じ北海道出身の佐川ちかが思いうかぶ。特に、緑色に対する感覚は交差するものがある。余市や小樽は何度も訪れており、私の好きな余市ワインを、母はよく送ってくれた。
・蔓:蔦の蔓かもしれないが、葉は一つもついていない。
・毛編みの手袋:本詩とは関係ないが、私が中学校に入る前までの冬物のセーターや帽子、手袋などは、ほぼすべてが母の手編み(ニット)であった。冬将軍がやってくる前には、十字に組まれた絲操を手で回し、絲球を解く私の横で、セーターを編んでいた母の姿が思いだされる。大きくなると、絲は腕に巻いていたこともあったかもしれないが、すでに記憶は曖昧だ。現在の私の自宅の下駄箱には、なぜか幼児向けの紐付の水色の兎のワンポイントの入ったミトンがおかれてあり、棄てられないでいる。ときどき、その「ミトン(てぶくろ)」から熊や鼠が顔を出している。

[3-3] 白日は何処に在るかわからないが
・本詩篇に限らず、ジョルジョ・デ・キリコカルロ・カッラ、彼らに影響を受けたケイ・セージイヴ・タンギー、さらにレメディオス・バロなどへの混然とした引喩を複数含んでいる。
・塗りのこし:ポール・セザンヌか、日本画か、オマージュすべきものがよくわからないが、確かに何らかの引喩である。

[3-4] 欠けた太陽が炙りつづける街の中心を覆う黑體に
・両脚器(コンパス):このオマージュを書記するには勇気がいる。そう、あのジョン・ダンである。何度も試したが、愛に満ちた円は、私には描けなかった。円は一人で描くものではないからだろう。楕円エリプスならなおさらだ、焦点は二つあるから。
・児どもたち:その無垢なビジョンは、ウィリアム・ブレイクのオマージュだ。しかし、児は経験し成長し、永遠の無垢ではいられない。過ぎ越しゆく地平で無垢の神話は脱ぎ捨てられる。それはおそらく、愛のない偽証で始まる。

[3-5] 私が水を遣るとき彼も水を遣る
・長椅子:私が当初イメージしたのは、サミュエル・ベケットの「一本の木」であり、別役実の「電信柱」である。しかし、未熟な私ではそのビジョンは実現できなかった。
・巨人:詩作中の発語に粘りついていたイメージは、フランツ・カフカ阿部公房の作品の暗部に蠢く明確な名前をもたない権力メカニズムであり、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』の火蜥蜴であり、それ以上に私の急速な微小化であった、というのは非常識な補注だとしても書きすぎだろうか(秘すれば花とすべきか)。

[3-6] 車窓に反対風景がかさなり流れていく
・植民地鉄道:師走の通院の帰りの電車内で、「百年間の鞭打ち」(エメ・セゼール『帰郷ノート』)にも似た何ものかを感じた。

[3-7] 隅隅まで破壊された世界にのこるあなたは
・手術台:このオマージュもかなり勇気がいる。そう、あのロートレアモン伯爵の「解剖台」である。しかし、連想できないほど飛躍したものではなく、モチーフに関連するものを安易に置く私の詩は拙い。
・身体の崩壊感覚は、テーブルを使うダンスとして、クルト・ヨース『緑のテーブル』に比べ不条理性の際立つ、クリスタル・パイト『The Statement』のダンスの振付コレオグラフィに一部、喚起されている。

[3-8] 私を凝視する彼らの視線を反らし
・地下室:詩作の過程では、地下室という言葉に堆積したフョードル・ドストエフスキーのイメージがちらついたが、推敲の際になぜか、背中をみつめられる、遠いが強い感覚に囚われた。ネットで、「地下室、視線」などで検索しても有意なソースがみつからない。検索鍵を何度かかえて、ようやく見つけた。そう、神田日勝の『室内風景』である。新聞紙だけではなく、裸電球まで同じとは。違うのは、眼差しである。彼の眼差しは真直ぐだが、本詩の視点人物の眼球は揺らいでいる。また、日勝の彼は自らの意思で部屋にいるが、本詩の彼は押し込められている。
・塗り直された壁:推敲中に、かつてドキュメンタリでみたゲルハルト・リヒター『ビルケナウ』の作画プロセスやナラティブが強く過ぎったたことは付記しておきたい。

[3-9] 水を汲みに行きましたが、戻ってみると壺の中は

<次章4にうつるまえに、演奏者にも聴衆にも悦びをもたらすと言われるハインリヒ・ビーバー『ミステリー・ソナタ』から「第1番 喜びの神秘」をきいておくのががよいだろう>

[4-1] アストロラーベの叙唱

[4-2] 鎖鋸が伐る老樹の膝が折れ
・老樹:ミケランジェロによる未完の3つの「ピエタ」(フィレンツェパレストリーナロンダニーニ:なお、サンピエトロは「それが倒れてくるとき、奔る亀裂の絶叫に」にて引用)は、引喩というよりは重畳するイメージの一つ。なお、樹木は一般に雌雄同株であり、私の好きなポプラ(白楊)など一部が雌雄異株である。だが、ポプラ並木の多くは、枝の広がる雌株を避け、雄株を多く植えているようにみえる。私の防風林では、ほぼ同数だ。
・母樹、水系、繼穂:母樹はスザンヌ・シマード『マザー・ツリー』、「水系」は中村哲の井戸と用水路(『天、共に在り』)、繼穂はバンクシー「Love Is In The Air」のオマージュ。
・モルグ:ゴットフリート・ベン「死体公示所」のイメージというと、言いすぎになる。
[4-3] 翅ばたくたび舞いあがる細氷の輝光
・旋舞:最も敬愛する詩人の一人、ジャラール・ウッディーン・ルーミーへのささやかなオマージュ。
・蝶:仕事がら、エドワード・ローレンツの「バタフライ効果」に馴染みがあるが、それでも私には圧倒的に、蝶とは、詩人でもある画家の三岸好太郎の金属パイプで縁取られている『飛ぶ蝶』であり『蝶と貝殻』その中でも特に「海洋を渡る蝶」であり、安西冬衛の「てふてふ」であり、速水御舟の『炎舞』である。
・氷:詩人であるボリス・レオニードヴィチ・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』(映画:デヴィッド・リーン監督)の「氷の宮殿」、北海道各地の氷雪祭りやオホーツク海の流氷へのオマージュであり、アイスクライミングでリードしていた際、シュリンゲが切れてグラウンドフォールした峪あいの氷瀑の記憶である。
・明確に主題化されてはいないものの、何度か読み返すと、井筒俊彦を随所で意識していることがわかる。

[4-4] 私たちは、いやもう一度訂正しよう、私は

[4-5] 私を自発的に喪失しようという彼は、すでに
・眼差し:多くの画家や音楽家が思いだされるが、ここでは、靉光眼のある風景』とつげ義春『ネジ式』をあげておきたい。

[4-6] 棺をひく者がいる、彼は一歩を踏みだす
・棺をひく:詩人でもあるピアニストのワレリー・パヴロヴィチ・アファナシエフが演奏した『展覧会の絵』「ビドロ(牛車)」(2019/11)にインスパイアされている。もちろん、その作曲者であるモデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーの最後の肖像画を描いたと言われているイリヤ・レーピンによる『ヴォルガの船曳き』も重層するイメージだ。
・爪でかいた言葉:ドラキュラ伝説ではなく、ヘンリク・ミコワイ・グレツキ『交響曲第3番』(特に第2楽章)や、マフムード・ダルウィーシュ『In the Presence of Absence』などへのオマージュ。

[4-7] 住家には水面の流れがある、澱みがある
・流れ:細部において一致するものはないが、全体として、そのとどまらない流れとして、NDT(Nederlands Dans Theater)の『Singuliere Odyssee』(振付:ポール・ライトフットソル・レオン、音楽:マックス・リヒター)の舞台(2019/08)に、詩的イメージが喚起される。
・寝台:それとは反対に、その動的なイメージとして、勅使川原三郎佐東利穂子のデュオの様々なダンスシーンが想起される。また、コンテキストは異なるが、ボリス・ヤコヴレヴィチ・エイフマンのエイフマン・バレエ『ロダン~魂を捧げた幻想~』(2019/07)も回想される。

[4-8] それが倒れてくるとき、奔る亀裂の絶叫に

[4-9] 自明の破局をむかえる朱殷い海を渡り
・九行:直截の関係はないが、音楽家として敬愛するヨハン・ゼバスティアン・バッハの長9度は、なんとなく思いだす、短9度も。

 なお、読者からの質問への回答などがある場合を含め、記載内容は適宜、更新する。


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