人生における回り道について
はじめに
「1年後に予定されている本校の『創立60周年記念式典』での講演を、中村さんにお願いしたいと思っています」
2021年8月。そんな首を傾げたくなるような連絡を、ぼくの母校である神奈川県立追浜高等学校(横須賀市)から受け取った。卒業してから16年の歳月が流れていた。
(母校の記念式典で講演? このぼくが?)
(いったい何をテーマに、どんな話をしたらいいのだろう?)
10年に一度の規模の式典で、全校生徒約800人を前に、1時間ひとりで話をするのだという。
そんな式典での講演というのは、著名人や経営者、大企業で役員になったOB・OGの方など、社会的に成功している方が務めるイメージがあった。
(30代半ばの、しかもまだ何者でもないフリーランスのぼくが、どうして?)
しかし、連絡をくれた職員の方は、その不安を和らげるようにこう話した。
「高校を卒業してから、今現在までの経験を語っていただきたい。それが生徒たちのためになると思うんです」
彼女は、その少し前にフジテレビの「奇跡体験! アンビリバボー」で流れたぼくの特集番組を観て、「ぜひ講演者として中村さんを」と学内で提案してくれたそうだった(そのアンビリバボー出演の話も、記事の終盤でご紹介したい)。
その後、詳細を伺うために訪れた母校でも、副校長からこんなことを言われた。
「キャリアをテーマに、生徒たちの視野を広げてあげられるようなお話、『回り道』も大切なんだというお話をしていただきたい」
なるほど、「回り道」。それなら、ぼくにもいろいろと話せることがあるかもしれない。少しだけ肩の荷が下りた。
*****
高校1年生の夏に自転車レース「ツール・ド・フランス」をテレビで観て、ぼくはヨーロッパの美しい風景に憧れ、同時に自転車の可能性に魅せられた。
「自転車って、こんなに長い距離を走れる乗り物なんだ」
そこから始まった、往復30kmの自転車通学。そして、
「いつか自転車で、ヨーロッパの大地を走りたい」
という想い。この夢がなかったら、ぼくはライターになっていなかったかもしれない。自転車旅がきっかけで、ブログを書き始めた。そして書くのが楽しくなって、「これを仕事にしたい」と思うようになったのだ。
高校生の頃、国語は5教科の中でいちばんの苦手科目だった。逆に数学が得意だったために理系の道に進み、一浪の末に早稲田大学の創造理工学部に入学した。専攻は土木工学。それなのに、新卒で入社したのは、土木とは何の関係もない旅行会社。
大学では、「新しいことをしたい」とオーケストラサークルに入団したことがきっかけで、ヨーロッパ11都市を巡る大規模な演奏ツアーに参加した。その経験からヨーロッパが大好きになり、「またこれらの街々に戻ってきたい」という想いがのちのヨーロッパ自転車旅に繋がった。
現在に至るまで、ぼくの人生は回り道の連続だった。しかし、それを悪いことだとは決して思わない。むしろ、いろいろと回り道をしたことでユニークな人生を歩むことになった。
*****
2022年11月11日。無事に母校での講演を終えると、生徒たちからは大きな反響があった。
このようなメッセージをはじめ、びっしりと埋まった感想がたくさん寄せられた。後日、全校生徒から集まった感想を受け取って、ぼくは胸を熱くした。
また、校長先生をはじめとする職員の皆さまや、参列したPTAの方からも、「大人が聴いても学びがあった」「保護者の方々にも聴いてほしかった」などのありがたいお言葉をいただけた。
それ以来、「このときの講演内容をいつか本にして、多くの方に届けられたらいいな」と願いながら過ごしてきた。
講演で語り切れなかったエピソードも含め、自身が経験した「回り道」について、できる限りをここに書き記したい。長い物語になるが、お楽しみいただければ幸いである。
自転車との出会い
テレビ越しにプロペラ音が鳴り響く。ヘリコプターからの空撮映像は、日本とはまるで異なる風景を映し出していた。広大なブドウ畑、石畳が残る小さな田舎町、峻険なアルプスやピレネーの山々……。そんな美しい世界を、自転車に乗った大集団がものすごいスピードで駆け抜けていく。
高校1年の夏、ぼくは世界最高峰の自転車レース「ツール・ド・フランス」に夢中になっていた。選手たちは毎日200km前後を走り続け、約3週間かけてフランスを一周する。テレビ越しにレースを眺めながら、「自転車ってこんなに長い距離を走れるんだ」という驚きと、「こんな景色の中を自転車で走ったら気持ちいいだろうな」という憧れを抱いた。
それから間もなく、ぼくは職員室の前の通路で、サッカー部の顧問と向かい合って立っていた。
「サッカー部を辞めたいです……」
中学でサッカー部だったから、高校でも当然のようにサッカー部に入った。しかし練習が辛く、毎日必死だった。体力的にも技術的にもなかなかついていけなかった。だけど何よりも辛かったのは、先輩からの怒声だった。心が委縮するとプレーも委縮してしまう。そしてミスを連発し、また怒られる。粘り強い性格だと信じていたが、夏には心が折れた。「これはもう無理だ」と感じて、部活を辞めようと決意した。
でもぼくは、部長や顧問の先生に対して、「もう辛いので辞めたいです」とハッキリと言えるような性格ではなかった。だから、「サッカーよりも、◯◯がやりたいので辞めたいです」と言える前向きな理由がほしかった。
「自転車に興味があるので……」
興味があったのは本当だが、部活を辞める口実に過ぎないことは、顧問の先生も気付いていた。ぼくが涙をボロボロこぼして、それ以上何も言えずにいたから。だけどそのときは、ただそうすることしかできなかった。
*****
部活を辞めてしばらくしてから、ふと疑問が生じた。
「もしかして、高校まで自転車で行けるのだろうか?」
ぼくが通っていた横須賀市の追浜高校までは、家から電車で8駅分離れていた。だから電車で通う以外の選択肢なんて、考えたこともなかった。その夏、ツール・ド・フランスを観るまでは。
当時はまだGoogleマップも存在しなかったから、神奈川県の道路地図を開いて距離を測った。すると、家から高校までは片道15kmあった。15歳のぼくには、その距離感がよくわからない。ただ、ツール・ド・フランスの選手たちが1日に200kmも漕ぐのだから、たとえ自転車や肉体が違っても、15kmくらいなら行けるだろう、という漠然とした希望は持てた。
ママチャリだと何時間かかるだろうか? 2時間、いや、3時間? どれだけ時間がかかるかわからないけど、試しに自転車で行ってみたい。
数日後、ぼくは早朝に家を出て、無我夢中で自転車を漕いだ。遅刻だけはしたくない。信号で止まる以外、ずっと立ち漕ぎしていたことだけはハッキリ覚えている。
慣れない国道が、見慣れた通学路につながったときは感動した。本当に家から、高校まで自転車で来れたのだ。到着して時計を見ると、なんと出発から45分しか経っていなかった。
(電車で行くより、5分も早いじゃん!)
当初は「2〜3時間かかるかもな」なんて思っていたから、予想以上の早さに唖然とした。経験のないことに対する予想や想像が、いかに当てにならないか。それが、この日ぼくが学んだことだった。何事も、実際にやってみないとわからないものだ。
自転車通学は、新鮮そのものだった。知らない道が知っている道に繋がったときはいちいち感動したし、それまで電車や車でしか行けないと思っていた場所まで自分の足で行けるという発見は、ぼくの心を自由にした。
それから数ヶ月ママチャリで通学していると、噂を聞いたおばあちゃんが「最近自転車に夢中らしいね。欲しい自転車があるんだって?」と言って、ロードバイクを買うための資金を出してくれた。そして高1の冬、ついに念願のロードバイクを手に入れた。いざ乗ってみると、ママチャリとは訳が違う。とにかく速くて驚いた。
そのロードバイクで学校へ行くと、家から30分で着いた。往復30kmの自転車通学を続けるうち、部活をやっていた頃よりも遥かに筋肉や体力がついていた。サッカー部を辞めた当初は挫折感が強かったけど、自転車のおかげで、徐々に自信を取り戻すことができたように思う。
2年間のオーケストラ生活
2007年春、ぼくは一浪の末、早稲田大学 創造理工学部に入学した。
大学では、早稲田大学交響楽団(通称:ワセオケ)というオーケストラサークルに入った。高校時代にクラシック音楽が好きになり、趣味でよく聴いていたから、「オーケストラの練習風景を見てみたい」という安易な気持ちでサークルの見学へ行った。そしたら、「本当に学生のレベルなのか?」と驚くほど上手なベートーベンの交響曲を聴いてしまい、このサークルに魅了された。新歓ポスターに「初心者歓迎」と書いてあったので、これを鵜呑みにして、気付いたら入団してしまっていた。オーボエという楽器を始めることにした。先輩が指導してくれたほか、レッスンにも通った。
ワセオケは1978年にベルリンで開催された「第5回国際青少年オーケストラ大会(通称:カラヤン・コンクール)」で優勝したことを契機に、3年に一度、ヨーロッパツアー(演奏旅行)を行っている。100年以上の歴史と伝統があり、それゆえに部活のような厳しさがあった。
大学2年生の冬、ぼくも3週間にわたるヨーロッパツアー(演奏旅行)に参加した。ドイツ・オーストリア・フランスを巡り、全11都市の有名なホールで演奏する。このツアーに、ぼくはオーボエ奏者としてではなく、和太鼓奏者として参加した。オーボエを吹いて一年が終わる頃、全体集会が開かれ、「来年のヨーロッパツアーでは、プログラムの最後に和太鼓とオーケストラの協奏曲も演奏します。そのための和太鼓奏者が7名必要で、団員から募集します」という趣旨の話があった。
ヨーロッパの聴衆に日本文化である和太鼓を披露できるなんて、かっこいいじゃないか。もし和太鼓を選ぶなら、オーボエの演奏はできなくなる。しかし、一年オーボエをやってみて、中学からの経験者には実力的になかなか追いつけないことも実感していた。だったら、和太鼓に転向した方がまた新しいチャレンジとして楽しめるのではないか。そう考えたぼくは「興味があります」と幹部に伝えた。それから和太鼓チームが結成され、一年弱、授業もそっちのけで厳しい練習を積んだ。努力の甲斐あって、ヨーロッパツアーは成功に終わった。ベルリンフィルやウィーンフィルの本拠地ホールをはじめ、各所でスタンディングオベーションを受けて、それは一生涯の経験となった。
また、ぼくらの演奏や滞在を温かく受け入れてくれたヨーロッパの街や人、文化も大好きになった。ベルリンやフライブルクやヴィースバーデンなど気に入った街がいくつもできて、いつかまたこれらの街々を訪ねたい、という気持ちが生まれた。後から振り返れば、これも重要な「回り道」だった。
残りの学生生活は、新しいチャレンジを
ヨーロッパから戻ってきて、大学3年の6月にサークルを辞めた。卒業までまだ2年弱あったのだが、ヨーロッパで味わった以上の経験や感動を、この先のサークル生活で味わえる気がしなかった。それよりも、残りの2年間は今までできなかったチャレンジをして、悔いのない大学生活を送りたい。それまで友人と3度行った自転車旅を、もっと長期で行きたいとも思った。
浪人時代に予備校で出会い、同じ早大理工学部に進んだ友人のシンゴと、ぼくは1年生の夏に2泊3日の自転車旅をした。箱根を登り、相模湖に泊まり、ヤビツ峠を越えて、神奈川県を一周した。自分の足で移動し、知らない風景と出会う、その小さな冒険がたまらなく楽しかった。
大学2年の夏には房総半島を一周し、大学3年のGWには福島県から石川県までの一週間の旅を行った。ぼくの中で、世界は少しずつ広がっていった。もっともっと遠くへ行ってみたい。知らない世界を見てみたい。そしてサークルを辞めたことで、ようやく夏休みをフルで使えることになった。「1ヶ月間、一緒に自転車旅しない?」またシンゴを誘ったが、「1ヶ月も洋太と過ごすのはさすがに無理(笑)」と断られたので、「まあそうだよな〜」と思いながらぼくはひとり旅の計画を立て始めた。
自転車旅とブログ
大学時代、いくつか素晴らしい本と出会った。
植村直己『青春を山に賭けて』
小澤征爾『ボクの音楽武者修行』
司馬遼太郎『竜馬がゆく』『燃えよ剣』
時代や境遇にかかわらず、逆境さえもプラスに変えて、自らの手と足で運命を切り拓いていった彼らの生き方に、ぼくは強く憧れた。
それまで常に人の目を気にして、自分の意思よりも人に合わせることを優先してきたが、そんな生き方は息苦しかった。自分のやりたくないことでもやらなくちゃいけない、人の意見には逆らえない、というような感覚で自分を無意識に縛っていた。でも、本当はもっとわがままになりたい。自分が「こうだ」と思う道を、人の意見に左右されずに、行けるところまで突き進んでみたい。本からの影響で、次第にそういう気持ちが生まれていった。
大学3年生の夏休みに、思い切って1ヶ月間の自転車旅に出ようと決めたのも、そのような想いが背景にあったからだった。
ぼくは中学生の頃からずっと、「日本地図って本当に正しいのかな?」「道はちゃんと地図どおりにつながっているのかな?」と疑問に思っていた。大学生になってもその疑問が消えなくて、自分の目で確かめてみたくなった。
一冊の地図帳を携えて、自転車で横須賀から九州まで行ってみる。道が本当に地図どおりにつながっていたら、それ以降は地図を信じることにしよう。
ある日、大学で自転車旅の計画を立てていると、
「なんで地図帳なんか見てるの?」と学科の友人から聞かれた。
「夏休みに、自転車で九州まで旅するんだ」
「は? バカじゃないの? 自転車で九州までなんか行けるわけないじゃん」
本気で馬鹿にされて、思わず声を荒げてしまった。
「なんで無理だってわかるんだよ。お前はやったことあるのかよ?」
「あるわけないじゃん(笑)だって無理に決まってるじゃん」
「・・・・・」
言い返す言葉もなく、ただただ悔しかった。
最初は「地図の正しさを確かめてみたい」という単純な欲求から生まれた企画だったが、ぼくは改めて、この挑戦について考えることになった。こんなに長い自転車旅は初めてだから、彼の言うとおり、もしかしたら途中で身体に限界がきて、リタイアする可能性だってある。そのことをどう考えるか。
ぼくはすぐに結論に達した。無理でもいい。できなくても構わない。でも、やる前から「できない」と言うのと、やってみて「できなかった」と言うのでは、まったく価値が違うと思った。やる前から諦めたくない。できないならできないで構わないから、自分はどこまで行けて、どこから先は行けないのか、それを知りたかった。自分の限界がどこにあるのかを確かめられたら、たとえできなかったとしても、爽やかな体験になるはずだ。
失敗してもいい。やってみよう。
ただ、初めてのひとり旅が1ヶ月間の自転車旅ということで、両親は心配した。とはいえ、毎日こまめにメールで連絡するのも嫌だった。だからぼくは、旅に出る直前にブログ(アメブロ)を開設した。
「このブログに毎日日記を書いて、どこまで走ったか報告するから、それで安否確認してて」
そして横須賀を出発した。ブログには、
「今日は何キロ走って姫路に着きました」
「阿蘇山の山頂に駐輪場はなかった」
「鹿児島の開聞岳で、おじさんがイカの丸焼きをくれました」
みたいなことを書いていた。下手な文章だった。でもその日起きた出来事、目にした美しい情景、人の心の温かさ、うまく言い表せない感情や感動すべてを、なんとか言葉にしようと深夜までもがいた。ネットカフェに泊まったときはパソコンから、それ以外のときはガラケーから、毎日ブログを更新した。
するとなぜか、家族や一部の友人にしか伝えていなかったブログが、口コミでいろんな人に広がっていった。気付けば1日300PV。今にしてみたら大した数字ではないが、当時のぼくには十分過ぎるほどの驚きだった。個人的な旅なのに、こんなに読者がつくなんて。
横須賀を出て、13日目に九州に着いた。下関から関門海峡を眺めながら、「道は本当に、地図どおりにつながっていた」と実感した。その当たり前の事実に、ぼくは深く感動した。各地で様々な人との出会いがあり、皆親切にしてくれた。そして日本の食文化や観光資源の豊かさにも驚かされる日々だった。松山では小学校の先生と出会い、「ぜひ子どもたちに旅の話をしてあげてください」と特別授業に招かれた。旅は、なんて楽しいのだ。とにかく毎日が楽しくて仕方なかった。
旅の終わりに、知らない女性からブログにメッセージが届いた。
「中村さんの挑戦を見ていて、私も知らず知らずのうちに諦めてしまっていた夢があったことを思い出しました。その夢に向かってもう一度挑戦してみようと思います。ありがとうございました」
正直、感謝される意味がわからなかった。ぼくはただ「地図を確かめたい」と思って好きなことをやっていただけだから。
だけど結果的に、人の背中を押せていたんだと、そのとき初めて気付いた。誰かを励まそうなんて一切思っていなかったのに、見知らぬ誰かの背中を押していた。そのことを理解して、この短いメッセージの重みを知った。人生における重要な学びを得た気がして、今度は自分が感動する番だった。
好奇心の赴くままに行動を起こせばいいんだ。人の目を気にして恐る恐るやるのではなく、どこまでも突き抜けてしまえばいいんだ。自分の純粋な欲求を満たせば、それが最も他者貢献できる形になるんだ。
自分の好きなことを一生懸命やることで、人のためになるのだと知った。この一通のメッセージが、以後の生き方を決定づけた。
ヨーロッパへの憧れ
大学3年生の夏に西日本一周の自転車旅を終えて、早くも「来年の夏休みは、どこを自転車で旅しようか」ということで頭がいっぱいだった。知らない土地を自転車で旅して、ブログを書く。この一連の行為が楽しくて仕方がなかった。
はじめは、「今度は東日本を一周しようかな」と思った。西日本と東日本で、確かにキリは良い。でも、全然ワクワクしなかった。それは、西日本を一周できたことで、「東日本も問題なくできるだろう」とある程度わかってしまったからだった。東京から鹿児島まで行けたのだから、東京から北海道だって行けるはず。できるとわかっていることよりも、できるかわからないチャレンジの方がモチベーションは上がる。だったらいっそ、海外に飛び出してみるのはどうだろうか。たとえば、ヨーロッパとか。
高校1年生の夏、テレビで観た「ツール・ド・フランス」に憧れて自転車を始めた。あのフランスの大地を、実際に走ってみたい。この目で見てみたい。でも、どうせフランスへ行くなら、ドイツやイタリアやスペインにだって行ってみたい。そう考えたとき、今度はオーケストラサークル時代の経験がつながった。
「そうだ、昨年の演奏旅行で訪ねたドイツのフライブルクやヴィースバーデンも、また自転車で訪ねられたら、楽しいだろうな。兄が住んでいるベルリンをゴール地点に設定するのもいい」
妄想はどんどん膨らんでいった。しかし、資金面の問題ひとつをとっても、あまりに非現実的なアイデアだった。もし夏休みをフルに使うとして、2ヶ月間のヨーロッパ旅行は優に100万円以上かかるだろう。そんな大金、ぼくにはないし、親だって出してくれない。これから就活も始まるし、研究室に所属すればさらに忙しくなると聞いている。そんな状況のなか、バイトで旅の資金を貯めるのは難しい。やっぱり自転車でヨーロッパを旅するなんて、無理な話だろうか。
いや、自分の夢をそんな簡単に諦めていいのか? 植村直己の言葉を思い出せ。
ぼくだって、日本を飛び出して冒険をしてみたい。司馬遼太郎の小説『俄』では、主人公の明石屋万吉がこんな台詞を言っていた。
そうだ、覚悟だ。「できたらいいな」ではなく、まず先に「やる」と覚悟を決めてしまう。お金やスケジュールの問題は、あとから辻褄を合わせていく。「できない理由」を探せば無限に出てきて、キリがない。だから「やる」と決めて、「どうしたらできるか」だけを考えることにした。
卒業して社会人になったら、2ヶ月間の長旅なんて行けないだろう。どうしても、学生のうちにやる必要があるのだ。
2010年2月、ぼくは覚悟を決めた。今は全然お金がないが、半年後の8月には、ぼくはヨーロッパを自転車で旅する。旅していたらいいな、ではなく、旅している、のだ。資金を集める方法は・・・まだわからない。でも、なんとしてもやる。とにかくやるんだ。
そして、あれこれと模索するなかで、一か八かのアイデアが浮かんだ。
「企業にスポンサーになってもらって、旅を実現できないだろうか」
無名の大学生がスポンサーになってもらうなんて、正直難しいだろう。だけど、ぼくの旅を、単なる個人的な旅行ではなく、何か社会的意義のある活動に昇華できれば、もしかしたら応援してくれる企業が現れるかもしれない。
就職活動の最中、新聞を読んでいて、気になるニュースが飛び込んできた。
それは、「近年、20代若者の海外旅行離れが進んでいる」という話題だった。ぼくは、前年の演奏旅行でヨーロッパへ行った経験から、「なんてもったいないんだ」と感じた。海外旅行から得られる刺激や気付きは計り知れない。日本の将来を担う若者こそ、感受性の高い時期にたくさん海外へ行き、多様性にふれることが大切だ。それは日本にとって重要なことなんだ。
あ・・・! その瞬間、すべてがつながった。
ぼくがヨーロッパを自転車で旅して、旅の魅力や各地の情報を毎日ブログに書いていく。そして、多くの同世代の人たちに読んでもらえたら、もしかしたら海外に行ってみたいと思う若者を増やせるかもしれない。
「若者の海外旅行離れを食い止める」。それを「旅の目的」として、企画書を作ろう。そして企業を回って、協賛を募ろう。
うまくいくかはわからない。でも、やってみる価値はある。何事も、やってみないとわからないのだから。無名の一学生が本気を出して行動したときに、どこまで社会や人を動かせるのか、そのことに純粋に興味が湧いた。
奇跡のような半年間は、ここから始まったのだった。
旅の企画書と飛び込み営業
2010年2〜3月は就活で忙しかったので、さほど動けなかった。4月1日に旅行会社から内定が出て、そこで就活を終わらせた。そして企画書作りに取りかかった。大学の図書館で「企画書の書き方」みたいなタイトルの本を3冊借りてきて、見よう見まねで企画書を作った。
最初は味気ないものになったが、兄や社会人の知人に見てもらい、「ここはこうした方がいいよ」などのフィードバックを受けて7回ほど修正を繰り返し、1ヶ月かけてようやく最終版ができた。社会人は忙しくて長い文章を読んでいる暇はないので、無駄を省き、ひと目で企画の概要と「楽しさ」が伝わる内容を意識した。人の心は正しさよりも楽しさで動くと思ったからだ。
2010年6月から、この企画書を持って飛び込み営業を始めた。最初に行ったのは新宿のマクドナルド本社。しかし入り口で警備員さんに止められる。
「アポ取ってますか?」
「アポって何ですか?」
「アポイント、面会の約束のことですよ。話があるなら、まずアポを取ってください」
なるほど、そういうものなのか。ぼくはその場でマクドナルドの代表番号に電話をかけて、自分の企画を伝えて、「担当の方におつなぎいただきたいのですが」と言った。しかし、「弊社ではただいま個人の方への協賛などは行っておりませんので、申し訳ございませんが・・・」と丁重に断られた。
まあ、そうだよな。と思いながら、マクドナルドを後にしたぼくは、その足で渋谷のサイバーエージェント本社に行った。受付のお姉さんに「アポイントはございますか?」と聞かれたので、今度は「あ、今から取ります」と電話をかけた。
「・・・こういう旅の企画を考えているのですが、ぼくのアメブロを、芸能人などのようなオフィシャルブログにしていただけないでしょうか」
自分の旅と発信で「若者の海外旅行離れ」を食い止めるためには、まずブログの読者を増やさなければいけない。しかし、ぼくは無名の大学生だったから、ブログのアクセスを増やすために、何かきっかけがほしかった。そこで、「きっとオフィシャルブログになったら多くの人に注目してもらえて、アクセス数も増えて、協賛も集まりやすくなるだろう」という作戦だった。しかし・・・
「中村さんのブログをオフィシャルブログにすることで、弊社にはどのようなメリットがございますか?」
「メリット?」
これは想定外だった。
「えー、えーっと、▼※△☆▲※◎★●・・・・・・・」
「・・・そうしますと、弊社にあまりメリットが感じられませんので、今回は申し訳ありませんが……」
撃沈。しかしマクドナルドでは「アポを取ること」を学び、サイバーエージェントでは「企業に協賛を求めるなら、相手側のメリットも考えないといけないこと」を学んだ。
アタックして断られることにも清々しさを覚えてきたので、最後にもう一社だけ行ってみようと、恵比寿のオークリーを訪ねた。ぼくはオークリーのスポーツ用サングラスが欲しかったが、3万円近くして手が出なかった。
会社の入り口のインターホンから用件を伝えると、担当者の方が出てきてくれ、応接室に入れてくださった。会社の方に直接会えただけでも大きな成果だった。カジュアルな服装で、かっこいいお兄さん、という感じの方だった。
企画書を手渡すと、その場でじっくり読んでくださった。そして、「もしもこういう場合はどうするの?」など2、3の質問を受けて、自分が旅について深く考え込んでいることをアピールしつつ、答えていった。
「・・・わかりました。ちょっと待っててね」
5分後、部屋に戻ってきたその方の手には、イチローが試合で使っていたのと同じモデルのサングラスが。
「これ、使って。早大生だから、フレームをエンジ色にしておいたよ。いいでしょ」
「ええーー!? 本当にいただいてしまって、いいんですか!?」
「うん。アツい人を応援するのが好きだから」
そ、そうだ、「相手へのメリット」が、大事だった。
「では、このサングラスのこと、ブログでたくさん紹介させていただきますね!」
「いや、いいよ。無理に紹介しようとしなくて」
「へ?」
「それよりも、中村くんが旅を楽しんで」
なんということだ。見返りを求めない「純粋な応援」というものが、この世には存在するのか。ぼくの目はウルウルしていた。
「本当にありがとうございます!このサングラスで、精一杯頑張ってきます!」
喜びで飛び跳ねるように帰った。この濃い一日のことを、ぼくは生涯忘れないだろう。
協賛集めの日々
学生ブログランキングで1位に
飛び込み営業で成功する確率は低かったが、失敗した経験も包み隠さず書くことで、ブログの読者は増えていった。協賛を集めるために泥臭い行動を続ける。そして行動と発信は常にセットだった。
当時、「学生ブログランキング」というサイトがあり、2010年5月についにぼくのブログが1位(約7万7000人中)になった。
これで無名の大学生にも少しは箔がついた。当時はまだブランディングという言葉を知らなかったが、「学生ブログで1位になれば、企業から信用を得られ、協賛してもらいやすくなるだろう」と考えていたから、これは立派なブランディング的思考だった。
2010年5月から7月の3ヶ月間で、代表的な出来事だけでも以下のようなことが起きた。
・学生ブログランキングで1位になる。
・アテネ五輪の自転車競技で日本代表の竹谷賢二さんに応援していただく。
・オークリーからサングラスを提供していただく。
・ソニーからデジタル一眼レフカメラを提供していただく。
・カシオから電子辞書を提供していただく。
・旅行会社からヨーロッパ往復航空券を提供していただく。
・大阪の自転車会社からロードバイクを提供していただく。
・学内誌『早稲田ウィークリー』で挑戦を取り上げていただく。
・個人協賛が集まり始める。
・学食のおばちゃん、大学の先生や友人、高校の後輩、教習所の教官など、様々な方から資金提供をいただく。
・ラジオ「TOKYO FM」に出演する。
ひとつひとつのエピソードを語り出せばキリがないが、最終的に15社の企業協賛と300名からの個人協賛を得ることができた。今なら「クラウドファンディングみたいだね」と言ってもらえるが、当時はまだクラウドファンディングも一般的ではなかったし、もちろんぼくも知らなかった。だからこの突飛なやり方に批判を受けることも多々あった。「2ちゃんねる」で叩かれたりして何度か落ち込んだ。しかし、この企画を最後までやり切ることで日本が少しでも良い方向にいくなら、自分ひとりが批判されるくらい大したことではないと、気持ちが折れることはなかった。
無知ゆえの行動力もあっただろう。山手線で隣に座った知らない人に企画書を手渡していたこともあった。3ヶ月間で1000枚以上の企画書を配った。ひとりでも多くの方に自分の挑戦を知ってもらい、どんな形でもいいから応援してもらいたかった。それが自分の力になるし、力を発揮できればぼくにしかできない方法で日本のための良い仕事ができる。大きな使命感で動いていた。
飛び込み営業での奇跡
母校・追浜高校の関連で、ひとつ思い出すエピソードがある。
当時、「企業は物資提供してくれることはあっても、資金提供をなかなかしてくれない」ということに悩んでいた。ヨーロッパを2ヶ月間も旅すれば、当然大きな宿泊費がかかる。そこで、発想の転換。「だったら、ホテル予約サイトを運営する会社に協賛してもらって、PRする代わりに無料でホテルに泊まらせてもらえないだろうか」というアイデアを思いついた。そこで、池袋にあった「アップルワールド」というホテル予約の会社に飛び込み営業することにした。
たまたまオフィスの入り口付近にいた方に話しかけると、そのまま少し話を聞いてくださることになった。最初は怪訝そうな表情を浮かべていたのだが、ぼくの企画書を見てしばらくすると、「横須賀の方なんですね! 私も横須賀出身なんです!」とおっしゃった。
「えー!本当ですか!? 横須賀のどちらなんですか?」
「追浜です」
「え! ぼく、追浜高校だったんです」
「なんと! いやあ、追浜高校の方とこんなところで出会えるなんて、嬉しいなあ」
ものすごいご縁だ。同郷ということで親身になって話を聞いてくださり、後日、会社として正式に協賛していただけることになった。当初の思惑どおり、ヨーロッパで5泊分、ブログで宣伝する代わりに無料で泊まらせていただくことができたのだ。ありがたい限りだった。
個人協賛と「日の丸」
また5月頃、なかなか順調に資金が集まらず困っていると、「個人としての応援はできないの?」と、尋ねてくださる方が現れた。そこで、試しに「個人協賛」を設けることにした。もしかしたら友人も応援してくれるかもしれないと、一口1000円に設定。すると、この日を境にあれよあれよと協賛が集まり始めた。通帳記入をするたびに誰かからお金が振り込まれていて、なんだか信じられなかった。ときには振り込んだ方の名前が「トクメイキボウ」と書かれていて、お礼を伝えられず困ったこともあった。
協賛してくださった方には、用意した旗にお名前を書いていただくことにした。真っ白な旗を用意し、丸い枠の中に赤ペンで名前を書いていただく。300人から名前が集まれば、日の丸が完成する、というアイデアだった。
「みんなの名前が書かれた旗を持って、ぼくはヨーロッパを走ります」
これが好評だった。完成した日の丸は、ぼくの力になった。そして現地の人にも旗を見せることで、「これは、ぼくの自転車旅を応援してくれている人たちの名前です」と、すぐに自己紹介ができた。今でも大切な宝物である。
多くの人に背中を押され、2010年8月2日、「ツール・ド・ヨーロッパ」は幕を開けた。2ヶ月間かけて、自転車でヨーロッパ12カ国を旅する。
ヨーロッパ自転車旅、2000kmの物語
周りはみんなドイツ人
スタート地点として降り立ったのは、ドイツ第二の都市フランクフルト。
当たり前だが、周りはみんなドイツ人。そう考えただけでドキドキしてきた。そんなぼくの緊張をほぐしてくれたのが、最初に入ったレストランで隣にいたドイツ人のおじさんに「どこから来たんだ?」と英語で話しかけられたことだった。
「日本からです。これから自転車で西ヨーロッパを一周するんです」と言うと、「信じられない」という顔。ぼくはリュックの中から旅のために用意した旗をおじさんに見せ、片言の英語で一生懸命説明した。
「この旅を応援してくれる人の名前で、日の丸を作っているんです。もし良かったら、あなたの名前も書いてもらえませんか?」
「もちろん書くよ。おもしろいアイディアだ。そうだ、これを持っていきなさい」
おじさんが手渡してくれたのは、なんと10ユーロ札だった。ぼくは慌てて言った。
「ノー、ノー、そういうつもりで言ったわけじゃないんです。ぼくはただ、あなたの名前を書いてほしかっただけで……」
「いいんだよ。私も君のスポンサーだ。Have a nice trip!!」
そう言って笑顔でお金を渡してくれた。なんて親切な人なんだろう。日本でこんなことってあるだろうか。ぼくは胸がいっぱいになった。
外国が、旅が、教えてくれた
ヨーロッパで最初の自転車旅は、フランクフルトからヴィースバーデンまでの60kmだった。
初めての「右車線」に戸惑い、恐る恐る走った。時折、アウトバーン(ドイツの高速道路)に入り込みそうになり、トラックの運転手に大声で怒鳴られたりもした。日本と違い料金所がないので、気付かないうちに高速道路に入ってしまいそうになるのだ。思った以上に神経を使わねばならず、頭がパンクしそうだった。
だがその反面、ずっと思い描いていた憧れのヨーロッパの景色が目の前にあることに、素直に感動した。だだっ広い畑の中に赤と黄色の小屋がポツンとあるという、こっちでは何でもない風景。だけど無性に感動した。自転車旅だから見られた景色だ。
そしてヴィースバーデンに着くと、水着不可の混浴温泉に入った。男女共に素っ裸で歩いている……。「外国に来たな」と、強く感じた瞬間だった。
次のマインツという街では、シャガールのステンドグラスに酔いしれた。鳥肌の立つような美しい青の世界に、1時間、何も考えることができなかった。
さらにマインツから、ライン川沿いに北上。旧西ドイツの首都ボンでは、日本のお祭り用のハッピを着て市内を走り回った。日本から来た謎の自転車男は注目の的となり、何度も「cool!」と言われた。
そしてドイツ最後の街、デュッセルドルフに到着。日本人の多いことで知られるこの街には、おにぎり屋さん、日本語の本屋さんなどが建ち並び、少し異質だ。商業都市と聞いていたのだが、想像とは違い、賑やかで楽しい街だった。
「何事も、自分の目で確かめるまではわからない」
旅がぼくに、そう教えてくれた。
翌朝、起きて外を見ると、電車を使わざるを得ないほどの大雨。どうせ電車に乗るならいっそ、遠くへ行ってしまいたい……。ヨーロッパ鉄道地図を眺めていると、アムステルダムという名前が気になった。日本からドイツに降り立って7日後、何かに導かれるように、ぼくはアムステルダム行きの電車に乗った。
アムステルダムに惹かれる
大雨のデュッセルドルフから電車で3時間半、ぼくはオランダの首都アムステルダムへやってきた。数多くの画家が愛したという、運河が美しい街だ。
この日はよく晴れ渡っていたが、駅を出た瞬間から何やら異様な臭いの煙につつまれた。
「そうか、オランダは大麻が合法なんだっけ?」
大麻やタバコと人々の生活感が混ざり合った、なんとも言えない臭い。そしてドイツとは異なった、人々の高いテンション。あちこちで騒ぎ合っている。駅前には怪しい顔色のおじさんや、厳ついサングラスをした大柄の警官がいて危険な香りもするが、日本ではおよそ味わえない雰囲気に、どこか惹かれたのも確かだった。
オランダが自転車大国だというのは、どうやら本当のようだ。とにかく自転車が多いし、自転車専用道の整備も細かいところまで行き届いている。間違えて自転車専用道を歩いていたら大声で怒鳴られた。「自転車=車」という意識は、日本よりも格段に高い。
「自転車大国」は本当だった
アムステルダムから南へ、自転車を漕ぎ出したときのこと。自転車用の道は安全ではあるものの車道とは完全に独立しており、かなり回りくどい道になっているため時間的なロスが大きい。
わざわざ遠回りしなくてはならない場面もあり、ぼくは少しうんざりしてきた。「このままじゃなかなか街に着かない。ちょっとなら大丈夫だろう」と、ついに耐え切れなくなり車道を走り始めた。
すると、ぼくの横を通り過ぎて行くほとんどの車に怒鳴られることになった。「ここは車専用の道で、お前の道は向こうだ!」と。ここまで文化が違うものなのか。結局引き返して元の自転車道に戻ったのだが、驚いたことにさらに、わざわざ車で追い掛けてきてぼくを引き留め、「さっきあの道を自転車で走っていただろう。ダメだよ、危ないから」と声をかけてくれる人さえいたのだ。すまなかった。国民全員がルールをしっかり認識しているからこその、自転車大国なのだろう。
走っている途中で、雨が降ってきた。最初は小雨だったが、だんだんと本格的に降り始めた。日本だったらこの雨で自転車に乗るような人はまずいない。ぼくも今回は諦めて、途中から電車を使おうかどうか悩んだ。
しかし周りの人々はなんでもない顔で、傘も差さずに自転車を漕いでいる。70歳くらいのおばあちゃんまでもが、びしょ濡れになりながら自転車に乗っているのだ。信じられないような光景だったが、これを見たぼくは「この程度の雨で電車なんて使ったら、日本人の恥だ」と、思いはじめた。「行ってしまえ!」と心の中で叫び、豪雨の中を再び走り始めた。
レインコートは濡れられる限界量を超え、サングラスは雨粒で埋め尽くされ視界がなくなった。もはや自転車を漕いでいるというより、泳いでいる感覚に近い。「せっかくの夏休みに、何でこんな辛い目に遭っているんだ」と、何度も泣きそうになりながら、ようやくロッテルダムに到着した。
ずぶ濡れの状態でホテルに入り受付を済ませると、ロビーにいた男が「君はサイクリストか?」と聞いてきた。ベルギー人のマリオという男だった。彼は2年前までセミプロのロードレーサーだったそうだ。そして自転車で旅をしているぼくを気に入ってくれ、たくさんのベルギー情報を教えてくれた。
「ベルギーで何か困ったことがあればいつでも連絡してくれ。俺たちは友達だ!」
歳は近いが、とてもしっかりした男だった。あのタイミングでぼくがロビーにいなければ、マリオと会うこともなかっただろう。「この出会いのために雨が降ったのかもしれない」と考えると、妙に納得できた。
親切なおじさんに感謝
ロッテルダムを後にすると、ベルギーのブリュッセルを経由しイギリスへと向かう。イギリスへは自転車ごとユーロスターで移動した。
イギリスに寄ったのはマンチェスターで本場のサッカーを観るためだったが、交通量の多いロンドン市街地を自転車で走ることも貴重な体験となった。とにかく道が混雑していて危険ではあったが、イギリスは西ヨーロッパで唯一左車線の国。日本からやってきたぼくにはかなり走りやすかった。
その後マンチェスターから、飛行機でポルトガルへ向かうことにした。自転車を飛行機に載せるためには車体を梱包する必要があるのだが、今回ばかりは空港で段ボールを調達するしかない。航空券を予約してあるとはいえ、もしこの場で梱包できなかったら……ポルトガルを諦めて陸路でスペインに行くことになる。
空港に着き、チェックインカウンターで「箱はありませんか?」と尋ねるも、「俺は知らないよ」と一蹴される。他のカウンターへもいろいろと行ったが英語がよく聞き取れず、どうしていいのかわからない。
「やはり飛行機は諦めるしかないのか……」
ところが諦め半分で作業員のおじさんに相談してみたところ、裏口から大きなダンボール箱を持ってきてくれた。かなりボロボロだったが、なんとか梱包に成功した。親切なおじさんに感謝。これで諦めかけていたポルトガルに行くことができると思うと、嬉しくてたまらなかった。
未知の国ポルトガル、そこではどんな出会いや冒険が待っているのだろうか。ぼくは胸を弾ませながら飛行機へ乗った。
これこそがぼくの自転車旅
目が覚めたとき、部屋には強い日差しが飛び込んでいた。ポルトガルは、これまで訪れてきた国々とはまるで気候が異なっている。ドイツやイギリスでは常に分厚い雲に覆われ、8月だというのに夕方になれば日本の秋のように少し肌寒かったのだが、それに比べ南欧はなんて素晴らしいのだろう。湿気がなく、気温も高い。待っていたのは、この暑さだった。
首都リスボンは、坂道の多い美しい街だ。急な勾配の小さな通りには、かわいらしい路面電車が次々と往来する。首都とはいえ高層ビルは少なく、どこか懐かしさを感じさせる風景に愛着が湧いた。人も親切だし、海も空も素晴らしい青さだし、最高の国だなと思った。
しかし、ポルトガルが自転車に優しい国でないことは確かだった。なぜなら、自転車専用道というものがほとんど存在しなかったからだ。コインブラからポルトまで120km走った日、自転車とすれ違ったのはわずかに2回だけ。どこにいても自転車が視界に入ってきたオランダと比べると、「同じヨーロッパでも、ここまで状況が違うのか」と、思わざるを得なかった。
そして日本と同じように車道の端を走ることになるのだが、状況は日本よりも悪い。高速道路でもない一般道路が、時速制限120kmという、信じられないルールだったりするのだ。そんな道を30分も走れば、一度は轢かれたねずみや猫の死骸に出くわす。「少しでも油断したら、ぼくもこうなってしまうのか……」と、ハンドル操作にはいつも以上に力が入った。スレスレで通り過ぎる大型トラックの風圧で何度もガードレールに叩きつけられそうになりながら、ぼくは恐る恐るポルトガルを北上した。
日本人なんて絶対にいるはずのないような田舎町で、ひとり坂道を喘ぎながら登っているうち、忘れかけていた感覚が蘇ってきた。日本のみんなが夕食を食べてエアコンの効いた部屋でテレビを見てくつろいでいる時間に、ぼくは誰にも気付かれることなく、太陽を浴びながらひたすら自転車を漕いでいる。さっきボトルに入れたばかりの水は既にお湯になっていて、飲もうとすれば失敗して鼻にかかり、シャツで顔を拭こうとすれば汗と水でどんどん汚れていく。まるで「快適さ」とはかけ離れている。
なのに、不思議と心地良いのだ。「おい、こんな坂に負けていいのか?」と自分を奮い立たせ、坂道を登りきる度に「よくやった」と自分を励ます。自分との闘い、自己との対話を繰り返しながら、景色が変わっていく。ぼくにとって、自転車旅の魅力はそんなところにあったはず。
「そうだ、これこそがぼくの自転車旅だ」
ポルトガルの大地が思い出させてくれた。
一歩踏み出しさえすれば……
ポルトから更に北へ100km、川にかかる小さな橋がスペインとの国境になっていた。国境というと何か大がかりなものを想像していたが、パスポートを見せる必要がないどころか、人すら立っていない。そこにあるのはポルトガルとスペインの国旗が表示された小さな看板のみで、国が変わったという実感がまるでない。
しかし、それもほんの数分のこと。突然ビューンという音とともにぼくの横を風のように過ぎ去ったのは、ポルトガルでは一度も見なかったロードレーサーだった。あまりに速かったので「かなり本格的な人だな」なんて思っていたら、更に10人近い自転車集団が一気にぼくを抜いていった。スペインはロードレースが盛んな国だ。国は確かに変わっていた。
小さな町でカフェに入ると、自転車に乗った東洋人がよっぽど珍しかったのか、お店中の人にジロジロと見られた。英語のわからないおばさんに、ジェスチャーと顔の表情を駆使して必死に「何か食べ物が欲しい」と伝えた。するとおばさんは、お皿の上に焼き菓子を5つのせて手渡してくれた。
「いくらですか?」という顔で財布を見せると、「お金はいらないわ。食べなさい」という顔。なのに「ありがとう」にあたるスペイン語がわからず、その場でお礼を言えなかった自分がひどくもどかしかった。
お菓子を食べながら電子辞書で「とてもおいしかったです。ありがとう」というスペイン語を何度も練習し、帰り際おばさんに言った。おばさんはにっこりと笑って「グラシアス(ありがとう)」と言ってくれた。少しスッキリした。
そしてバレンシアで世界三大祭りの一つであるトマト祭りを満喫した後、バルセロナへ向けて走り出した。その日の日記には、こんな言葉が書いてある。
「日本を出て24日が経った。疲労が蓄積していくため、なかなかスッキリした状態にならない。たまには一日中寝ていたいなと思うこともあるが、前に進まなければいけない。一歩を踏み出すのは億劫だが、一歩踏み出しさえすれば後は勝手に進んでくれる。自転車だけではなく、大抵のことはそうだ」
自転車旅という限定されたものを通じて、様々な普遍的なことを学んでいた。バルセロナでは自転車のメンテナンスのため3日間滞在することになったが、気持ちも新たに再スタートを切ることができた。ここから旅は後半戦に突入する。地中海沿いにしばらく走ると、遠くにではあるが、しかしはっきりとピレネーの山々を見ることができた。
折り紙は世界を繋げる
ここはスペイン最北東の街、フィゲラス。ピレネーはもはや目前、その向こうはいよいよフランスだ。画家ダリの出身地でもあるこの街では、「ホテルヨーロッパ」という家族経営の小さなホテルに泊まった。
「朝食は7時からよ」と説明するお母さんにピッタリと寄り添っている子供たちが可愛く、思わず微笑んでしまった。翌朝出発する時ふと思い立ち、ロビーに置いてあったメモ用紙で折り鶴を作り男の子にプレゼントをした。
するとこれが、意外なまでに大喜び。隣にいた女の子が「私にも作って!」と騒げば、お母さんは「どうしてただの紙でこんなものが作れるの!? アンビリーバボゥ!あんたたち!作り方をよく見ておきなさい!」と、子供たち以上に興奮している。
しかし、実際に折っていく過程を見ると、「ワーォ、ベリーコンプレックス(複雑)」としきりにため息を漏らし、「とても覚えられないわ。日本人は手が器用ね」と諦め半分で苦笑い。
子供たちは折り鶴のお返しにと、「ありがとう」と書かれた手作りのブレスレッドをプレゼントしてくれた。そして「このホテルが大好きです。」と言うと、「私もあなたが好きよ。日本人のこと、好きになったわ」と言ってくれた。折り紙を通して世界が繋がった。……驚いたのはぼくの方だ。
死と隣り合わせの、命懸けの旅
フランスへと突入した。旅が始まって1ヶ月が経ち、ようやく生活のリズムにも慣れてきたところで緊張感が少し失われていたのだろうか。ぼくは、生まれて初めての「落車」を経験した。
一面のブドウ畑に囲まれながら、北東へと進んでいた時のことだった。いつものようにロータリーを右に曲がろうとすると、目の前には水たまり。何故そこにこぼれていたのかはわからないが、その液体がガソリンだと気付いた時には既に遅し。時速30kmで走っていた自転車はツルっと宙を浮き、顔からコンクリートに叩きつけられた。幸いにも自転車は無傷。右肩と顔に軽傷はあるものの、骨折した箇所もなかった。
だが海外での一人旅では誰に助けを求めれば良いのかわからず、精神的なダメージは大きい。近くの薬局に駆け込むと、店員さんが応急処置をしてくれた。何を言っているかわからないが、「大変だったわね」という顔で消毒をしてくれた。それだけで随分安心できた。その時のぼくにとっては、「人とふれあうこと」が何よりの治療だったのだ。
怪我が落ち着くまで、少し体を休めようと決めた。南フランスのニースへと向かう電車の中、地中海に沈む夕陽を見ながら再び事故を思い出した。「ぼくは今、一歩間違えれば死と隣り合わせの、命懸けの旅を行っているのだ」と、改めて思った。
「ヨータ、よく来たな!」
ニースからモナコにかけての地中海沿いの道は、今回の旅で最も心地よかった。
片側に美しい地中海、もう片側には”鷲の巣村”と呼ばれる急斜面に密集した村々が姿を現す。モナコを出ると40kmほどでイタリア国境の街ヴェンティミーリアに到着。港町ジェノヴァを通り、都市ボローニャへとやってきた。
この街の広場で、ぼくはある人を待っていた。遡ること2週間。トマト祭りに参加するために立ち寄ったスペインのバレンシアでの、ちょっとした出来事だ。
―――――――――――――――――――――
「スペインと言えば、パエリアだ」と思いぼくは、レストランに飛び込んだ。しかしウエイトレスに注文をすると、「パエリアは二人前からしか作れないのよ」。ぼくは渋々、パスタを頼んだ。「スペインに来てパスタを食べるなんてなぁ」なんて思いながら周りを見渡していると、ふと隣に座っているおじさんが目に止まった。このおじさんは一人なのに、パエリアを食べているではないか!ぼくは、思わず話しかけてしまった。
「すみません、パエリアって二人前からじゃないと注文できないのでは?」
「そうだよ」
「え?でも、おじさん一人ですよね?」
「あぁ、だが食べ切れないことはないさ」
見ると、大きな鉄鍋に盛られた二人分のパエリアを間もなく完食するところだった。少食のぼくには真似できない芸当だ。
「君は何を注文したんだい?」
「パスタです」
「おいおい、スペインに来てパスタか!はっはっは!」
「・・・・・」
そんな調子で仲良くなったステファノさんはイタリア人で、仕事の出張でバレンシアに来ていたそうだ。
「そうか、自転車小僧。これからイタリアへ向かうのか」
「はい。ステファノさんはイタリアのどこに住んでいるんですか?」
「モデナという街さ」
「ぼく、モデナの近くのボローニャに寄るつもりです」
「ではボローニャに着いたら私に連絡しなさい」
そう言って、電話番号を書いた小さな紙切れを残して去って行ったのだった。
―――――――――――――――――――――
「ヨータ、よく来たな!はっはっは!」
ステファノさんは彼の娘と友人の日本人を連れて現れ、地元で人気のレストランに連れて行ってくれた。そこで食べたポルチーニ茸の味は忘れられない。
この広い地球で、スペインで初めて出会った人と2週間後に今度はイタリアで会い、ご飯までご馳走してもらえるなんて……奇跡だ。人は本当に好きなことをしている時、良い流れを引き寄せるものなのだろうか。
「あそこでこの人に出会っていなければ・・・」と思うことが、この旅ではたくさんあった。
「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に」という言葉があるが、それを日毎に深く実感する。人は見えない力で繋がっている。
旅は残りあと20日。ボローニャからフィレンツェへと向かう山道で、この旅最大の試練が待ち受けていた。
アペニン山脈での死闘
イタリアを南北に縦断するアペニン山脈。ボローニャからフィレンツェへと向かうぼくにとって、避けては通れない峠だ。
ボローニャ郊外に出るとすぐに殺風景な山道に入り、人家はなくなった。ハンドルに取り付けられたGPSの標高計は、300mから400m、500m…と、刻みを止めることはない。
「どこまで登るんだ……」
喘ぎながら立ち漕ぎを続ける。足は既につりかけている。フィレンツェはまだ、100㎞も先だというのに……。
本当に疲れると、「疲れた」という言葉すら言えなくなってくる。つばを飲む力も、鼻水をすする力もなくなってきた。必死に呼吸をするのが精一杯で、このまま死ぬんじゃないかとさえ思った。そんなとき、ふと意識朦朧のなかで「大和魂」の三文字が頭をよぎる。
「日本人がヨーロッパの坂に負けてたまるか。お前、箱根の山を越えたじゃないか」
誰が見ているわけでもない、歩いたってバレやしないが、諦めないことがぼくにできるみんなへの恩返しだった。
「一人旅だけどぼくは一人じゃない。みんなと繋がっている」
不思議と前に進む力が湧いてきた。
標高930m。ついに峠を越えた。
苦しみを乗り越えた末に訪れる下り坂は、言葉では表せないほど爽快だ。足がつりながら、苦労の先にたどり着いた花の都フィレンツェで、旅の疲れを癒した。辛い経験をすればするほど、心が自由になっていく気がした。
自転車メーカー「BASSO」の社長と対面!
水の都ヴェネチアを経由し、北イタリアの街パドヴァにやってきた。当初は訪れる予定のない街だったのだが、ある人物に会うために。
ぼくが乗っている自転車は、イタリアのBASSO社製のロードバイク。そのBASSOの本社がこの近くにあるということを知り、せっかくだから本社に挨拶に行ってみたいと思ったぼくは、日本で協賛していただいたジョブインターナショナルという自転車会社の高橋社長にメールで相談した。
すると、なんとBASSO社長の携帯電話の番号を教えてくれたのだ! これも何かの縁だと思い、ぼくは恐れながらも社長のMr.バッソに電話をかけてみた。
「ハロー?」
「ハロー」
「Mr.バッソですか?」
「そうだよ」
「……!」
本当に繋がった。ぼくは片言の英語で、必死に状況を説明した。「あなたに会いたいです」と伝えると、Mr.バッソはこう答えた。
「残念だが、今は本社にはいないんだ。実は明日からパドヴァで、自転車展示会があるんだ。そうだ、良かったら君もそこに来ないか?」
この展示会はイタリア全土から人が集まるほど規模が大きいものだ。たまたまぼくが訪れた日に、年に一度の展示会が開催されていたのだ。これは単なる偶然なのだろうか……。
パドヴァの街に着き、広い会場を30分近く歩き回った末に、ようやくBASSOの展示ブースを見つけた。係の人に聞いてみた。「Mr.バッソはいますか?」すると1分後、奥から貫禄のあるおじさんが笑顔で出てきて、握手を求めてきた。
「ハイ、ヨータだね!」 Mr.バッソだった。
「はじめまして。ぼくはこのBASSOの自転車で、西ヨーロッパを一周しています。走り心地は最高です。あなたにお会いできて嬉しいです。感謝しています」
ガムシャラに想いを伝えると、とても喜んでくれたようだった。
「みんな、このジャポネーゼは、私の作った自転車でわざわざ日本からやってきてくれたんだ。すごいだろう!」
誇らしげに話すMr.バッソは、社長でありながら、デザイナーとして自らも自転車をデザインしている。つまり、もしこの人がいなかったら、ぼくが乗っているこの自転車も存在しなかったかもしれない。そう考えると感慨深い。
うまく言葉で言い表せないが、なんという奇跡だろう。ぼくは今、自分が乗っている自転車の生みの親と話している。この広い世界でひとつしかない「点」が、目の前にあるのだ。しかもMr.バッソは、見ず知らずの、いきなり訪れた日本人に非売品のシャツと帽子をプレゼントしてくれた。もちろん、旗にはサインも。
旅をしていると辛いこともあるが、それを凌駕する素晴らしい体験が待っている。それは得てして、人とのふれあいの中にある。そんな風に思えた、幸せな一日だった。
スイスで感じた「淋しさ」
翌日、ぼくはスイスへ突入した。「こんな山、見たことない」。日本では見ることのできない絶景だった。アルプスの谷間を、軽快に走っていく。道端の牛や羊の群れ。時には、迷いのない緑の平原に囲まれる一本道。走っているだけで幸せになれる、そんな景色だった。
チャップリンが愛したというレマン湖畔の街ヴヴェイには、長さ30㎞の世界遺産のブドウ畑が広がっていた。「おぉー!」しかし感動と同時にある種の淋しさを感じた。
毎日のように新鮮な光景と奇跡の出会いを繰り返してきたこの素晴らしい日々も、もうすぐ終わりを迎えるのだ。
国境の街バーゼル。再びドイツへ戻ってきた。ゴールのベルリンまで残り一週間。朝の寒さに、時の流れを感じた。もうヨーロッパは、初秋を迎えていた。肉体的な疲労は既に限界に近付いていたが、今日もいつものように旅の相棒にまたがり、自分を奮い立たせる。
「いくぞ……。最後の走りだ!」
少しだけ成長し、再び戻ってきたドイツ
スイスのバーゼルから国境を越え、75km先のフライブルクへ向けて田舎道を進んだ。50日ぶりに戻ってきたドイツ……やはり、一度走ったことのある自転車道は落ち着くものだ。ぼくは久しぶりにリラックスして走ることができた。
この旅で、同じヨーロッパでも国ごとに自転車のルールが微妙に異なることを知った。「この道は走ってもいいのだろうか」と、新しい国に入るたびに緊張したものだ。スイスでは、標識がわからないために高速道路に入ってしまい、警察に止められて注意されたことも……。
途中、自転車道が急に途切れ、行き方がわからなくなってしまった。小道に逸れ、入り組んだ小さな村で更に迷っていると、後ろからサイクリングをしているドイツ人の親子がやってきたので声をかけた。困っているとき、こうした「流れ」が必ず訪れることも、この旅で発見したことだ。
「どこへ行くんですか?」
「フライブルクさ」
「そうですか……。バーイ!」
ぼくは笑顔で手を振った。そして、距離を置いてこっそり後をつけた。彼らがフライブルクまで導いてくれる……ずいぶんと旅慣れたものだ。
それから6日後、最後の経由地であるシュテンダールに着いた。ゴールのベルリンまで130km、旅はいよいよ残すところ一日となった。
ラストダンス
「今年の夏は、自転車でヨーロッパを走る」
振り返れば、そう決意した2010年の1月31日からこの道は続いていた。資金もなく自転車もない、まったく無からのスタートだった。
ちょうどそのころ、新聞で「若者の海外旅行離れ」という記事を読んだ。20代の若者が、海外に興味を持たなくなってきているというのだ。海外を知るということは、日本を知ることでもあるのに……自分に何かできることはないだろうか。
「ぼく自身が自転車で海外を走り、その感動と旅の素晴らしさをブログという手段で同世代の人間に伝えていけば、わずかでも海外に行きたくなる若者が増えるかもしれない」
この想いを企画書にまとめ、企業に飛び込み営業をかけ続けた。旅の資金は全て、スポンサーから集めると決めたからだ。
門前払いを食らったこともあれば、「無理に決まっているじゃないか」と批判を受けたこともあった。それでも自分の夢を諦めることはできなかった。
「私の分まで旅をしてきてください」
「旅のブログ楽しみにしています」
徐々に協賛者が集まってきた。学食のおばちゃんから誰もが知る大企業まで、たくさんの人が応援してくれた。そして15社からの物資提供と、300名の個人協賛を頂き、旅は実現。応援してくれた人たちの名前で作った日の丸を掲げ、ぼくは日本を飛び立った。ーーー
朝8時、シュテンダールの街を出ると、一週間ぶりの青空が見えた。もう余力を残す必要はない。無心で、最後の自転車旅を楽しんだ。時にはゆっくりと景色を眺めながら、時には速く、風を感じながら……。
朝起きて、荷物を背負い自転車で走り、夕方は街を観光し、そしてブログを書いて寝る。そんな生活を繰り返してきた。カラダは限界に近づくも、夢だったヨーロッパの自転車旅は毎日が新鮮で、想像以上に楽しかった。たくさんの景色と人との出会いが、胸を揺さぶった。
淋しい気持ちが半分、ようやく終わるという安堵感が半分。複雑な心境に、ぼくは人気のない道中で叫び声をあげた。泣いても笑ってもこれが最後の走り。ラストダンス。これまで応援してくれた人、出会ってきた人たちへの感謝を込めて、精一杯走った。
午後5時。ベルリン市内に入った。ゴール地点と決めていたブランデンブルク門には、ベルリンに住む兄のほか、数人が祝福に駆け付けてくれた。
日本にいるはずの母がそこにいたのには、本当にビックリした。
用意してくれた小さなゴールテープをくぐり、ぼくの「ツール・ド・ヨーロッパ」は幕を閉じた。帰国後、朝日新聞朝刊に掲載された。
旅の経験から学んだこと
ヨーロッパで過ごした2ヶ月間は、とてつもなく濃かった。新しい街や人との出会いの連続で、毎日が刺激的だった。価値観も大きく揺さぶられた。
「旅の価値」だと感じたことが、大きく3つあった。
まず、「生の体験は、バーチャルでは味わえない」と知れたこと。
写真やテレビでは何度も目にしていたサグラダ・ファミリアだったが、実際に対峙したとき、動きのある繊細な彫刻を目にして「この建築には生命が宿っているのではないか」と思った。それは、写真や映像では伝わってこないものだった。そのとき、「来てみなきゃわからない。自分の目で見てみなければ、わからないものだ」と深く感じ入った。
本物を見ること、現地を訪れることは、五感で味わうことでもある。体験は、その場の空気感と一緒に記憶に残る。アムステルダムの駅を降りた瞬間に漂ってきた街の「匂い」も強烈で、未だに強く印象に残っている。本で読んだ知識はすぐ忘れてしまうが、自分で経験したことはいつまでも忘れない。
それと、旅の刺激により、自発的に学ぶ意欲が湧いてくる、という効用もある。たとえば旅先で、どこかの美術館へ足を運ぶ。そこである作家の作品が好きになり、「どんな生涯を送った人なんだろう?」と興味を持つ。帰ってきてから、図書館でその作家の自伝や評伝を借りてきて、読んでみる。そして新たな発見や学びがある。作家へのリスペクトも生まれる。そういうことを繰り返すなかで、人生に深みが生まれてくる。
「旅の価値」の2つ目は、「海外を知ることは、日本を知ることでもある」と気付けたこと。
日本では「当たり前」だと思っていたことが、海外では「当たり前」ではない。そういう事実にたくさん突き当たった。例えば日本のレストランで水は無料で提供される。でも海外では、水ですら基本的に買わないと出てこない。また、ヨーロッパでは公衆トイレを使うのに50セントかかったりする。
バルセロナをはじめ、ヨーロッパの大都市ではスリが非常に多い。だから荷物や財布などは、常に気をつけてないといけない。日本のカフェでは少しばかり荷物を置いたまま席を離れても、盗られたりすることはほとんどないが、ヨーロッパではあっさり盗まれる。
ひとつひとつの体験から、驚きとともにその国の文化や慣習を知る。そして同時に、日本のことを知る。「今まで当たり前のことで気にも留めなかったけど、どうしてヨーロッパではこうで、日本ではこうなんだろう?」と初めて疑問を抱く。そうやって違いについて考えていくことで、日本のことがより理解できるようになり、人としての成長につながっていく。
3つ目は、「世界は広い」とわかったこと。
旅先で、いろんな価値観や発想を持った人たちと出会った。「こんなことするやつがいるのか!」「このアイデアはおもしろいな!」とたくさん感じた。それまでは、自分は結構すごいんじゃないかと勘違いすることもあったけど、海外に出てみて、いかに自分が平凡か、世の中にはもっとすごい人たちが山ほどいるかを思い知らされた。そしてそのことが、謙虚さをもたらしてくれた。自分なんて大したことない。そう思えるから、また努力ができる。
自転車旅は過酷だった。雨、風、怪我、山道、空腹、パンク、筋肉痛、眠気、責任、プレッシャー……。2ヶ月間でたくさんの辛さや絶望感を味わった。でも、ひとつひとつの苦しみと正面からぶつかって、乗り越えるたびに、強くなっていく自分を感じた。不思議なことに、不自由なことを経験するたびに、いかに自分が恵まれていたかを思い知らされた。すべてに感謝しなくちゃいけないと思うようになった。
世界は広く、自分は小さい。それを知れたことが、良かった。世界の広さを知らず、小さな世界で有頂天になるより、ずっと良かった。
*****
ヨーロッパ自転車旅を行う前に、旅行会社への内定が決まっていた。それは、我ながらナイス判断だった。
ぼくは就活の時期から、「旅」と「書くこと」を仕事にしたいと思っていた。それで選んだのが、旅行会社で海外添乗員をしながら、旅行情報誌の編集に携わる、という働き方だった。
2ヶ月間もヨーロッパにいたのに、それで旅の欲求が満たされることはなかった。むしろ欲求は増した。もっといろんな世界を見てみたい。20代のうちにできるだけたくさんの世界を訪れ、見識を広げる。そして30代以降で、広がった視野と経験を土台に、何か大きなことを成し遂げよう。そういう風に考えていた。
添乗員の難しさと心からの反省
2011年4月、都内の旅行会社に就職した。現在は国内ツアーも扱っているが、当時はまだ海外ツアー専門の会社で、60〜80代のシニア世代が主な顧客層だった。H.I.S.やJTBのツアーと比べると2倍近い価格の高級ツアーを販売していた。
ぼくは募集要項にあった「年間100日以上海外に行ける方」という言葉に惹かれて、「海外添乗員(ツアコン )」という職業を選んだ。
最初は営業のひとりとして、東欧や北アフリカのツアーを扱うチームに配属された。怖い上司と苦手な電話営業に苦しみ、5月から本格的に精神を病んだ。初めて心療内科のお世話になり、精神安定剤を飲みながら働くほろ苦い半年間だった。
8月、オーストリアのツアーで海外添乗員としてデビューした。最初だけ先輩に同行するが、2回目からはひとりきりで添乗する。成田空港で20名前後のお客様と対面し、そのまま一緒に飛行機に乗り、1週間〜10日前後をともに過ごすのである。それも、多くがぼくにとって初めて行く国や街だったから、事前の予習が大変で、入社3年目くらいまでは添乗準備のため多くの土日が潰れた。プロの添乗員として派遣される以上、「中村さん、この街は何回目なの?」「いやあ、ぼくも初めてなので全然わからないんですよ〜」などとは言えない。お客様を不安にさせてしまうから。「さすが詳しいね」と言われるくらい、街の歴史やバスのルート、観光スポットでのトイレの場所に至るまで、様々な知識を頭に入れておかないといけない。
添乗員になったものの、帰国後のアンケート評価では散々な結果だった。90点以上なら優秀添乗員として表彰される。80点以上でまずまず、最低でも70点以上は取らなきゃダメ、と言われていたそのアンケートで、42点という最低の点数を取ってしまった。その後もチェコ・スロヴァキア・ハンガリーやバルト三国のツアーなどを添乗したが、なかなか70点を取れなかった。
自分が結果を出せなかった理由は、今から思えば明白である。ぼくは「自分は優秀な人間だ」と思い込んでいた。結果が出ないのは「運が悪かったから」とさえ思っていた。まだ緩い大学生活を終えたばかりで、社会の厳しさも、人様からお金をいただくことの意味も、何も知らなかったのに、自分は大した努力もしないまま、新入社員から「すぐに結果を出せる」と思っていた。その過信が、うまくいかない原因だった。
心の底から反省して、変わるきっかけになったのは、2011年10月にバルト三国の添乗から帰ってきたときだった。このツアーのアンケート評価は、63点。前回の54点よりは少し上がったものの、まだ落第点。
だけど、ぼくは自分の何がいけなかったのか、全然わからなかった。90点以上を取る優秀な添乗員は、いったい自分と何が違うのか。研修で教えられた通りにやっているはずなのに。低評価の理由がわからないから、どう反省していいのかもわからなかった。
ある日、上司に呼び出された。
「中村とバルト三国に行った◯◯さんと、さっき電話で話したんだけどな。すごい残念がってたよ」
「え!? ツアー中お話ししましたけど、楽しそうにされていましたよ」
「お客さんもな、多少不満を持っていたとしても、やっぱりお世話してくれてる添乗員に対して、面と向かって言えない部分もあるんだよ」
「・・・。ぼくの何がいけなかったんでしょうか」
「◯◯さんが書いたツアー申込書の下に、『タリン(エストニアの首都)では旧市庁舎に入ってみたい』ってひと言書いてあったの、読んだか?」
「あ、読んだと思うんですが、、、流してしまっていました」
「なんでわざわざお客さんが、あそこにそう書いたかわかるか? 自分で勝手に行けるなら書かないよ。添乗員に手伝ってほしいから、書いたんだろう。『本当はタリンの自由行動時間で行きたかったのに、中村さんは何も案内してくれなかった。言葉も通じないし、不安だから諦めた』って残念そうに言ってたよ」
「え・・・」
「お前はさ、まだ若いんだからいいよ。これから先、バルト三国なんて行こうと思えば何回でも行けるよ。でも70を過ぎたお客さんにとっては、きっともう二度と行かない場所なんだよ。旧市庁舎のためにまたエストニアへ行くと思うか? 行かないだろう。あの人にとっては、最初で最後のバルト三国なんだよ。その大事な旅行を、お前は預かっていたんだよ。何としても楽しんでもらおう、悔いの残らないように希望を叶えてあげようという気持ちが、お前にはあったか?」
愕然とした。
それまでは、失敗しても、どこか他人事のように考えているところがあった。だけど今回は、(ちょっと遅過ぎるけど)社会人になってから初めて、偽りのない本心から、反省した。会社員としてではなく、ひとりの人間として、やってはいけないことをやってしまった。お客様の希望を叶えてあげられなかったのが、本当に悔しかった。
この失敗が、大きなターニングポイントになった。心の中で、自分に平手打ちをくらわせた。「優秀なはずの自分」を完全に捨てて、「ダメな自分」を認めた。ダメなんだから、イチから必死に努力して向上していくしかない。仕事と向き合う姿勢が変わり、至らない部分は素直に認め、反省と改善を繰り返すようになった。
それまでは、多少都合の悪いことがあっても、怒られたくないから「うまくいきました」「問題なかったです」などと報告していた。でもそのときを境に、自分にも人にも、嘘をつかないようになった。「申し訳ございません。本来はこうするべきだったのに、こうしてしまいました。次回から気をつけます」。嘘をついても自分のためにならない。余計なプライドを捨てたところから、自分が少しずつ成長していくのを感じた。
先輩の言葉とブレイクスルー
2013年春、社会人3年目になったぼくは、添乗から遠ざかってもう一年半近くが経っていた。バルト三国のツアーで良い結果を残せなかったため、長く干されていたのだ。その間、仕事は東京営業所の営業部から本社の編集部に異動していて、旅行情報誌の編集とライティングに携わっていた。
海外には行けなかったが、この会社でのもうひとつの目的であった「書くこと」には、嫌というほど携われた。朝から晩まで、旅についての文章をひたすら書き、添乗員たちが書いた文章をひたすら編集する日々。編集長とぼくの二人で雑誌のすべての文章をチェックしていたから、とにかく鍛えられた。単なる学生ブロガーだったぼくの文章力が飛躍したのは、この時期だっただろう。新しい環境で慣れないことも多く、毎日が必死だった。
しかし、添乗員としてたくさん海外へ行きたいと思って入社したのに、ぼくはもう二度と添乗へ行かせてもらえないかもしれない。そう思っていたから、5月に突然上司から言われたときはビックリした。
「中村、来月添乗行かせるぞ」
「え!? どこですか?」
「プリンス・エドワード島」
そこは『赤毛のアン』の舞台となった、カナダ東部にある「世界一美しい島」と謳われる場所だった。
もう、二度と添乗で失敗したくない。ぼくは初心にかえり、ツアーに参加してくださる20名の申込書を入念に読み込んだ。そのツアーに対する期待や思い入れが書き込まれているのを見て、ひとりひとりに対して、絶対楽しんでもらおうと決意した。
なかには、「小学生のときに『赤毛のアン』に出会って、それ以来ずっと憧れの場所でした」と書かれた70代の方がいらっしゃった。数十年に渡って抱き続けた憧れの旅が、ようやく実現するのだ。絶対台無しにはできない。
ぼくは、それまでの「とにかく失敗しないように」という「守り」の添乗ではなく、「お客さんが喜びそうなことなら何でもしよう」という「攻め」の添乗をしようと決めた。
昼食がついていなくて、お客さんが困るだろうなと思う場面でおにぎりを用意したり、朝食に野菜がついていない日は日本から持ってきたわかめスープを提供したり、魚料理が出て「ちょっと味が薄いわね」なんて声が聞こえた瞬間、「良かったら使ってください」とバッグに入れておいた醤油を出したり、モーニングコールで体調な悪そうな方がいたらおかゆを作って持っていったり、「赤毛のアンのミュージカルが観たい」というお客さんのためにチケットを買いに走ったり、フライトが大幅に遅延したときは航空会社のアメリカ人に「大事なお客さんを待たせてるんだ。みんなの軽食代を出してくれよ」と交渉して240ドルをもらってきたり、添乗に関していつも消極的だったそれまでの自分には、想像もできなかったくらい攻めた。
英語は苦手だったけど、「こうしたい」という情熱やジェスチャーで、空港職員やホテルのマネージャーを動かすことができた。
滞在3日目のお昼ごはんは自由食で、お客様には各自マーケットで買って食べていただくのだが、お米が恋しくなっている方もいるかもしれないので、ぼくは20人分のおにぎりを作って皆さんに配ることにした。
朝5時に起きて、日本から持参した大量のサトウのごはん(赤飯)を持って、ホテルの厨房へ行った。居合わせたスタッフに事情を説明して、大きなお鍋にお湯を沸かしてもらった。そこにサトウのごはんを入れようと思った矢先、レストランマネージャーのおばちゃんが現れて、「あなた何してるの?」と怒られてしまった。
「ここでおにぎりを作らせていただけませんか?」
「私たちこれから朝食を作るから忙しいのよ」
「ごめんなさい、でも、お客さんにおにぎりを配りたいんです・・・」
「・・・何時までに必要なの?」
「8時です」
「わかったわ。そしたら、私たちが作るから、作り方を教えて」
「Wow」
英語ではうまく言えないので、おにぎりの写真をスマホで見せて、あとはジェスチャーで作り方を伝えた。正直、うまく作ってくれるだろうかと、少し不安だった。しかし、8時になるとおばちゃんがやってきて、「準備はできているわよ」と声をかけてくれた。恐る恐る容器のフタを開けると、そこには要求したとおりのおにぎりが、ちゃんとできていた。「Thank you so much!!」味もバッチリだった。
ツアー出発前夜、ぼくは終電まで先輩からの添乗レクチャーを受けていた。カナダ担当の先輩もまた、ぼくの添乗がうまくいくように、熱心に指導してくれた。深夜0時を回ったとき、ぼくが帰ろうとすると、「もう教えられることは全部伝えたけど、最後に1分だけ、これだけ言わせて」と先輩に言われた。
「観光って、光を観るって書くじゃん。お客さんは景色とか、文化とか、その国の『光』を観に行くんだよ。景色だったら、天気が悪ければ台無しになるかもしれない。でもね、添乗員である中村くんが光になれば、お客さんは天気が悪かろうが、教会が工事中だろうが、いつでも『観光』ができるんだよ。だから、天気が悪いから旅が悪くなるなんて、決してないんだよ。中村くんが暗ければみんなも暗くなるし、明るければみんな明るくなるんだよ。中村くん次第だよ、頑張って。応援してるよ!お気をつけて!」
実は、カナダの天気予報を見ると、旅行の間ずっと雨の予報で、とても心配していた。そんなときに先輩がこの言葉をかけてくれて、天気が悪かろうが、ぼくだけは絶対に光り輝いていようと思った。
現地では実際に雨やくもりばかりだったが、そんなことはお構いなしに、皆さん楽しんでくれた。一番のハイライトとなる日だけは、予報を見事に覆して、午後から青空が広がった。晴れて、こんなにホッとしたことはない。そこには、紫一面の、満開のルピナスが咲き誇っていた。それまでに様々な苦労があったから、余計に、「なんて美しいんだろう」と思った。
なだらかな丘陵地帯に、赤土と畑の緑がパッチワークのように広がり、それを青空と海が囲んでいる。「世界一美しい島」と謳われるのも頷ける、あまりにも美しい景観だった。ぼくの心にいつまでも残る、忘れられない風景だ。
もうひとつ、ツアー中のこんな思い出がある。
「みなさーん、もし日本のご家族やご友人にお手紙を書かれる際は、今回は町のポストに……入れちゃダメですよ〜」
一同「え〜? どうして?」
「ツアー5日目の観光時に、グリーン・ゲイブルズ郵便局という場所にご案内しようと思っています。ここは『赤毛のアン』の作者であるモンゴメリが今から100年も前に働いていたところでして、今なお現役の郵便局です。実は、ここからハガキを出すと、記念の消印を押してくれるんです。せっかくこの島に来たんですから、お手紙はそこで出しましょう! なので、5日目までに頑張って書いていただいて、当日忘れずに持ってきてくださいね」
このご案内は大いに喜ばれた。もし何も案内しなかっら、5日目になって、「あらー、ここからハガキ出せば良かったわ〜」なんて声を聞いていたかもしれない。お客様にとっては、もう一生で二度と行かない場所。どんなに小さなことでも、後悔させてはいけない。
ツアーから帰国してしばらくすると、カナダからハガキが届いた。なんと、その郵便局から、お客様がぼく宛に出してくれていたのだ。これにはビックリした。ちゃんと赤毛のアンの消印が押されていた。まだツアー途中だったのに、「誠実な人柄が素敵です」と嬉しい言葉をいただいた。
帰国後のアンケート結果は、96点。それまで落第点しか取ったことのなかったダメ添乗員は、初めて会社から表彰され、報奨金をいただくことになるのだった。
プリンス・エドワード島(カナダ)の添乗でようやく結果を出せたぼくは、それからの2年間で様々な国に行かせてもらった。
オーストリア、マレーシア、フランス(アルザス)、アラスカ(秋)、フランス(南仏)、タヒチ、イースター島、カンボジア、アラスカ(冬)、韓国、ルーマニア、ブルガリア、カナダ、オランダ、などのツアーを添乗した。もうアンケート評価で落第点を取ることはなく、良い結果を残してまた何度か報奨金もいただけた。
初めて訪れる土地ばかりで準備は大変だったが、その分得られる経験も多く、帰りの機内ではいつも自分が少しだけ成長しているような気がした。
お客様から学んだ大切なこと
向いてないと思う仕事のなかにも
新卒で旅行会社に入社して営業部に配属されたとき、ひたすら怒られる辛い毎日に、サラリーマンは心底自分には向いてないと思った。さらに、4ヶ月後に添乗員として初めて海外へ行ったとき、これはもう完全に道を間違えたと思うくらい、苦手意識を持った。
「旅が好きなこと」と「旅を仕事にすること」はまったく別物だった。自分が楽しむことしか考えてこなかった人間が、お客様を楽しませよう、最高の旅だったと思ってもらおう、と考えなくてはいけないのだから。せっかくの海外で、それも初めて訪れる土地で、自分の好奇心を押し殺さなきゃいけない。
世界遺産の絶景を前に、
「中村さん、ここ何回目なの?」
「3回目ですね! いつもはもっと混んでますが、今回は空いててラッキーですよ。はい、じゃあ記念写真撮りますよ〜。カメラ貸してくだーい! あ、お手洗いですか? あちらの施設に入って右奥にございます!」
なんて、「もう飽きるほどこの景色を見ました」風に答えていたけれども、ぼくだって初めてですよ! 何この絶景!? 世界遺産すごい!もっとゆっくり眺めたいのに! もっと自分のカメラでもたくさん写真撮りたいのに〜!
「では皆様、そろそろバスにお戻りくださーい(๑>◡<๑)」
バスの中で話すのも緊張するし、かといって添乗員が黙ってると移動時間がお通夜みたいな雰囲気になってくるし。そんなこんなで、最初の2年間はまったく結果が出せず、辛い日々だった。
でも仕事を辞めるのは、辛くて辞めたいときではなく、「この仕事も楽しいし、辞めなくてもいいかな」と思えたときにしよう、という気持ちがあった。たとえ仕事が向いてなくても、なんとか自分の良さを出せないか。自分の持っているものをこの仕事に活かせないかと、必死にもがいていた。
南フランスの地中海沿いをバスで旅していたときだった。
「実は学生時代、この道を自転車で旅したんです。バルセロナの方から、ニース、モナコを通って、イタリアへ抜けて。そのときはこういう出来事がありました・・・」
ツアーに関連づけて自転車旅の話をすると、お客様が真剣に聴いてくれているのを感じたので、さらに派生させて、スポンサーを集めて旅を実現させた話や、そもそもなぜ自転車旅をするようになったのかという話もしていった。すると、普段歴史や文化のウンチク話をしても眠ってしまうようなお客様までしっかり聴いてくれて、最後は拍手まで起こった。途中の街でバスを降りると、「おもしろかったよ。明日もまた中村さんの話を聞かせて」と言われ、それ以来、長距離バス移動の日は講演会のような時間になった。
「あの話に台本はあったの?」
「いえ、アドリブでした」
「とってもおもしろかったわ。3時間よく何も見ずに、周りの景色にも気を配りながら時間ぴったりに話を終わらせて、感心しました。中村さんの挑戦の話を聞いて、勇気づけられたの。私もまだまだこれからだ、って。海外旅行にほとんど行ったことがないから、これからたくさん行くわ。だからまずは英語を勉強するって決めたの。その後はフランス語ね。
さっきガイドさんが、『ゴッホが生きている間に売れた絵は、たった一枚だけだった』って話をしたでしょう。生前に彼の絵をたくさん買っていたら、後で大儲けできたでしょうね。その話を聞きながら、中村さんのことを思ったのよ。あなたに関しても、これから同じことが起こると思うわ。今のうちにサインをいただいておこうかしら。私、添乗員としてではなく、人間としてあなたのこと興味深く見ているわよ」
当時、自信をなくして承認欲求の塊のようになっていたぼくにとって、耳を疑うような奇跡のお言葉で、涙が出るほど嬉しかった。
カナダを旅した際にも、お客様が手帳のようなものにイラスト付きのメモを書いていた。
「何を書かれているんですか?」
「これ? わたしね、旅行中は毎日絵日記をつけているの」
「へー!素晴らしいですね!」
「じゃあ、特別に昨日のページを見せてあげましょう」
「ありがとうございます!」
「はい、昨日の主役は、中村さんよ」
「え?」
「移動時間、中村さんの体験話に花が咲く」
「まだ若く短い人生経験なのに、年寄りたちが引き込まれる話にビックリ」
これも嬉しかった。自分の経験なら、いくらでも話せることがあった。
(この話は意外とウケるんだな)
(あのエピソードはちょっと余計だったかな)
生の反応が貴重なフィードバックになった。会社を辞めてから、ぼくは阪急交通社のイベントで、あるいは都内の高校で、講演するようになった。バスでの経験がそのまま生きていた。
社会人3年目になって、ようやく少しずつ結果が出せるようになってきた。あるときお客様から「添乗員は天職ね」と言われて驚いた。もちろん自分ではそんなこと思っていなかったが、そう言ってもらえるくらいには仕事ができるようになったんだなと自信になった。
入社して5年目のある日の帰り際、上司に呼ばれて、添乗員ランクが最高位に昇格したことを告げられた。最初の頃の自分からは想像できなかったことだった。好きなことばかりやってきた自分にとって、会社員時代に得られた大きな収穫は、「向いてないと思う仕事のなかにも、成長のヒントが隠されているのではないか」という意識だった。
お客様から学んだこと
「中村さん、お金はね、追いかける人にはついてこないんですよ」
普段接することのない、シニア世代のお客様との交流でも、たくさんの学びがあった。仕事の関係を超えて親しくなった方もいる。ときに厳しく叱ってくださり、ときに温かい言葉で背中を押してくださった。フランス滞在中の出来事が忘れられない。
ぼくは一組のご夫妻を美術館にご案内したあと、レストランで食事していた。奥様と会話を続けていると、横でじっと黙っていたご主人が突然話し始めた。
その言葉と声に重みを感じたので、「失礼ですがご主人は、現役時代どんなお仕事をされていたのですか?」と聞いてみた。すると、実は大手製薬会社の取締役だった方で、前年に引退されて、旅行に来たのだそう。ツアー中は口数が少なく、「優しくて温かみのあるおじいちゃん」という印象だったが、いざ話し始めると眼光が鋭くなり、凄みが増した。
「海外出張は多かったですか?」
「多かったですね。40代で役員になったもんで。ところで中村さんね、役員って、どういう人間がなると思いますか?」
「え?」
「私の上司は、なぜ私を役員にしたのでしょうか。あるいは、私はどういう人間を役員にしてきたのか」
「考えたこともなかったです」
「それはね、経営者の側で考えればわかるんですよ。ピュアな人間であること、損得を考えない人間であること、信頼できる人間であること。これなんですよ。
自分の利益を優先する人を、役員にできますか? そんなことしたら会社が潰れちゃいますよね。自分の損得を考えず、熱心に働く人を役員にしたいでしょう。でも、役員にしたら、給料を上げざるを得ないでしょう。だから、損得を考えない人に、結局はお金がついてくるんですよ。
お金だけじゃない。そういう人はね、良い人や、良いチャンスに恵まれるんですよ。たくさんの機会が与えられます。偉そうに言ってますけどね、私がこのことに気付いたのは、50を過ぎてからです」
「あなた、もうお喋りはこの辺にしておきなさいよ。中村さんも次のお仕事があるんだから」
「すいませんね、年寄りのつまらない話を」
「いえ、メモしておけばよかったと後悔しています」
「でもね中村さん。こんな話、年に一度くらいしかしませんよ。あなたのお話を聞いていて、つい話したくなったのです。あなたはこれからも、自分の好きなことをやっていけばいい。何か大きなことを成し遂げますよ。一緒に写真撮りましょう」
趣味のインタビュー活動が仕事につながった経緯
「月5万稼ぐのがどれだけ大変かわかった」
「仕事が楽しい」と心から感じ、充実した日々を過ごせるようになったのは、社会人3年目の後半あたりからだった。この頃には添乗の苦手意識も消えていたし、編集部での仕事も良いチームワークのなかで進められた。
しかし、仕事に慣れてしばらくすると、新たな感情が芽生え始めてきた。
社会人4年目のあるとき、大手外資系企業に勤めていた大学時代の友人が、突然会社を辞めて、ひとりで事業を始めた。会社での年収は決して悪くなかったはず。それを手放すということは、稼げるビジネスを見つけたのだろうか。素晴らしく優秀で、ガッツのある男だから、なんだか羨ましいなと思っていた。
それから半年ほど経って、久しぶりに彼と会った。
「ひとりで仕事を始めてみて、どう?」と軽い気持ちで聞いてみたら、
「月5万稼ぐのがどれだけ大変かわかった」
と言うので、ぼくはガツンと大きな衝撃を受けた。そんなに苦労しているのか・・・。そして会社を離れてひとりで仕事をするというのは、それほど厳しい世界なのか・・・。
しかし、なぜかそのとき、ぼくは彼の生き方に憧れた。普通、そんなに生活が苦しそうだとわかったら、「自分は会社員で良かった」「安定収入があって良かった」と思いそうなものなのに。
だけど、ぼくは「給料」というものに、ずっと漠然とした違和感を抱えていた。会社に対して、「本当はいくら分の貢献ができたのか」がよくわからないまま、毎月25日に決まった給料が振り込まれる。大きな成果を出せた月も、それほどではなかった月も、額は変わらない。自分はこの給料に見合うだけの仕事ができているのか、あるいは本当はもっともらってもいいはずなのか、よくわからなかった。そういう不明瞭な点にモヤモヤした。
それよりもぼくは、「実感をともなった5万円」に憧れを持った。よゐこ濱口の「獲ったどー!」みたいな感覚が欲しかった。
彼との会話がきっかけで、徐々に「フリーランス」という働き方を意識するようになった。とはいえ、すぐに会社を辞めたところで、大したスキルもないし、食べていけないだろう。突破口がわからなかった。
また、給料の仕組みだけでなく、自分の不甲斐ない働き方でも、悩みを抱えていた。
職場では、最初のうちこそ、「こうした方がいいんじゃないか」と思うことがあれば、上司に意見していた。でも、「何を言ってるんだ」「お前は何もわかってない」と怒られるたびに、どんどん発言することが恐くなっていった。次第にほとんど自分の意見を言えなくなってしまい、ひたすら無難に仕事をこなすような日々だった。
こうした働き方を続けるうち、「自発性」がどんどん失われていくのを感じた。
自発性というのは、
「自分はAだと思う」「Aをやりたい」(思考・感情)
→だから、「Aをする」(行動)
というシンプルなことである。
その極めて単純なことができなくなると、つまり「本当はAだと思う」けど、そんなことしたらきっと怒られるから「Bをする」ということを繰り返していると、人間は不健全になる。だから、仕事には慣れたし、部分的には楽しいけど、「幸せではない」と感じていた。
その頃からぼくは、「幸せとは何か?」とよく考えるようになった。
人生において、何が幸せをもたらすのだろうか?
社会的成功だろうか? 富だろうか? 人間関係だろうか?
あるいは、何が不幸をもたらすのだろうか?
失敗だろうか? 貧乏だろうか?
ぼくは職場での経験と感覚を通して、「幸せは自発性に関わるものだ」と認識した。人は、やりたいことをやっているときに幸せを感じ、やりたくないことを嫌々とやっているときに不幸を感じる。
もっとシンプルに言えば、
「思考・感情と行動が一致しているかどうか」
これに尽きると思う。「やりたいことをやっているけど不幸だ」という人を、今まで見たことがない。
しかし、自発性の大切さは認識したものの、思考・感情と行動が実際問題ズレているため、自発性は失われていく一方だった。
このままでは、まともな人生にならない。いつか「自分がおかしい」ことにさえ気付かなくなるだろう、と焦った。どうしたら自分の自発性を保ち、育てていけるだろうか。
突破口は、偶然現れた。
好奇心で始まったインタビュー活動
ある日、風邪で行けなくなった兄の代わりに、マラソン大会のボランティアに参加したことがあった。そこでたまたま、ユニークな働き方をしている女性に出会った。自発性をフルに発揮して、好きなことを通して世の中に大きなインパクトを与えている方だった。一体どういう経緯で現在の働き方に行き着いたのか、彼女のキャリアに興味を持ち、お茶に誘った。そしたら2時間くらい話を聞かせてくれて、実に刺激的な時間になった。未来に対してワクワクしてきて、ポジティブな気持ちになれた。
その日、興奮して「今日はこんな方に会って、こんな話を聞いて・・・」と会話の内容を少しだけFacebookでシェアした。「おもしろい人に会ったね〜」という友人からの反応も、また嬉しかった。
ぼくは、自発的に生きている人、好きなことを仕事にしている人たちに、強い憧れを持った。自分自身が、そのように生きたい。けど今はできていない。だけど諦められない。どうしたらぼくも好きなことを仕事にできるだろうか。もっと自由に働けるだろうか。何かヒントが欲しい。そういう切実な思いで、「この人はおもしろい!」と感じる人をネットや雑誌、テレビなどで見つけたら、すぐにコンタクトを取って、「お話を聞かせていただけませんか?」と連絡した。
・自転車で世界を旅した郷土菓子研究家
・女子大生の起業家
・メロンパンが大好きでメロンパンフェスティバルを始めた方
・クラフトビール醸造家
・歌手を目指す方
・茶道の魅力を伝える家元の方 etc…
どの人の話もおもしろかった。好きなことを仕事にしている人たちは、イキイキと輝いていた。
「どうしてこういうことをしようと思ったんですか?」
と必ず聞いた。それぞれ、やっていることは異なれど、自分の悩みに通ずるものがあった。次第に、「こんな価値ある話を、自分が聞くだけではもったいない」と感じるようになり、気付いたらFacebookやブログで、話の内容を紹介するようになった。そしてその文章は、徐々に長くなっていった。自然な流れで、「インタビュー記事」と化していった。
仕事では旅行に関する記事しか書けなかったから、インタビュー記事は新鮮で楽しかった。人のキャリアは多種多様で、とにかくおもしろい。
「良い記事にしてくれてありがとう!」
「あの記事、お母さんがすごく喜んでくれた!」
紹介した方から喜んでもらえるのも嬉しかった。
会社員として働きながら、平日の夜や土日に、とにかく人に会いまくった。すべての人のことを文章にしたわけではないが、2〜3年の期間で、150〜200人くらいの方と1対1で会っただろう。
その誰もが、自分の考え方に影響を与えてくれた。彼ら彼女らの素晴らしい要素に学びと勇気を得て、ぼくはどんどんエネルギッシュになっていった。そして何よりも、彼らの「自発性」が、ぼくの自発性に再び命を吹き込んでくれた。結果的に職場でも積極的になれて、以前よりも意見を言え、より活発に仕事ができるようになっていった。
そんな活動を続けていた2016年の夏、ある有名ベンチャー企業の経営者から突然連絡があった。
「最近たまに中村さんのブログを読んでいます。中村さんが行っていることと、私たちの目指している方向性が似ているなと感じたので、ライティングや編集でうちのメディアとコラボしていただけないでしょうか」
後日、会社に訪問して詳細を伺うと、「うちのメディアでインタビュー記事を書いてくれませんか? 原稿料は1本あたり2万5000円でどうでしょうか」と言われた。
ビックリした。すごい方から頼まれた嬉しさと、「え、これってお金になるんだ」という驚き。まさか、遊びでやっていたインタビュー記事でお金を稼げるなんて思ってもいなかった。とはいえ、会社は副業禁止だったし、実力的にできるかどうかも不明だったため、とりあえずテストで1本だけ書かせてもらうことにした。そして仕上がった記事は、高く評価していただけて、手応えをつかんだ。
大きな出来事だった。誰かに取材の仕方やインタビュー記事の書き方を教わったわけでもないのに、向上心を持って取り組んでいたら、知らず知らずのうちにスキルが身についているようだった。そして好きなことをして、発信していると、良い流れが生まれてくると実感した。
「もしかして、会社を辞めても、インタビュー記事で食べていけるのでは?」
このとき、フリーランスになることを現実的に考え始めた。そして今年度中に退職しようと決めたのだった。
海外添乗員という職業から学んだこと
「早稲田の理工学部を出て、どうして添乗員なんかになったんだい」
「もったいない」
そのようなことを、入社前にも入社後にも、色々な方から言われた。お客様からもツアー中によく聞かれ、そのたびに、
「旅行が好きだからです」
と笑って答えていたが、本当はそれだけではなかった。
ぼくは、この「添乗員」という職業に、光を当てたいと思っていた。決して「もったいない」仕事ではないことを、自らの体験を通して証明しようと試みた。
名だたる大企業やベンチャーで働く友人たち、好きなことを仕事にする友人たちの活躍を目にするたび、とても華々しく、輝いて見えた。焦りも感じた。けれども、ぼくは添乗員という仕事で勝負するしかなかったし、同時に誇りも持っていた。
退職するまでに、500名近いお客様を旅行にご案内してきた。全体の旅行者数を考えれば、ごくわずかな数字である。しかし、
「中村さん、私ブルガリアって、来るまではなんとなく暗いイメージがあったけど、今回行ってみて本当に良かった。季節を変えて、また訪ねたいわ」
添乗員としてツアーを成功させることができたら、自分と向き合ったお客様が、その国や、その国の人を好きになってくれる。地道な活動ではあるが、意義深いことだと思った。
「中村さん、お休みのところごめんなさい。ちょっといいかしら」
「どうされました?」
社会人2年目の夏のこと。無事にオーストリアのツアーが終わり、成田へ向かう帰りの機内で、お客様がぼくの席にやってきた。
「駅のホームで、中村さんに言われたことが忘れられなくて。あのときの御礼を言いに来ました」
「駅のホームで? ・・・何を言いましたっけ?」
「イェンバッハで電車を乗り換えるとき、反対側のホームにおもちゃ屋さんがあったから、行きたいと思ったの。孫へのお土産が買いたくて、ずっと探していたから。だけど、ひとりでは言葉が不安だった。中村さんに付いてきてほしかったけど、他にもたくさんのお客さんがいたし、私だけわがまま言ったらご迷惑かけてしまうなと思ったのよ。だけど中村さん、『おお、行きましょう行きましょう!』って、私だけのためにわざわざ連れて行ってくれて。『ご迷惑じゃないかしら?』って聞いたら、あなたこう言ったのよ。
『何言ってるんですか。◯◯さんを連れて行くためにぼくがいるんじゃないですか』って。
私、今まで何回もツアーに参加しましたけど、あなたのような添乗員さんには初めて出会った。おかげさまで、孫に素敵なおもちゃを買えました。本当にありがとうございました」
6年弱にわたった海外添乗員という仕事を通して、自分が学んだことは、何だったのか。ひと言では言えないが、添乗員として経験した個々のエピソードのなかに、なんとなく、この仕事の本質が見えてくるような気がした。忘れられない出来事、忘れられない言葉が、いくつもある。同時に、「人間とは何か」とも考えさせられた。
ジュリアード音楽院で学長を務めたジョセフ・ポリシの言葉を、よく思い出す。
「本校では若い芸術家への指導にあたって、常々彼らにコミュニケーターであれと伝えています。彼らは舞踏、演劇、あるいは音楽の専門分野を通して、人間の精神性を発信伝達しているのです。仮に伝えていないとしたら、私に言わせれば、芸術家ではありませんね。ただの技巧家にすぎません。
つまり、学生にとって何よりも大切なのは、コンサートホールのような伝統的な場であれ、病院や学校といった非伝統的な場で演奏することであれ、すべての活動の目的は自分の芸術を通して人を感動させるため、という理解です」
添乗員という仕事を通して、自分の芸術、美しさ、精神性を伝えていきたい。そういう気持ちで、仕事に取り組んでいた。どんな仕事においても、自らの精神性を投影させることが大切なのだと感じている。
お客様を案内しながらも、ぼく自身も、長い時間をかけてどこかへ案内されていたのかもしれない。海外添乗員という仕事は、様々なことを教えてくれる職業だった。
2016年12月30日、ぼくはお世話になった旅行会社を退職した。同期、同僚、上司、そしてお客様。在職中に関わった皆様に、深く感謝している。
新人フリーランスの戦略と挑戦
始まったフリーランス生活
晴れてフリーランスライターにはなったものの、仕事は何も決まっていなかった。しかし不安よりも、ようやく獲得した自由に心を踊らせていた。実家でのんびりと正月を過ごしながら、今後の計画を練ることにした。
クラウドソーシングで案件を獲得する方法もあるが、SEO記事は書きたくないし、「文字単価1円」みたいな世界も疲弊する。そういう仕事をするためにフリーランスになったわけではない。ぼくは真にやりがいを持てるインタビュー記事やエッセイをメディアで書きたかった。
とはいえ、ライターは無数にいる。大した実績もなく、無名に過ぎないぼくが今メディアに売り込んだところで、インパクトのある仕事はできないだろう。替えの効く存在にはなりたくなかった。
そこで、自己投資をすることにした。自分が本当にやりたいことを、自分のお金でやって、世の中に提示しよう。ぼくはこういうことをして、こういう記事を書く人間ですよ、ということを知ってもらおう。「おもしろいライターが現れたな」と思ってもらえたら、大きな仕事をゲットできるかもしれない。
それには大胆なチャレンジをする必要があった。
東海道五十三次を歩く
大学時代からの「いつかやりたいこと」のひとつに、「東海道五十三次を歩いて東京から京都まで行ってみる」というものがあった。司馬遼太郎の歴史小説を読むなかで、「ほんの200年前までは、みんな江戸から歩いて京都へ行ってたんだな〜」という当たり前の事実に驚かされた。500kmはあるだろう。
「自分にも歩けるだろうか? 歩いて京都まで行ったら、何日かかるんだろうか?」
かつて、「自転車で高校まで行けるのだろうか?」と感じたときと同じ種類の、素朴な疑問だった。無性にやってみたくなった。
今こそ実現すべきタイミングだと思い、古本集めが趣味の父に、何気なく聞いてみた。
「今度、東海道を歩くつもりなんだけど、何か関連書籍持ってたりする?」
しばらくして書斎から戻ってきた父が、重たそうな段ボール箱を抱えていた。
「まさかそれ全部、東海道の本?」
まさに、自分が求めていた資料が、箱にびっしりと埋まっていた。
「なんでこんなに・・・?」
「歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』が昔から好きでね、頭の中で歩いた気になって楽しんでるんだよ」
父の「回り道」が、ぼくの「回り道」につながる瞬間だった。何か偶然という言葉では片付けられないものを感じた。東海道に呼ばれている。
「クラフトビール 東海道五十三注ぎ」
東海道五十三次の「五十三」とは、東京と京都の間にある、宿場の数を意味している。日本橋を出ると、1. 品川宿、2. 川崎宿、3. 神奈川宿、4. 保土ヶ谷宿、・・・と計53箇所の宿場町が連なっている。これらの宿場町に泊まりながら、昔の旅人は歩いたのである。
ぼくはGoogle Mapsで各宿場間の距離を測りながら、旅のルートを考え、所要日数を計算した。1日25km前後を歩けば、18日程度のようだ。こうして妄想を膨らませる段階から楽しくて仕方なかった。
そして2017年1月2日、旅の決意をFacebookに投稿した。
すると、友人のちなさんが、旅の出発前に素敵なイラストを描いてプレゼントしてくれた。
前職の同期からは、こんなコメントをもらった。
また別の友人からも連絡があった。
実際、どちらのお宅にも泊まらせていただけた。
やりたいことを宣言すると、不思議な偶然が次々と起こるようになる。なんでも発信してみるものだ。思わぬ人が、思わぬ形で力になってくれるかもしれない。最初の一歩は自分にしか踏み出せないのだが、一歩踏み出しさえすれば、そこから先は自分の頭で考えられる領域を遥かに超えた、大きな流れに乗ることができる。
父が段ボール箱いっぱいの本を抱えてきたあの瞬間から、もう「流れ」が始まっていることを直感した。
好きなことが、誰かのためになる
2017年1月10日、「クラフトビール 東海道五十三注ぎ」の旅が始まった。ぼくはリュックひとつ背負って、東海道の起点「東京・日本橋」をスタートした。目指すは京都・三条大橋。ゴールまでに53杯のクラフトビールを飲むのだ。
初日は品川宿、川崎宿を経由し29km歩いて横浜まで。2日目で茅ヶ崎、3日目で小田原、そして4日目で箱根の芦ノ湖に着いた。箱根の山道には、江戸時代に築かれた石畳の道が残り、実に風情があった。
朝から夕方まで平均28kmを歩き、銭湯で汗を流し、クラフトビールを味わう日々。足はボロボロになるし、毎日疲れも取れない。それでも、とにかく楽しかった。日常を忘れ、仕事を忘れ、京都というただ一点を目指して歩く日々には、大いなる開放感があった。
印象深い出会いも忘れられない。箱根を下り、静岡県の三島を歩いていると、突然見知らぬ男性に呼び止められた。
「すいません、中村さんですよね?」
「え?」
「ブログで中村さんのことを知り、どうしてもお会いしたくて、車で東海道を走りながら、探していました」
「えー!? どうしてまた」
「実は、ぼくのおばあちゃんが難病を患っていて、『もし元気だったら何がしたい?』と聞いたら、『東海道五十三次を歩きたい』って言ったんです。だから、ぼくが代わりに東海道五十三次を歩いて、写真を見せてあげたら、少しでも行ったような気持ちになれるんじゃないかと思って。
それで今朝、Twitterで『東海道五十三次』と検索したら、中村さんのブログにたどり着きました。ちょうど今日箱根を出られて、お昼に三嶋大社の写真を上げられていたので、そろそろこの辺りを通るんじゃないかと思って、やってきました。握手してください!あと、少しだけ一緒に歩いてもいいですか?」
「・・・もちろん!」
こんな好き勝手やっている旅が、まさか誰かのためになっているなんて。数百メートルだけだったが、話しながら一緒に歩いた。
「実際に歩いている人に会えて、お話を聞けて、本当に良かったです!ぼくも東海道を歩けるように頑張ります!これ、ビールばかりじゃ辛いと思って、富士山の水を買ってきました!ぜひ飲んでください!」
旅の7日目、静岡駅近くのクラフトビール店に入ったときは、
「あー!五十三次さんだ!」と店員さんに叫ばれた。
お客さんが一斉にぼくのほうを見てきて、「あ~、『あの旅』の。彼がそうなのか」という声が小さく聞こえた。
この旅をスタートした際、あるクラフトビールメディアがぼくのブログを取り上げて、「ユニークな企画だ」と紹介してくれたのだ。地方ではクラフトビール好きの輪は狭く、噂はすぐに広まるらしい。
「君、もう静岡では有名人だよ?」
湯船に浸かる人々の声に西日本の方言が聞こえてきたとき、「随分遠くまで来たのだな」と旅情を感じたものだった。
名古屋では浪人時代の友人の家に泊まらせてもらい、三重県四日市では、2010年にバルセロナのサグラダファミリア前で話しかけて知り合った友人のご実家があり、そのお母様にお世話になった。これらもまた、人生の「回り道」がもたらした幸運だった。
翌日の関市では、露天風呂で出会った地元の方が「中村さんの挑戦に感動しました!」とお菓子や飲み物を買ってくれた。
20日目、ついに京都・三条大橋にゴールし、53杯目のビールで友人と乾杯。その後、さらに2日かけて大阪まで歩いた。日本橋から、計592kmの旅となった。
帰路は新幹線でたったの2時間半。昔の人の凄さ、文明の進歩の凄さ、両方を感じた。
やりたいことを全力でやって、いろんな人との出会いがあり、楽しい毎日だった。心の底から「生きている」と感じた。
生まれ始めた「差別化の芽」
旅から帰宅した翌週、ラジオに出演することになった。
「本日のゲストは、東京から大阪まで東海道を徒歩で旅して、東京に戻られたばかりの中村洋太さんで〜す!」
旅をした背景や、印象的なエピソード、ライターとして目指すあり方などを話すことができた。番組に呼んでくれたラジオパーソナリティーの方は、会社員時代のぼくが、インタビュー活動に目覚めたきっかけの女性だった。これまで打ったバラバラの点が、独自の線を結び始めていた。
そういうわけでフリーランスになった2017年1月は、丸々1ヶ月間、ただ歩いたのみで1円も稼げなかった。貯金が減っていくだけだった。
しかし、自己投資と歩き続けた日々の発信からは、まだ小さいものの確実に、ライターとしての「差別化の芽」が出始めていた。
アメリカ留学を企業に支援していただけた理由
フリーランスの罠
東海道五十三次の旅をやり終えて、2月からはいくつかインタビュー記事を書くお仕事をいただけた。しかし原稿料が安いうえ、修正のやりとりが多くてなかなか脱稿ができず、早くも精神的に参ってしまった。1ヶ月頑張って仕事をしても、10万円にすらならない。「フリーライターはなんて大変なんだ」と現実を思い知らされた。
働き方においても、「何かが違う」と感じていた。2月19日、ぼくはブログにこんなことを書いた。
せっかくフリーランスになったのだから、中途半端なことをやったらいけない。真面目でもバカでもいいから、とにかく振り幅を大きくした方がいい。東海道の旅のように、突き抜ける体験をした方が、おもしろい。未知のこと、わからないことに直面して、そこを突き破っていく。
何か大胆なチャレンジをしたい。「こういうことをするためにフリーランスになったんだ」と思えるような「何か」を。
そんなある日、「ライフガード」などで知られる飲料メーカー「チェリオコーポレーション」専務取締役(現社長)の菅大介さんに食事に誘われた。
「最近どうなの?」と聞かれたので、「せっかくフリーランスになって自由が生まれたのに、今はおとなしく原稿を書いているばかりで、全然やりたいことができていません」と正直に打ち明けた。
「どんなことがやりたいの?」
「海外に行きたいです。英語の勉強もしたいし、また現地で自転車旅とか、人がやらないチャレンジをしたいです」
このときはまだ、具体的にどこへ行きたいのかは漠然としていたが、菅さんから「洋太、お前は突き抜けろ」と言われたことで、ものすごく背中を押された。
決意。サンディエゴ留学へ
ぼくは翌日から、水面下の行動を起こし始めた。そして数日後の2月23日、決意表明のブログを書いた。以下に全文を載せる。
このブログを恐る恐るFacebookに投稿すると、すぐにベルリン在住のフリーランスの大先輩、高田ゲンキさんからコメントをいただいた。ありがたいことに、ゲンキさんはのちに、この旅の協賛者になってくださった。
そしてその後、驚きのメッセージが届いた。チェリオの菅さんからだった。
「ツール・ド・カリフォルニア、ライフガードのジャージ着て走らない? 生活費サポートするから、何かライフガードとコラボ企画的な発信を洋太のカリフォルニア紀行の中でできれば」
(生活費を、サポート・・・? え・・・?)
覚悟を決めたら、一瞬でアメリカ行きが決まった。夢を応援してくれる方が現れ、資金の問題までクリアできた。信じられない。本当に、夢でも見ているようだった。
観光ビザでアメリカへ行くと、最長90日間まで滞在できる。ぼくは2ヶ月間語学学校へ通い、残りの1ヶ月間で自転車旅をすることにした。この自転車旅を、学んだ英語の成果を実践する場にしたかった。
当初はサンディエゴからサンフランシスコまで行って戻ってくる、カリフォルニア周遊の旅と考えていたのだが、どうせならアメリカを縦断したいと思い、サンディエゴからオレゴン州・ポートランドまで走ることに決めた。最終的に約2500km(日本でいえば札幌〜鹿児島くらいの距離)を走破する旅となった。
改めてチェリオの菅さんや社員の方と打ち合わせをしたのち、特注のライフガードジャージを作ってくださった。ぼくはこれを着て、アメリカを縦断する。
飛び込み営業から、DJIの映像機材をゲット
「アメリカで自転車旅の映像を撮って、日本のみんなにシェアしたい」
そういう想いがあり、映像機材をネットで調べていた。一目惚れしたのが、世界トップシェアのドローンメーカー「DJI」が製造している「Osmo Mobile」という機材だった。
「今度旅行をするときは、これを持っていきたい」
ぼくは勢いで、品川のDJIオフィスを訪ねた。
しかしフロアが巨大で、来訪者用の受付を見つけられない状況だった。だけど、ここまで来たら行くしかない。社員が出入りする小さな扉があったので、思い切ってノックした。
コンコン・・・
・・・
・・・
・・・
ガチャ。
女性のスタッフが出てきた。
「どなたにアポイントでしょうか?」
「大変申し訳ございません。アポイントを取らずに来てしまったのですが、マーケティング担当の方にご相談があり、、、」
必死に説明する。企画書も用意していなかったので、名刺をお渡しし、その場で簡潔に企画の趣旨を話した。
「・・・アメリカで使用する機材のご相談ということですね。かしこまりました。あいにく本日担当者が不在なのですが、こちらの件は伝えさせていただきますので、後日のご連絡をお待ちください」
おそらく難しいだろうが、とにかく、やれるだけのことはやった。
その夜、ぼくは「DJIに飛び込み営業をしてきました」ということをFacebookに書いた。そしたら夜、大学のサークルの後輩からメッセージが届いた。
「DJIに知り合いの方がいて、飛び込み営業の話をしたら興味を持ったみたいで以下のメッセージをもらいました。良かったら連絡してみてください」
なんと、思わぬところから社員さんと繋がることができた。
すぐに連絡を取ると、翌日オフィスで直接お会いできることになり、ぼくはまた品川へ向かった。急展開だ。
お会いした福田さんは、ぼくのやりたいことを気に入ってくださり、「早速このあと、マーケティング担当者に話をしてみます」と言ってくださった。帰り道、福田さんからすぐにメッセージが届いた。
「マーケティング担当者がお会いして話を伺いたい、とのことです」
そういうわけで、ぼくはまた翌日にオフィスへ向かった。飛び込み営業した日から、3日連続で訪問することになったのだ。
3日目は、福田さんのほか、アソシエイトマーケティングディレクターの柿野さん、ソーシャルメディアマネージャーの川中さんが同席した。
「中村さんのことについて、お話いただけますか?」
スライドなどは用いず、5分ほどで自分のこれまでのことと、これからやりたいことについて話した。その結果、その場で協賛していただけることが決まった。
ついに、念願の「Osmo Mobile」を手にすることができた。機材レンタルという形ではあったが、立派な企業協賛である。
「アメリカでキャンピングカーに乗りませんか?」
また出発直前には、友人のみずきちゃんが広報担当を務めていたご縁で、キャンピングカーのレンタル事業を取り扱う「エルモンテRVジャパン」に協賛していただけることになった。
決め手となったのは、ぼくが以前Facebookに投稿した「サンディエゴ滞在中にやってみたいこと」という写真だった。
その中に、
・セドナへ行く(車で)
となんとなく書いていた。
世界的なパワースポットとして知られるセドナは、一度尋ねてみたい憧れの場所だった。しかしサンディエゴから700km以上離れているので、車じゃないと行けない。実際には叶わないかもしれないけど、願望として一応書いておいた。
すると、みずきちゃんはこの一文を見て、「洋太さんにうちのキャンピングカーでロサンゼルスからセドナへ旅してもらって、PRをしてもらおう」と考えてくれたそうで、社内で提案してくれ、「承認が下りました」と連絡をくれた。
アメリカをキャンピングカーで旅できるなんて、これもまた夢のようだった。やりたいことを人に伝えると、何かが起こる。
このような奇跡が立て続けにあり、2017年4月16日、ぼくは渡米した。
アメリカでの3ヶ月間
2017年4月16日から7月15日まで、3ヶ月間をアメリカで過ごした。短期間とはいえ、憧れの海外留学だった。
生活拠点となったのは、カリフォルニア州南部のサンディエゴ。ほとんど雨が降らない、素晴らしい気候の都市だ。メキシコ国境に近いため、本場さながらのおいしいタコス店がたくさんある。
この街で、2ヶ月間のシェアハウス生活を送った。ひとつの家に、5人が住んでいた。レイさん(日人女性)、ケンくん(日本人男性)、ラズィーク(トルコ人男性)、アビー(アメリカ人女性)、そしてぼくという構成だった。
アボカドの種の取り方のコツを、ぼくはこの家でレイさんに教わった。車を持っていたケンくんは、ときどきスーパーやジムに連れていってくれた。陽気なラズィークは、帰宅するといつも「Yota, hou are you?」と聞いてきた。ぼくがいつも「Good」と答えていると、ある日「ワンパターンだから、Good以外のバリエーションを持つといいぞ」と割と深刻な表情でアドバイスしてくれて、思いやりを感じた。アビーはニューヨークに住んでいた彼氏と結婚することになり、ある日彼氏が車で迎えに来たので驚いた。ニューヨークから約4500kmも車を走らせてやってきたのだ。愛のスケールの大きさにアメリカを感じた。
語学学校は、家から13km離れた場所にあり、毎日自転車で通った。途中のキツい坂道で足腰が鍛えられた。
語学学校には、イタリア人、スペイン人、中国人、韓国人、台湾人、トルコ人、サウジアラビア人、アルゼンチン人、ブラジル人など、様々な国からの学生が集まっていた。気質や性格もバラバラ。英語を学ぶ目的で通ったが、ここでの日々は「英語が話せるようになること」以上に大切な意味があったと感じる。アメリカ滞在中は、学校のPRも兼ねて毎日ブログを更新した。
サンディエゴには美しいビーチがたくさんあり、休日はよく訪ねた。語学学校の友人とトレイルへ出かけたこともあった。少し街を出ると、広大な自然が広がっていた。
5月、ぼくは現地で知り合った友人を誘い、キャンピングカーでロサンゼルスからセドナまで旅した。
ペーパードライバーだったぼくが、アメリカで、それも信じられないくらい大きなキャンピングカーをいきなり運転することになった。怖かったけど、勢いというのはすごい。でもこの旅は本当に楽しかった。
サンディエゴ生活は、何もかもが新鮮だった。スーパーへ行くだけでおもしろかった。物価が高いので、レストランへはあまり行かず、自炊したり、タコスやハンバーガーを食べたりしていた。「In-N-Out」というハンバーガー屋さんが好きで、いつかまた行きたいなと思う。
2ヶ月間はあっという間に過ぎた。語学学校の先生や友人に別れを告げ、ぼくは自転車で旅に出た。アメリカ西海岸2500kmを縦断するのである。日本でいえば、札幌〜鹿児島間くらいの距離だ。毎日ライフガードのジャージを着て、カリフォルニアを北上した。
2日目でロサンゼルスへ着き、10日目でサンフランシスコに着いた。ロサンゼルスでお世話になったのは、かつて都内で出会ったアメリカ人だった。ぼくは会社員時代、和菓子屋さん巡りのサイクリングツアー「ツール・ド・和菓子」を企画し、友人を誘って趣味で開催していた。これがあるときAirbnbの目に留まり、外国人観光客向けのツアーになった。その最初のお客さんだったロサンゼルス在住のカイルが、家に泊めてくれた。おまけにプロカメラマンの彼は、ぼくのポートレート写真まで記念に撮影してくれた。
途中のサン・ルイス・オビスポという地方都市では、ニコルという大学生の友達ができた。彼女のお父さんが大の自転車好きで、ぼくの旅の話を聞きつけて後日サンフランシスコにやってきた。そしてニコルパパと一緒に100km先の街までサイクリングをした。翌年にはニコルファミリーが来日し、横須賀の実家に遊びに来た。偶然の出会いから生まれた交流だった。
シリコンバレーでは人のご縁に恵まれて、Google、Apple、Facebook、Airbnbの本社見学をさせていただけた。サイクリングツアーのホストをやっていた関係で、Airbnbのサンフランシスコ本社にはぼくのポスターが貼ってあった。信じられないことだった。
やがてオレゴン州に入り、ゴールのポートランドに到着。猛暑で過酷な旅となったが、なんとか無事に走り切ることができた。人との出会いは語り尽くせないほどあった。お世話になった方々に感謝。
日本へと戻る機内、JALのCAさんから「もしかして自転車で回られていた方ですか?」と声をかけられて、旅の成功を祝福された。視野の広がる充実した3ヶ月間はこうして終わった。
自己投資の思わぬ展開
メディアでの連載
2017年4月〜7月のアメリカ留学&縦断自転車旅を終えて、ライターとしての状況はどう変化していったか。
まず、アメリカ滞在中に、「TABI LABO」の編集者さんから「うちで連載を書きませんか?」とお声がけいただき、旅にまつわるエッセイを書くようになった。何度か記事がバズり、ライターとしての知名度が上がるきっかけとなった。
ここでの実績が、のちに他メディアからの仕事を引き寄せてくれた。自己投資で行った「クラフトビール 東海道五十三注ぎ」の旅もTABI LABOで連載を書いたほか、さらに思わぬ展開を見せた。
ある日、見知らぬアメリカ人から英語でこんなメールが届いた。
「こんにちは! 私は今年の秋、日本の様々な土地のクラフトビールを味わいながら、自転車で旅する計画を立てています。そこで、いくつかアドバイスをもらえないでしょうか? あなたが東京から大阪まで歩いたのと、同じようなルートで旅しようと計画しています」
送り主は、ジョージア州在住のダン・ミーゾゥさん(当時52歳)。彼はこれまで自転車で様々な国を旅してきたらしい。そしてクラフトビールが大好きで、毎回その国のブルワリーを巡りながら走っているのだという。日本を自転車で旅する計画を立てていた時に、彼の奥様(日本人)がたまたまぼくのブログを発見したそうだ。
このメールをもらった瞬間、何か運命のようなものを感じた。
ぼくには、同じルートの自転車旅の経験も、クラフトビール屋さんを巡った経験もある。前職は旅行会社の海外添乗員だったし、語学留学後に英語実践の場を持ちたかった。加えて、いつか外国人と一緒に日本を旅してみたい、と何年も前から思っていたからだ。
「もし迷惑じゃなければ、数日間だけ一緒に同行させてもらえないでしょうか?」
思い切って聞いてみると、承諾してくれた。そして2017年9月、川崎市から静岡市まで、彼と2泊3日の旅をすることになった。
そしてその旅の様子を、後日「朝日新聞デジタル&TRAVEL」で連載することができた。旅の最後には感動的な出来事もあり、良い思い出になっている。
さらに数年後、その連載を読んだプレジデント社の編集者さんからも連絡があった。
「東海道を旅された話をご執筆いただけないでしょうか。いま新型コロナで暗い話題ばかりですので、楽しく元気になるお話を書いていただきたく、中村様にお願いしたいと思った次第です」
同社が編集する雑誌で、巻頭エッセイを書くことができた。
これらは2〜3年スパンの話ではあるが、何かおもしろいことをやれば、誰かが見てくれる、いつか実る日がやってくるということを、ぼくに教えてくれた。
韓国、台湾を自転車で旅する
2017年は自己投資の一年と決めて、赤字覚悟で後半戦も駆け抜けることにした。
10月は「ツール・ド・韓国」と題して、ソウル〜江華島〜仁川を回る自転車旅を敢行した。ソウルでは2つのファミリーにお世話になった。いずれも友人が紹介してくれた方々だった。
仁川観光公社がぼくの旅をサポートしてくださり、現地へ行くとなんとぼくの名前が書かれた横断幕まで用意してくださっていて、翌日の韓国の新聞に載ることになった。
11月は3週間、台湾に滞在した。
この旅も、きっかけは偶然だった。サンディエゴの語学学校で、ある日クラス替えが行われて、隣に座っていた台湾人の子と友達になった。台湾の人と話すのは初めてで、ぼくは少し興奮していた。「台湾には昔から行きたかったんだ。自転車で一周したい!」と冗談半分で言ったら、笑顔で「いつ来るの?」と聞かれたから、反射的に「今年!」と言ってしまったために、その夜、「発言には責任を取ろう」と半年後の航空券を買ってしまったのだった。
ぼくは自転車で台湾を一周し、この話も全6回で「朝日新聞デジタル&TRAVEL」で連載を書いた。
ヨーロッパのような街並みの美しさ、アメリカのような大迫力の自然に比べたら、台湾の風景はずっと素朴だったが、人情味溢れる旅で、実に心温まる日々を過ごした。いつの間にか、台湾が大好きになっていた。
12月にはホノルルマラソンにも出場し、フィギュアスケートを引退したばかりの浅田真央さんと並んで完走した。
やりたいことは、やり切った。今思い返しても、2017年はとりわけ精力的に活動できた一年だった。
フリーランスになったばかりでバイタリティーに溢れていたし、怖いもの知らずだったということもあるかもしれない。ただし、年収でいえば200〜250万円程度だったと思う。メディアに原稿を書いても、大きく稼ぐことは難しかった。貯金を切り崩しながらの、捨て身のチャレンジだった。その分、経験や実績は増えた。自己投資の回収は、長い目で見ていくしかない。
そして翌2018年は、資金の問題がピークを迎え、最大のピンチが待ち受けているのだった。
通帳残高1万5000円からの大逆転
フリーランス2年目の2018年に入った時点で、もうほとんど貯金はなくなっていた。1年目は会社員時代の貯金でなんとかやり過ごせたが、資金は限界に近づいていた。
ろくに稼げていないうえに暇な時間も多かったので、ぼくは半年間、アルバイトをすることになった。2018年1月、たまたま知り合ったNPO法人の代表の方に、「人手が足りないので、仕事を手伝ってもらえませんか?」と声をかけられて、断る理由もないので、週2日オフィスに通い、事務作業を手伝っていた。
当時は「まさか自分がアルバイトをするなんて」と恥ずかしさを抱えていて、人に言えなかった。「これからは好きなことだけをやって生きていくんだ」と宣言してフリーランスになったから、変なプライドみたいなものがあった。
でも、お金がなかったからやるしかなかったし、その半年間を通して、アルバイトに対する考え方が変わったのも事実だ。作業としては、Excelの入力とか、頼まれたものを買いに行ったり郵便局に封筒を出しに行ったりするおつかいなど、誰でもできる簡単なものだった。ときどき資料作成で文章を書くこともあったが、ライターとしての高度なスキルはさほど必要とされない。つまりそのオフィスにいると、「フリーライター」としての人格がほぼ消失する。それでもなぜか、意外なまでに心地良い時間を過ごせた。
まず、その時間オフィスにいれば、確実にお金がもらえる。フリーランスの厳しさを実感していたぼくにとって、これはちょっと衝撃的なことだった。普段、原稿を書くために考えごとをしても、手を動かさなかったら1円ももらえない。しかしアルバイトの場合、さほど頭を使わなくても(多少は使うけど)、一応作業していればお金をもらえる。「何を当たり前のことを言っているんだ」と思われるかもしれないが、このことのすごさ、ありがたみは、フリーランスを経験した人には共感してもらえるのではないだろうか。
「中村さん、シュレッダーお願いします」と頼まれて、莫大な量の書類をひたすらシュレッダーにかけ、それだけで1時間が過ぎてしまったとき、「これでお金がもらえるのか・・・」と感動した。ぼくは人生のハードルを勝手に高くし過ぎていたのではないか。肩に力が入り過ぎていたのではないか。アルバイトを経験して、生きることに対してちょっと気持ちが楽になった。
そして、オフィスに行けば人と話せる。代表の女性は元マッキンゼーの素晴らしく優秀な方で、過不足ない説明、的確な指示出しにいちいち感動した。「なんと無駄がないのだ。世の中にはこんなすごい人がいるのか」と驚いた。これもまた良い刺激だった。
ずっと歳上の女性だったが、彼女から学べたものは大きかった。優秀な人のそばで働くと成長できる。そして指示が的確で理に適っていると感じると、こちらのモチベーションも上がる。ひとりで働いていては、気付けないことだった。
この頃から徐々に、「フリーランスの限界」について考えるようになった。
あるとき、『フリーランス、40歳の壁』という本を書店で見つけて、何気なしに買って読んだ。フリーランスは40代に入ると、極端に仕事が減る、ということが書かれていた。
「自分は40歳になっても、今と同じようなギリギリの生活をしているんだろうか」と想像して、絶望的な気持ちになった。「フリーランスってこんなに大変なのか。もう無理かも・・・」と何度思ったことか。
夜中にハッと目が覚めて、震えて泣いていたことがあった。そんなこと初めてだった。自分の将来について、言葉で言い表せないほどの強い不安を感じた。
「収入が少なくても、やりたいことできていればまあいいじゃん」という考え方もあるが、ぼくはちゃんと収入も得て、小さなことで悩まずに生きていきたい。それを考えたとき、「人と関わらずに仕事をしていては、成長が止まるな」と感じた。やはり、優秀な人と一緒に仕事をすることで新しい学びが得られるから、フリーランスでありながらも、そういう環境に身を置けたらいいな、と思うようになった。
そして、そう思っていると、チャンスは予想外の角度からやってくるものなのだ——。
ぼくはときどきアルバイトを休ませてもらい、海外へ出た。「わかりました。ちょっと忙しい時期ですけど、なんとかやります。楽しんできてください」。代表の女性は、ぼくの野心を理解してくれていた。「行きたいところへ行って、書きたい記事を書くんだ」と意気込み、自己投資の旅を続けた。
現地で様々なモノを見て、感じたことを記事にする。TABI LABO、そして阪急交通社や朝日新聞社のWebメディアなどで書いた。
旅は楽しかったし、そこでの学びや気付きを記事にして届けられることにもやりがいを感じた。でも、好きなことをやるのと、それで稼げているかどうかは、また別の話だ。
原稿料は、記事1本あたり1.5万〜2万円程度のもの。出張費なんてもちろん出ない。仕事になるかどうかもわからない状態で、自腹を切って海外へ行って、なんとかネタを見つけて数本の原稿を書いて、稼げるのはせいぜい数万円の世界。それで旅費をカバーできるはずもなく、海外に行けば行くほど赤字になる一方だった。
だけど、自分の経験(インプット)を広げないと、アウトプットの質は高まらない。将来の仕事の単価を高めるためにも、そして自身のブランディングのためにも、今は無理してでも海外へ行くのを止めちゃダメだと自分に言い聞かせていた。
悩んだら弱気になるから、行きたい国があったら、先に飛行機のチケットを取ってしまい、後に引き戻せないようにした。「もう行くしかない」という状況に自分を追い込んだ。
「ここまできたら、もう貯金がなくなるまで行こう」
お金が尽きるのが先か、大きな仕事を取れるのが先か。賭けだった。
働き方の価値観の違いやキャッシュレス社会を知りたくてスウェーデンへ行き、最先端テクノロジーにふれたくて中国の深センへ行った。そして原稿を書き続けた。
でも、ロシアW杯の旅から帰ってきたときに、ついにお金がなくなった。W杯で着ていたユニフォームや記念グッズを泣く泣くメルカリで売ったり、UberEatsの配達員をやってみたり、できることはなんでもやって、食いつないでいた。
ときどき友達に会うと、「ゲッソリしてるけど大丈夫? ちゃんと食べてる?」と心配されて、「大丈夫だよ」と強がって、あとでひとりで泣いた。自分が思い描いていた理想と現実があまりにもかけ離れていて、悲しくなった。
ついに通帳の貯金残高が1万5000円になった。
「よくここまで頑張ったよ」
限界まで攻めた自分を、逆に誇らしく思った。
「やるだけやったんだから、もうサラリーマンに戻ろうか」
そのときにはもう変なプライドもなく、自然に思うことができた。清々しい諦めというのだろうか。ある日、そんな感情をポロッとTwitterで吐露したら、ソフトバンク法人マーケティング本部の新規事業戦略室から突然お声がかかった。すぐにミーティングがあり、長期間の業務委託契約が結ばれた。ソフトバンクが、プロライターとしてぼくを起用してくれたのだ。気付けばビジネスメディアの副編集長に就任していた。
まったく、人生はおもしろい。
8月以降、収入は一気に安定したし、チームも優秀な方ばかりで、まさに望んでいた「成長できる環境」に身を置けるようになった。ソフトバンク本社に自分の席が用意され、社員食堂なども含め自由に使えるようになった。感謝しかない。
ぼくは大学4年生の最後の春休み、11日間に及ぶ「四国・無一文の旅」を行った。
そのとき、ぼくのことをTwitterで見つけ、おもしろがって旅を追いかけてくれていたのが、ぼくをソフトバンクに誘ってくれたOさんだった。当時ソフトバンク社長室で孫正義さんの近くで働いていた彼は、旅行会社で働く間もたびたびぼくの将来を気にかけてくださっていた。今は少し疎遠になってしまったが、そのような背景があったので、なおさら人生のおもしろさを感じたのだった。
「副業も大歓迎、むしろドンドン活躍しなさい」と背中を押してくれ、2018年の後半は一気に仕事の幅が広がり、収入も大きく増えた。
当時はビジネスメディアの編集者だったので、インプットのため経済ニュースメディア「NewsPicks」の記事を毎日チェックしていた。自由にコメントを書いていたら、なんと10月にNewsPicksの週間ランキングで総合1位になることができた。
だけど、1位になるうえで役立ったのは、無理をしてでも行った海外経験で得た、「生きた知識」だった。「記事ではこう書かれているけど、実際にスウェーデンに行ってみたらこうだった」など、記事に関連付けて自身の体験をもとにコメントしたところ、徐々に評価を得られるようになった。起こした行動は、決して無駄じゃなかったのだ。
NewsPicksで知名度を上げたことがきっかけで、ユニクロ(ファーストリテイリング)からお仕事をいただけた。それがのちに、「モデル」の仕事を始めるきっかけになるとは、このときはまだ知る由もなかった。
2018年は、ジェットコースターのような一年だった。辛かった時期にもギリギリのところを攻めてきたからこそ、最後の最後に、賭けに勝つことができた。
もちろんフリーランスは先が読めないので、翌年にはまた別のドン底を経験するかもしれない。でもさすがにもう、あれほどの辛いことはないだろう。
そう思っていた。しかし人生は甘くなかった。
翌2019年、ぼくは「お金がない」ことよりも遥かに辛い状況に追い込まれるのだった。
突然の難病。それでもポジティブに
2019年に入り、仕事はこれまでにないくらい順調にいっていた。著名人のインタビュー記事を担当するなど、忙しくも刺激的で、充実した日々を過ごしていた。しかしその年の春、ぼくは突然、難病を患った。
少し前から原因不明の蕁麻疹が出やすくなるなど、身体の異変は感じていたものの、ある日スーパー銭湯に行くまで、事の重大さに気付かなかった。
サウナに何分も入っているのに、汗が全く出てこないのだ。その代わりに、全身から蕁麻疹が出てきた。サウナに10分入って、全く汗が出ないなんて、そんなことがあるのか? ワケがわからず、愕然とした。数日後、大学病院で診断を受け、すぐに入院が決まった。
病名は「特発性後天性全身性無汗症(通称AIGA)」という。
正確な数字は定かではないが、患者が数百人しかいないとも言われる珍しい病気だった。まさか自分が難病になるなんて……。病気のメカニズムがまだ解明されておらず、治療しても治るとは限らない病気だと知り、目の前が真っ暗になった。
フリーランスになって以降、仕事を取るうえでの苦労であったり、収入が安定しないことによる不安であったりと、様々な辛さを経験してきた。
でも今回の難病は、生命や人生に関わるもので、辛さの次元が違った。
検査の結果、ぼくは全身の約97%から汗が出なくなっていた。足の裏と、鼻先が残りの3%だった。ギャグみたいだ。
人間にとって、汗は体温を調整するために欠かせない機能なのだが、これが不健全なために、わずかに体温が上がるだけで「コリン性蕁麻疹」という特殊な蕁麻疹が出て、尋常じゃない痒みや痛みに襲われた。日光に当たるだけでアウト。冷やすことで症状が緩和されるので、常に保冷剤を詰めた保冷バッグを持ち歩いていた。
電車に乗ることも苦痛なので、入院していないときは、ほとんどを家か近所のマクドナルドで過ごすことになった。誰とも会話しない日も多かった。
緊張やストレスなどでも症状が出たため、仕事はストップせざるを得なかった。たとえば取材で初対面の相手と話す際、わずかな緊張で、全身に蕁麻疹が出てしまう。これでは仕事にならない。
会社員であればまだ良かったかもしれないが、フリーランスは仕事をしなくなった瞬間、収入がゼロになる。それでも医療費はかかるので、ソフトバンクの仕事などでようやく順調に貯まり始めていた貯金が、再び猛烈な勢いで消えていった。
世界1万キロを自転車で旅したぼくにとって、「汗をかけない」「運動ができない」ことは、自分の象徴を奪われるようなものだった。病気が良くならないと、運動も旅行もできない。
「まだまだ行きたい国はたくさんあったのに」
「趣味のフットサルはもうできないかもしれない」
「そもそも、この先どうやって収入を得ていけばいいのだろう」
たとえ命に別状がなかったとしても、ぼくの人生はこの先何も果たせずに終わってしまうのだろうか。身体の辛さと経済的な辛さ。そこに精神的な辛さが襲いかかってきた。
それでもきっと、何か意味があるはずだ
だけど、このような状況でも、できる限りポジティブであろうとしていた。「出来事をどう捉えるかは自分次第」だと思っていたからだ。
ぼくが難病を患ったことにも、きっと何か意味があるはずだ。そうポジティブに捉え、「いつか病気が治ったとき、この経験を笑い話に変えたり、仕事に繋げたりしよう」と決意した。
外での活動は極端に制限されたが、本を読むことはできた。
ソフトバンク会長の孫正義さんは、20代の頃、慢性肝炎で3年半ほど入院していた時期がある。のちにかつてを振り返り、「時間を有効活用するため、あらゆる分野の3000〜4000冊の本を買い込んで貪り読んだ」と語っていた。それには到底及ばないが、ぼくも病気が良くなるまでたくさん本を読むことに決めた。「今はインプットの期間」と前向きに考えることにした。
以前から「時間ができたら読もう」と考えていたのが、『三国志』だった。経営者に三国志ファンが多かったから、「いったい何が魅力なのだろう?」と疑問に思っていた。長大な物語だったが、実際に読んでみて人を惹きつける理由がわかった。そして戦国時代や漢の時代の中国に興味を持ち、司馬遷『史記』や司馬遼太郎『項羽と劉邦』をはじめ、様々な良書を読み漁った。同時代が舞台の漫画『キングダム』も全巻読んだ。
時間を忘れるほど何かに夢中になっていたのは、いつぶりだろうか。それは本当に豊かな時間だったし、長い人生の中できっと効いてくるであろう重厚な学びを得られた。
8月になった。なるべく前向きに過ごそうとはしていたものの、毎月入院して、貯金も底をつきそうだった。3度入院しても、汗が出るようにならず、さすがに落ち込んだ。
でもしばらくして、逆に奮い立ってきた。
中国の古典には魅力的な人物がたくさん描かれていて、ぼくはそこに生き方の手本を見ていた。「臥薪嘗胆」という言葉が生まれたのも『史記』からである。偉大な人物は、逆境や苦難に対して、どう立ち向かっていたか。心で負けてはいけない。気持ち次第で状況を変えられるはずだ。
難病との闘いは苦しい。でも、だからこそ生きる姿勢や物事の捉え方を通して、人を鼓舞できる人間でありたいと思った。
そのとき、試しに「本当は汗が出ているのだ」「絶対に治る、いや実はもう治っているのだ」と強く思い込んでみた。検査結果では全身の97%から汗が出ていないと言われた。ということは、3%は実際に出ているのだ。その範囲を4%、5%と少しでも広げられないか。
痒みを必死にこらえ、身体に鞭を打って走り続けていると、ついに額や背中からわずかに汗が出た。嬉しくて涙も出た。そして毎日走り続け、少しずつ発汗機能が回復していった。
1ヶ月後、主治医の先生は驚いていた。ひとまず今後の入院はなくなり、しばらく自然治癒で様子を見ることになった。そして10月頃から、少しずつ仕事を再開できるようになった。もうソフトバンクの仕事には戻れなかったが、いくつかのクライアントが回復後に仕事を振ってくれた。なんにせよ、半年以上にわたる闘病生活は終わった。
それから、身体の状況は年々良くなっていった。現在は何の支障もなく生活できていて、「ほぼ完治した」と言って差し支えないと思う。
noteから、まさかのテレビ出演に発展
闘病生活中、ぼくはよくTwitterで病名を検索し、同じ悩みを抱えている患者のツイートを眺めていた。「辛いものを食べると痒みが出る」「緊張するだけで痛みが走る」など、そういうツイートを目にするたび、「わかる〜!」と共感し、気持ちが和らいだ。珍しい病気のため、ブログなどで発信している患者はほとんどいなかった。だからライターである自分が、今もこの病気で苦しんでいる人に向けて、発信をしよう。
そう決めて、1万6000字のnoteを書いた。
前半で闘病生活の一連のストーリーやエピソードを書き、後半では「もっと早く知りたかった」と感じたお役立ち情報をたくさん載せた。すると大きな反響があり、「中村さんの記事に救われました」など、たくさんの感謝のメッセージをいただいた。
さらに翌年、このnoteがきっかけで、テレビ東京から連絡があった。ミニドキュメンタリー番組「生きるを伝える」に出演してほしいという。いやはや、何がどうなるかわからないものだ。ぼくは難病がきっかけで、テレビに出ることになってしまった。ナレーションは原田知世さん。嬉しかった。
※約4分間の番組映像は、こちらのページからご覧いただけます。
人生は捉え方次第
大学1年生の時、とある本で「出来事と感情は独立した存在であり、全くリンクしていない」という内容の文章を読んで、なるほどなと思った。
たとえばつまり、「悲しい出来事」というものは存在しない。起きた出来事を「悲しい」と捉えるのは、単に自分の選択に過ぎないのだ。
「人は同じものを見て違うことを考える」というのは正しくて、人によって物の見方は違う。あるものを見て、おもしろいと思う人もいれば、つまらないと思う人もいる。運がいいと思う人がいれば、損をしたと思う人がいる。
物事をどう捉えるかは、自分で自由に選択ができる。であるならば、「すべての出来事をプラスに捉えた方が得ではないか」と、いつからか思うようになった。
病気の経験は本当に辛いものだった。だけど、病気を経験しなかったら、中国の歴史の奥深さを知ることはできなかったし、テレビに出ることもなかった。ネガティブな経験も、ポジティブな結果に結びついた。
「起きるすべてのことには意味がある」
「人生は捉え方次第」
自分の身に起こる出来事や挑戦を通して、一貫してこれらのメッセージを発信してきたし、これからも発信していきたい。そんなぼくにとって、病気は最高の贈り物だったと言えるのかもしれない。
これから先、どんな困難や逆境に遭遇しても、ぼくはまたポジティブに捉え、楽しみながら挑戦を続けていきたい。そう決意した2019年だった。
偶然から始まった「ライターコンサル」
2020年、難病から復活し、しばらくは企業案件を中心に執筆していた。大きな転機は、6月に訪れた。
きっかけは、作家・川上未映子さんの「原稿料」に関するポストだった。
原稿料を依頼時にボカしてくるクライアントは、ぼくにも経験があった。うっかり確認せずに引き受けると、想像以上に安かった、ということも。だから聞きづらくとも、事前に「原稿料はいくらですか?」と聞いておかないと、「ちゃんとお金もらえるのかな」と不安が募り、気持ちよく仕事ができなくなる。それは失敗経験のなかで学んでいったことだった。
ぼくはこの川上さんのポストを引用し、自身の経験をnoteに書いたところ、共感してくれたWebライターの知人から、こんなメッセージが届いた。
この原稿料や対応の話は、ちょっとひど過ぎる。唖然としてしまったぼくは、詳しい事情を知りたかったのと、何かアドバイスできることがあるんじゃないかと思い、その方と1時間ほどお電話で話した。すると、「考え方が変わった」と喜んでいただけた。「これはもしかしたら、ほかの駆け出しのライターさんにとっても役立つ内容なのでは」と感じ、電話で話した内容をさらに深掘りしてnoteに書いた。そうして生まれたのが、「Webライターが単価を高めるためのアドバイス」という記事だった。
この記事がnoteの「今日の注目記事」に選ばれると、Xのライター界隈で大きな反響があった。
そして、駆け出しライターだった池田アユリさんという方から、「中村さんからコンサルを受けたい」と驚きのDMが届いた。まだライターさん向けにコンサルをしよう、なんて1ミリも思っていなかった時期である。でも、興味はあった。ぼくは学生時代から「教えること」が好きだったから、ライターとしての経験が誰かの役に立つなら、楽しいことかもしれない。「記事を書くこと」とはまた異なるやりがいを得られるかもしれない。
池田さんからのDMには、「SEO記事が苦手で、もうライターを辞めようかとも思っていたタイミングで中村さんのnoteを読みました」と書かれていた。なんともったいないことか。世の中には様々な文章タイプがあり、SEO記事なんてその一部でしかない。「SEO記事が向いてない」=「ライターとして向いていない」では決してないのだ。むしろ、逆のことさえある。
池田さんは人に興味があり、「インタビューライターになりたい」と話していたから、その技術を教えて、プロライターとして活躍できるようにしてあげられたらいいなと思った。
とはいえ、ぼくは感覚で文章を書いていた部分もあったから、技術や考え方を、きちんと言語化して人に伝えられるだろうか、という懸念があった。こればかりは、やってみないとわからない。だからまずはトライアルという形で池田さんにコンサルをすることになった。のちに「ライターコンサル」と名付けられる事業の、1人目の生徒さんが誕生した瞬間だった。
2020年7〜8月の2ヶ月間は、池田さんと1対1で、たくさんコンサルと添削をした。ライターとしての自分の仕事もあったので、空いていた時間に。夜22時頃から電話をして、同じドキュメントを見ながら文章についてあれこれ話して、白熱するあまり気付けば日付が変わっていた、ということもあった。池田さんはそれまできちんとインタビュー記事を書いたことがなく、すべてを一から教えた。そして添削を通して様々なアドバイスをしていった。
すると、その2ヶ月間でグングン文章が良くなっていった。赤字やコメントはたくさん入れるが、続けるうちに、文章の違和感や指摘する事柄が少しずつ減ってくる。成長を感じた。電話越しに、池田さんが必死にメモを取る音が聞こえてくる。学んだことをきちんと次に生かそうと心がけていた。その熱量にぼくも気持ちを動かされた。意欲ある彼女が最初の生徒さんで、本当に幸運だった。
池田さんはXやnoteで、「中村さんからこんなことを学んだ」と積極的に発信してくださったので、そのおかげもあり、「私にもコンサルしてほしい」というライターさんからの連絡がどんどん増えていった。
ぼくも「教えることが向いているんじゃないか」と自信を得て、2020年9月には生徒さんを一気に10人まで増やした。その最初の10人の中には、今もライターとして大活躍されているかたおかゆいさん、原由希奈さん、仲奈々さん、桃沢もちこさんなども含まれている。
無名だった彼女たちが、今では著名人にも臆することなく取材できるようになり、素晴らしいインタビュー記事やエッセイの書き手として世の中に良い影響を与えている。その「快進撃」とも言える急速な成長過程を生で見られたのは、大きな学びがあったとともに、教える立場として非常に幸福なことだった。
アンビリバボー出演で完結した20年間の「回り道」
「奇跡体験! アンビリバボー」出演に発展
2021年、ぼくにとって最大の出来事は、5月にフジテレビの「奇跡体験! アンビリバボー」に出演したことだった。自身のエピソードを元に再現VTRまで作っていただけて、約15分間も地上波で紹介していただけた。
そのきっかけとなったのは2013年、旅行会社に勤めて3年目の春のことだった。
ぼくは葛藤していた。ランチに入った中華料理店で、隣に座った外国人の観光客が注文に手間取り、困っていたのだ。 助けてあげたいが、英語で話しかけて、逆にいろんなことを聞かれたらどうしようと恐れていた。ぼくは英語があまり得意ではなかった。
普段から、困った外国人観光客を見かけると、なるべく積極的に声をかけるようにしていた。 それには、理由があった。
学生時代、ヨーロッパを自転車で旅していたときのこと。パエリアを食べたいなと思って入ったスペインのレストランで、隣に座った出張中のイタリア人に話しかけられ、拙い英語で旅の話をした。 すると、「イタリアにも来るのか! じゃあボローニャに寄ったときは連絡しなさい」と言って、電話番号と名前を書いて渡してくれた。そう、先ほど紹介したステファノさんの話だ。
そして2週間後、ボローニャに到着すると、無事彼と再会を果たし、地元の人しか知らないおいしいレストランに連れて行ってもらった。ぼくにとってイタリアの印象は、親切にしてくれた彼の印象と重なっているのだ。
苦手な英語で、伝わるかもわからない外国人に話しかけるのは勇気がいるものだ。しかし、「出会った人の印象が、その国の印象になる」。日本を好きになってもらいたい。思い切って「Where are you from?」と話しかけた。 すると、フランスから来たというティエリさん一家は、一瞬戸惑ったものの、流暢な英語で答えてくれた。 今回が初めての日本旅行で、東京に一週間滞在するとのことだった。
ぼくは、「寿司は食べましたか?」「このあとはどこへ行くんですか?」など、拙い英語で必死に聞いた。昼食後は銀座へ向かうと聞いて、銀座までのルートや、近くの日比谷公園など、オススメのスポットを教えてあげた。そしてこれも何かのご縁と思い、お父さんのティエリさんとFacebookでつながった。
その日の夜、ティエリさんからメッセージが届いた。
「ヨータ、今日はありがとう。君のアドバイスで、日比谷公園に行ってきたよ。とても良かった」
本当に行ってくれたんだ・・・。ぼくは嬉しくなった。
(たしか、日帰りで鎌倉へ行きたいと話していたよな)
もっと彼を喜ばせたいと思い、ある人物に電話をかけた。それは、大学の友人である伊東達也くん(いとちゃん)。 彼にこれまでの経緯を話し、ティエリさんたちに鎌倉を案内してあげてほしいとお願いした。 実はいとちゃんは鎌倉市役所の職員で、当時世界遺産の登録を推進する部署で働いていたのだ。おまけに英語も堪能で、彼に勝る適任者はいないと思った。
ティエリさんは、日本では携帯電話が使えず、ホテルにいるときにしかメールをチェックすることができなかった。 そこでメールで、いとちゃんの写真を送り、彼が昼休みに2時間、鎌倉を案内してくれることを伝えた。
ところが迎えた当日、いとちゃんが待ち合わせ場所に着いても、ティエリさんらしきフランス人家族の姿はなかった。実はティエリさんは、ホテルを出る前、「早く駅に着くから先に大仏を見に行く、そこで会おう」というメッセージをいとちゃんに送っていた。しかしいとちゃんがそれを見逃してしまっていたようで、すれ違いが起きていたのだ。
いとちゃんは観光客が行きそうな場所を探し回った。 そして奇跡的に、歩いているティエリさん一家を発見。なんとか無事、合流することができた。楽しい鎌倉滞在になったと言ってくれた。
ティエリさん一家は日本を満喫し、無事フランスへと帰国した。
この出会いから2年後。 突然、ティエリさんからメッセージが届いた。
「Hi, Yota. 日本の写真集を出版したよ」
ええ!? 実は警察の鑑識課で働いているティエリさん。カメラが趣味で、自費で写真集を出版したという。ちゃんとAmazonでも販売されていた。
そこに写っていたのは、日比谷公園や鎌倉の写真、ではなかった。「Tokyo Machines」と名付けられた写真集で、自動販売機やポストといった日本人にとっては当たり前の街角にあるものを収めた一冊だった。種類が豊富な自動販売機は、フランス人にとってとても珍しいものなのだという。
しかし、驚いたのはそれだけではなかった。写真集の最初のページには、「日本の友人、中村洋太と、伊東達也に捧げる」と書かれていたのだ。
ぼくは驚きと感動でいっぱいになった。そしてフリーライターになった2017年、この一連のエピソードを、『「Where are you from?」から始まった、ある奇跡のエピソード』というタイトルで記事にした。
それから4年後の2021年3月、フジテレビの番組ディレクターさんから突然メールが届いた。「中村さんの記事を読みました。この外国人観光客とのエピソードを番組で紹介したいです」というのだ。そして4月に取材と収録が終わった。ディレクターさんは細かなところまで実に丁寧に取材してくれた。
そしてオンライン上ではあったが、ぼくはティエリさんと8年越しに「再会」することができた。もちろん、鎌倉のいとちゃんも一緒に。
その放送回は、「アナタも経験あるかも!? すべては小さな勇気から始まった」というテーマの特集だった。まさに、あのとき勇気を出して話しかけなければ、すべては存在しない物語だった。
放送後、小中高の同級生や、知らない方も含め、たくさんの方からコメントやDMをいただいた。
20年に及んだ「回り道」
番組出演を機に、2つの大きな出来事があった。
ひとつは、ライターとしてどうありたいのか、覚悟が決まったことである。
「書いたエッセイが、全国放送で流れるレベルで評価された」ということは、大きな自信になった。そのとき、ぼくはエッセイストになろう、と決めた。作家になって、いつか自分のエッセイ集を出したい。
自身の行動と挑戦により生まれた様々なエピソードを、作品として発表していきたい。100年先、1000年先の人間が読んでも、心を温めたり、気付きを得られたりするような文章を書きたい。時代が変わっても変わらない、人間の本質や世界の美しさ、普遍的な価値を描きたい。
まっすぐな文章を書いていきたい。煽るテクニックとか、PV至上主義とかではなく、真っ当に良いものを書いていきたい。書く姿勢、生きる姿勢で人に良い感化を与えていきたい。正直にそう思ったのである。
そしてもうひとつの出来事は、母校から講演依頼がきたことである。現在母校で教員をしている同級生が、放送を観てくれていた。それが大きなきっかけとなった。
高校1年生(15歳)のとき、テレビで「ツール・ド・フランス」を観て、自転車と出会った。「高校まで、自転車で行けるのかな?」。素朴な疑問に向き合ったことから、すべてが始まった。
大学2年、オーケストラサークルの演奏ツアーで訪ねたヨーロッパが大好きになった。その後自転車旅にハマり、大学4年生のとき、ヨーロッパ12カ国を駆け巡った。そこで様々な人の親切を受け、今度は自分が、日本を訪れる外国人観光客に親切にする番だと思った。そのようななかで生まれたティエリさんとのエピソードが、テレビで紹介された。そして講演を頼まれ、ぼく(当時35歳)は再び「高校に戻る」ことになった。
人生は思い通りにならないことの方が多い。でも、それでいい。
思い通りにならないことでも「きっと何か意味があるはずだ」と楽しみ、その時々の気持ちを大切にしながら、一生懸命、楽しみながら生きることが大切なのだと、今は確信している。長い人生においては、一見関係ないように思えることが、意外なところでつながってくる。そういう経験がたびたびあった。
約20年に及ぶ「回り道」は、とにかく楽しかった。これからも予想のつかない人生を楽しんでいくと同時に、「回り道」の大切さを多くの人に伝えていきたいと思っている。
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