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忘れてしまう前に

旅行中の出来事を、リアルタイムに更新、かつ一発でエッセイ作品にしようと試みるのは、あまり現実的ではないように思う。急ぎ足で「いい話」を書こうとすると、「経験したこと」の多くが漏れてしまう。

たとえば一日に10個の出来事があって、そのうち3個はネタになるな、と思ったとする。でも果たして「残りの7個」を、取るに足りない話だからといって書かなくていいのだろうか。たとえ何かで痛い目に遭おうが、あらゆる出来事は当人にとって大切な経験である。時間が経ってから大きな意味合いが生じてくる可能性だってあるかもしれない。

また、仮に3個がエッセイのネタになるとしても、その3本をすぐさま書き上げるのは難しいし、かといって時間が経つと体験の鮮度が薄れかねない。旅行中であれば、翌日にはまた新しい体験が待っていて、記憶はどんどん上塗りされていく。書いておかないと、「あれは3日前だっけ? 2日前だっけ?」と記憶がごっちゃになることがよくある。

「10年前に訪ねたあの店の名前、何だっけ?」
「あのとき彼とどんな話をしたんだっけ?」
「なぜ鹿児島を訪ねることになったんだっけ?」

そう思ったときに、書き残してあればすぐに判明する。人間の記憶はもろい。歳を重ねれば重ねるほど、記録することの価値を感じるようになってきている。

小学4年生のとき、家族でアメリカ旅行をした。その際に「ワールドトレードセンターの展望台に登ったかどうか」で、1〜2年前に家族で論争が起こったことがある。ぼくと母は「エンパイアステートビルは登ったけど、ワールドトレードセンターには登っていない」と言った。しかし父は「両方登った」と言う。どちらも「自分が正しい」と思っている。自然と語気は強まっていく。普段は父の記憶違いであることも多いのだが、このときは物的証拠(アルバム)が出てきて、最終的に「登った」ということで決着がついた。父が正しかった。ぼくはそのときの記憶の不確かさがわりかしショックだった。

今回の鹿児島の旅では、どのようにアウトプットするのがいいだろうかと迷った末、そんな苦い経験も加味してか、ぼくは自分の原点とも言えるスタイルを取ることにした。それは、「まずは作品性を無視して、一日の出来事をできるだけ記録する」という方針だ。時系列の日記でいい。学生時代から、そのように自転車旅の話をブログに記してきた。起きたことを書けるだけ書いておく。それが大事な資産になる。

時系列の日記でも、「内輪ネタ」にならないよう気をつけて書けば割とおもしろいものにできるし(多分)、もしその旅についてのエッセイを書きたければ、日記をもとに後から書けばいい。「その日何があったか」と「そのとき何を感じたか」がきちんと保存されていれば、いくらでも書けるはずだ。

そういう考えで、ぼくは昨日までの鹿児島での出来事を一日ずつnoteにまとめた。

だけど今朝起きたとき、「それでもまだ、『漏れ』はあるなあ」と感じた。あの日の夜に振り返ったときには出てこなかったんだけど、あとになってから突然思い出す記憶がある。酔っていたせいもあるかもしれない。

さっきも、作家の有川真由美さんが、「でも『自分が書きたいもの』って全然当たらないのよね」と笑っていた姿がふと浮かんできた。だから、時系列での日々の記録もしつつ、後日記憶の底から湧き上がってきた出来事や感情、そして時間が経って発酵されてきた思考なども、またどんどん書いていくといいよねと、そんなことを今日は思ったのである。

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