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「書くこと」がもたらした奇跡

「ヨーロッパを自転車で旅したい」

大学3年の冬、寝ても覚めても頭はそのことでいっぱいだった。丸々2ヶ月間も旅するための資金はない。しかしどうしてもやりたい。お金が理由で夢を諦めたくなかったぼくは、一か八か、旅の企画書を作り、企業に飛び込み営業を繰り返した。波乱万丈の日々だったが、15社からの企業協賛と300名からの個人協賛を得て、念願の欧州自転車旅を実現することができた。まだクラウドファンディングが一般的ではなかった、2010年の出来事だ。

金なし、コネなしの無名の大学生だったぼくの唯一の武器は、「書くこと」だった。夢や目標だけでなく、協賛集めの過程も含めて包み隠さずブログに書くことで、様々な奇跡が起きたのだ。

そしてこの「書くこと」がもたらす奇跡を、自転車旅や協賛集めに限らず、今に至るまでの人生でずっと経験し続けている。仕事の幅も年々広がり、5年後、10年後に自分が何をしているのか見当もつかない。いつまでも終わらない、楽しい旅を続けている感覚だ。

3年前からは、世の中に素敵な文章が増えてほしい、人の心を動かす書き手が増えてほしいと願い、ライター育成事業にも取り組んでいる。しかし、「書くこと」の恩恵はライターに限らず、すべての人に開かれているはずだ。ぼくはたくさんのエピソードを実直に伝えることで、「書くこと」を通して豊かな人生を送る人を増やしたい。

その第一歩として、ここではぼくにとって最も大切な「原体験」を書くことにする。

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ヘリコプターからの空撮映像は、日本とはまるで異なる風景を映し出していた。広大なブドウ畑、石畳が残る小さな田舎町、峻険なアルプスやピレネーの山々……。そんな美しい世界を、自転車に乗った大集団がものすごいスピードで駆け抜けていく。

高校1年の夏、ぼくは世界最高峰の自転車レース「ツール・ド・フランス」に夢中になっていた。選手たちは毎日200km前後を走り続け、約3週間かけてフランスを一周する。テレビ越しにレースを眺めながら、「自転車ってこんなに長い距離を走れるんだ」という驚きと、「こんな景色の中を自転車で走ったら気持ちいいだろうな」という憧れを抱いた。

「もしかして、高校まで自転車で通えるのだろうか?」

ふと、そんな疑問が生じた。高校までは、電車で8駅分も離れていた。だから電車で通う以外に方法はないと思っていた。その夏、ツール・ド・フランスを観るまでは。

距離を測ると、家から高校まで片道15kmだった。何時間かかるかわからないけど、試しに自転車で行ってみたい。数日後、ぼくは早朝に家を出て、必死にママチャリを漕いだ。高校に着いて時計を見ると、50分しか経っていなかった。

(電車で行くのと、5分しか変わらないじゃん!)

当初は、「2〜3時間かかるかもな」なんて思っていたから、思った以上の早さに唖然とした。実際にやってみないとわからないものだ。経験のないことに対する予想や想像は全然当てにならないと学んだ。

自転車通学は、新鮮そのものだった。知らない道が知っている道に繋がったときはいちいち感動したし、それまで電車や車でしか行けないと思っていた場所まで自分の足で行けるという発見は、どこまでもぼくの心を自由にした。

やがてぼくは憧れの「ロードバイク」を手に入れ、高校まで30分で通えるようになった。

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一浪の末、早稲田大学 創造理工学部に進学した。「大学では新しいことを始めたい」と思い、いろんな部活やサークルの見学に出かけた。

そんななか、「クラシック音楽を生で聴いてみたい」という軽い気持ちで訪ねたオーケストラサークルの演奏に魅了された。聞けば、バイオリン奏者のおよそ3人に1人は大学からの初心者で、その他の楽器にも初心者スタートはたくさんいるという。

(初心者でも、わずか1、2年でこんな音楽を奏でられるようになるのか)

先輩からの勧誘にも押され、「えいや」と勢いで入団してしまった。楽器は、音色に惹かれてオーボエを選んだ。

しかし、いざ入団してみると、部活のように厳しかった。それもそのはず、この「早稲田大学交響楽団」は、かつて学生オーケストラの国際コンクールで優勝した経験もある名門で、3年おきにヨーロッパで公演ツアーを行うほどの楽団だったのだ。

ぼくが入団した2007年春の時点で、既に次のヨーロッパ公演が2年後に迫っていた。クラシックの本場で、聴衆を驚かせるような素晴らしい演奏を目指していたから、ぼくも甘えている暇はなく、必死に練習する日々だった。

とはいえ、楽器を始めて1年が経つ頃には、限界を感じていた。個別レッスンにも通い、ある程度は上達したものの、経験者たちの技量にはなかなか追いつけない。このままヨーロッパ公演へ行っても、良い乗り番は回ってこないだろう。

そんななか、サークルの全体集会にて、思わぬ話があった。

「1年後のヨーロッパツアーでは、演目の最後に和太鼓とオーケストラの協奏曲を演奏します。そこで、団内から和太鼓奏者を募集するので、興味のある方はお知らせください」

ワクワクする話だった。ベルリンやウィーンの名だたるコンサートホールで、日本の伝統文化である和太鼓を叩けるなんて、なんとも誇らしく、身震いするような体験じゃないか。

体力には自信があったし、オーボエには限界を感じていた。ぼくはオーボエパートから離れ、再び「えいや」と和太鼓パートの一員となった。そして世界的な和太鼓奏者からの指導も受けながら、気持ちを新たにまた基礎から練習する日々が続いた。

一年にわたる猛練習の末、大学2年の冬に3週間のヨーロッパ公演へと旅立った。総勢約200名の団員で、ドイツ、オーストリア、フランスの計11都市で演奏。世界最高峰のコンサートホール「ベルリン・フィルハーモニーホール」では、満員の客席でスタンディングオベーションが起こるほどの大成功を納めた。

アンコール曲の「八木節」で、ぼくは力いっぱい大太鼓を叩いた。そして、日本文化がこれほどまでに海外で評価されることに、驚きと感動が込み上げてきた。

それまで、日本人は欧米人に比べて劣っている、という漠然とした感覚を持っていた。だけど、相手に迎合することなく、日本の伝統をそのまま披露したときに、「ブラボー」の嵐が鳴り響いた。ほとばしる汗は、海外でも芸術に変わったのだ。このときに得た自信や日本人としての誇りは、言葉では形容し難い。日本人は海外でも堂々としていればいい。そのままで十分世界に通用するのだとわかった。

オフの日には、できる限り観光もした。人の温かさ、演奏の成功とも相まって、ぼくはヨーロッパが大好きになった。

*****

大学3年の春。ヨーロッパから帰国して、ぼくはオーケストラサークルを退団した。残りの2年間は、また別の挑戦をしたかった。

そして計画したのが、地元・横須賀から鹿児島までの自転車旅だった。ぼくは昔から、「日本地図って、本当に正しいのだろうか?」という疑問を持っていた。おそらく正しいのだろうけど、確かめたことがない。だから一冊の地図帳とともに自転車を漕いで、九州までの道がちゃんと地図通りにつながっているのかどうか、確かめてみたかった。

旅のルートを考えていたある日、「なんで地図帳なんか見てるの?」と学科の友人から聞かれた。

「夏休みに、自転車で九州まで旅するんだ」

「は? バカじゃないの? 自転車で九州なんか行けるわけないじゃん」

本気で馬鹿にされ、思わず声を荒げてしまった。

「なんで無理だってわかるんだよ。お前はやったことあんのかよ?」

「あるわけないじゃん(笑)だって無理に決まってるじゃん」

「・・・・・」

言い返す言葉もなく、ただただ悔しかった。

確かに、こんなに長い自転車旅は初めてだから、途中で身体に限界がきて、リタイアする可能性もある。

だけど、やる前から「できない」と言うのと、やってみて「できなかった」と言うのでは、まったく違うと思った。できないならできないで構わないから、自分はどこまで行けて、どこから先は行けないのか、それを知りたい。自分の限界を確かめられたら、たとえ失敗しても、爽やかな体験になるはずだ。

「失敗してもいい。やってみよう」と決意を固めた。

ただ、初めての長いひとり旅に、両親は心配した。とはいえ、こまめに連絡をするのも嫌だった。そこでぼくは、旅に出る直前にブログを開設した。

「毎日ここに旅の様子を書くから、それで安否確認してて」

そう伝えて、2009年8月12日の朝、横須賀を出発した。

1日100km前後を走り、街を観光し、眠い目をこすりながら毎晩ブログを書いた。下手な文章だったけど、書くのはすごく楽しかった。その日起きた出来事、目にした美しい情景、人の心の温かさ。そういうものをなんとか言葉にしようと、疲れた身体で深夜までもがいた。

すると、家族や一部の友人にしか伝えていなかったブログなのに、なぜか読者が増えていった。気付けば1日300PV。ブログってすごいなと思った。「個人的な旅なのに、こんなに多くの人が読んでくれてるの!?」と興奮した。「頑張ってください」「応援しています」というコメントが励みになった。

出発から13日目、ついに九州に着いた。「道は本当に、地図通りにつながっていた」。その当たり前の事実に、ぼくは深く感動した。各地で様々な人との出会いがあり、みな親切にしてくれた。松山では小学校の先生と出会い、「ぜひ子どもたちに旅の話を」と特別授業をすることに。そんな思わぬ出来事も含め、とにかく毎日が楽しくて仕方なかった。

旅の終わりに、見知らぬ女性からメッセージが届いた。

「中村さんの挑戦を見ていて、私も知らず知らずのうちに諦めてしまっていた夢があったことを思い出しました。その夢に向かってもう一度挑戦してみようと思います。ありがとうございました」

はじめは、感謝される理由がわからなかった。誰かを励まそうなんて一切思っていなかったし、ただ好きなことをやっていただけだから。

だけど結果的に、人の背中を押せていたんだと気付けた。

好奇心の赴くままに行動を起こせばいいんだ。そしてどこまでも突き抜けてしまえばいいんだ。自分の純粋な欲求を満たせば、それが他者貢献につながるんだ。

好きなことを一生懸命やることが、人のためになる。人生における重要な学びを得た気がして、今度は自分が感動する番だった。

*****

「社会人と話してみると、参考になるかもしれないよ」

就活に悩んでいた2010年1月、兄に誘われて異業種交流会に参加した。そこで出会った方と雑談するなかで、「いつかヨーロッパを自転車で旅したいんです」と話す場面があった。

「いいねえ〜! いつ行くの?」

「え、いつ? 社会人になって、お金が貯まったら・・・」

「会社に入ったら、そんな長い休みは取れないよ?」

言われてみれば当たり前なのだが、厳しい現実を突きつけられた。

「ってことは・・・」

「やるなら、学生のうちだよ! 洋太くん、頑張って!」

帰りの電車の中、「やるなら、学生のうち」が何度もこだました。長い旅をするなら、大学4年の夏休みしかない。つまり、もう半年後だ。

だけど、資金はどうするのか。2ヶ月間のヨーロッパ旅行は100万円以上かかるだろう。貯金はほとんどないし、親も頼れない。これから就活が本格化するため、バイトで貯めるのも難しい。やっぱり学生のうちにやるなんて、無理な話だろうか。

そのとき脳裏をよぎったのは、冒険家・植村直己の言葉だった。

彼は明治大学山岳部の一員として登山に明け暮れ、やがて外国の山に憧れを抱いた。

「卒業してからの就職なんかどうなってもいい、せめて一度でもいいから外国の山に登りたかった。それが自分にとってもっとも幸せな道だと思った」

(『青春を山に賭けて』より)

そして、ヨーロッパアルプスをこの目で見ようと決意する。そこで彼が考えついたのは、「生活水準の高いアメリカで高い賃金をかせぎ、パンとキュウリを食べて支出を減らせば、ヨーロッパ山行の金がたまるのではないか」ということだった。

「何年かかるかしれないが、とにかく日本を出ることだ。英語ができない、フランス語ができないなどと言っていたら、一生外国など行けないのだ。男は、一度は体をはって冒険をやるべきだ」

(同上)

そうだ、と震え立った。大切なのは、覚悟だ。ぼくだって、日本を飛び出して冒険をしてみたい。

「できない理由」を探せばキリがない。「できたらいいな」ではなく、まず先に「やる」と決めてしまう。お金やスケジュールの問題は、あとから辻褄を合わせていく。

覚悟を決め、あれこれと模索するなかで、一か八かのアイデアが浮かんだ。

「企業にスポンサーになってもらって、旅を実現できないだろうか?」

無名の大学生にスポンサーがつくなんて、正直難しいだろう。だけど、ぼくの旅を、単なる個人的な旅行ではなく、何か社会的意義のある活動に昇華できれば、もしかしたら応援してくれる企業が現れるかもしれない。

就職活動の最中、新聞を読んでいて、気になるニュースが飛び込んできた。

それは、「近年、20代若者の海外旅行離れが進んでいる」という記事だった。ぼくは、前年の演奏旅行でヨーロッパへ行った経験から、「なんてもったいないんだ」と感じた。海外で得られる刺激や気付きは計り知れない。日本の将来を担う若者こそ、感受性の高い時期にたくさん海外へ行き、多様性にふれることが大切だ。

あ・・・! その瞬間、すべてがつながった。

ぼくがヨーロッパを自転車で旅して、旅の魅力や各地の情報を毎日ブログに書いていく。そして、多くの同世代の人たちに読んでもらえたら、もしかしたら海外に行ってみたいと思う若者を増やせるかもしれない。

「若者の海外旅行離れを食い止める」。それを「旅の目的」として、企画書を作ろう。そして企業を回って、協賛を募ろう。

もちろん、無理かもしれない。でも何事も、やってみないとわからない。

4月1日に旅行会社から内定が出て、そこで就活を終わらせた。そして急いで企画書作りに取りかかった。図書館で「企画書の書き方」みたいな本を借りて、見よう見まねで作ってみた。

最初は味気ない文書になったが、兄や社会人の知人からフィードバックを受けて、7回ほど修正を繰り返した。1ヶ月かけてようやくできた完成版では、ひと目で企画の概要と「楽しさ」が伝わるよう意識した。

旅の企画書

6月下旬、ヨーロッパ出発の予定日まで、残り1ヶ月半を切った。イベントでの告知など、呼びかけによっていくらか応援者は出てきたが、協賛集めは難航していた。肝心の資金が、全然集まらない。

ある日の朝、パソコンを立ち上げると、親身に応援してくれていた経営者のKさんからメールが届いていた。

「洋太くん、飛び込み営業って、これまで何社にした?」

突然の問いかけに、一瞬で胃が痛くなった。まずい。。

「実は、まだ一社も行ってないです」

「やっぱりね……。最初に僕に企画の話をしたとき、『資金や物資は飛び込み営業で集めます!』と言ってたよね。でもブログを見ていると、人の紹介など行きやすいところしか行っていないんじゃないかなと危惧してました。新規で企業アタックというのがまったく感じられず、『本気で企業協賛など集める気があるの?』と僕には見えてます。こんな人を応援しようと思った訳ではないのに、と最近はブログを読む気も起きなくなっていました」

おっしゃる通りだった。最初こそ勢いよく言っていたものの、正直なところ、飛び込み営業なんて怖くて仕方がなかったのだ。

だけど、せっかく応援してくださっている方からこんな風に叱られたら、もう腹を括るしかなかった。

その日、ぼくは意を決して新宿の日本マクドナルド本社に突撃した。

しかし、入り口で警備員さんに止められる。 

「アポ取ってますか?」

「え? アポって何ですか?」

「・・・面会の約束のことですよ。話があるなら、まずアポを取ってください」

なるほど、そういうものなのか。ぼくはその場で代表番号にかけて、自分の企画を伝え、「担当の方におつなぎいただきたいのですが」と言った。しかし、「弊社ではただいま個人の方への協賛などは行っておりませんので、申し訳ございませんが・・・」と丁重に断られた。

「まあ、そうだよな」と思いながら、その足で渋谷のサイバーエージェント本社に向かった。受付で「アポイントはございますか?」と聞かれたので、今度は「あ、今から取ります!」と電話をかけた。

「・・・こういう旅の企画を考えているのですが、ぼくのアメブロを、オフィシャルブログにしていただけないでしょうか」

自分の旅と発信で「若者の海外旅行離れ」を食い止めるためには、まずブログの読者を増やさなければいけない。アクセスを増やすために、何かきっかけがほしかった。しかし、

「中村さんのブログをオフィシャルブログにすることで、弊社にはどのようなメリットがございますか?」

「メリット?」

当時のぼくは何もわかっていなかった。

「えーっと、メリット、うーん・・・」

「そうしますと、弊社にあまりメリットが感じられませんので、今回は申し訳ありませんが……」

撃沈。やっぱり飛び込み営業は無理なのかもしれない。でも、相手のメリットを考えることが大事なんだなと、やってみたからこその学びを得られたことはなんだか爽快だった。

最後にダメ元でもう一社だけ行ってみようと、恵比寿のオークリーを訪ねた。自転車旅で必須となる、スポーツ用サングラスが欲しかった。

インターホンで用件を伝えると、3社目にして初めて応接室に入れてもらえた。進歩だ。そして担当者の方は、企画書をじっくり読んでくださった。いくつか質問を受けて、自分が旅について深く考え込んでいることをアピールしつつ回答した。

「・・・わかりました。ちょっと待っててね」

5分後、部屋に戻ってきたその方の手には、サングラスが。

「これ、使って。早大生だから、フレームをエンジ色にしておいたよ」

「ええーー!? 本当にいただけるんですか!?」

「うん。アツい人を応援するのが好きだから」

な、なんという!そうだ、相手へのメリットだ。

「では、このサングラスのこと、ブログでたくさん紹介させていただきますね!」

「いや、いいよ。無理に紹介しようとしなくても」

「え?」

「それよりも、中村くんが旅を楽しんで」

「・・・」

なんということだ。見返りを求めない純粋な応援、こんなにかっこいい大人の存在。努力が実った嬉しさも加わり、ぼくは涙ぐんでいた。

「本当にありがとうございます!このサングラスで、精一杯頑張ってきます!」

飛び跳ねるような気持ちで帰宅し、この日起きたことを夢中でブログに書いた。

翌朝、Kさんから再びメールが届いていた。

「洋太くん、ブログ読んだよ。3社飛び込んで、1社の協賛?」

また怒られるのではないかと、ドキドキしながら続きを読んだ。

「すごい確率の高さじゃない!おめでとう!その調子で頑張って!」

良かった。。そして数日後、Kさんの共通の知人からメールが届き、衝撃の事実を知った。

「洋太くん、知ってる? あれからKさん、『早稲田大学の中村洋太くんに協賛してあげてください』って、周りの人たちに本気でお願いしているのよ。今度はKさんが、洋太くんの頑張りに動かされてるね」

それを聞いて、ハッと思い当たることがあった。つい先日、銀行の通帳記入をしたとき、名前も知らないたくさんの方々から、お金が振り込まれていたのだ。御礼を伝えられずモヤモヤしていたが、その謎がようやく解けた。ぼくの知らないところで、いろんな方に協力を呼びかけてくださっていたなんて。

飛び込み営業で成功した例は、そこまで多くはない。しかし、失敗した経験も包み隠さず書くことで、ブログの読者は増えていった。行動と発信は常にセットだった。

当時、「学生ブログランキング」というのがあり、協賛集めの過程を毎日書き続けるなかで話題を呼び、ついにぼくのブログが77000人中1位になった。それにより、企業からの信用も得られやすくなった。

そして3ヶ月間で、以下の物資提供を得られた。

・ソニーからデジタル一眼レフカメラ
・カシオから電子辞書
・旅行会社からヨーロッパ往復航空券
・自転車輸入会社からロードバイク

さらに、ラジオや大学の学内誌で取り上げられたほか、学食のおばちゃん、大学の先生や友人、高校の後輩、教習所の教官など、様々な方から資金提供をいただいた。

「人の金で旅をするなんて」とネット上の掲示板で叩かれ、落ち込むこともあった。しかし、この企画を最後までやり切ることで日本が少しでも良い方向に向かうなら、自分ひとりが批判されるくらい大したことではないと、気持ちが折れることはなかった。

会う人会う人に想いを伝え、3ヶ月間で1000枚以上の企画書を配った。ひとりでも多くの方に自分の挑戦を知ってもらい、ブログを見てくれるだけでもいい、どんな形でもいいから応援してもらいたかった。それが自分の力になるし、力を発揮できればぼくにしかできない方法で日本のための仕事ができる。そういう使命感で動いていた。

最終的に15社の企業協賛と300名からの個人協賛を得ることができた。多くの人に背中を押され、2010年8月2日、ぼくはついに海を渡った。

スタート地点として降り立ったのは、ドイツ第二の都市フランクフルト。2ヶ月間の海外ひとり旅、無事にゴールまで辿り着けるだろうか。そんなぼくの不安と緊張をほぐしてくれたのが、最初に入ったレストランで隣にいたドイツ人のおじさんだった。

「どこから来たんだ?」

「日本からです。これから自転車でヨーロッパ西部を一周するんです」と言うと、「信じられない」という顔。ぼくは旅のために用意した旗をおじさんに見せ、片言の英語で一生懸命説明した。

「この旅を応援してくれた人の名前で、日の丸を作っているんです。もし良かったら、あなたの名前も書いてもらえませんか?」

「もちろん書くよ。面白いアイデアだ。そうだ、これを持っていきなさい」

おじさんが手渡してくれたのは、なんと10ユーロ札だった。ぼくは慌てて言った。

「ノー、ノー、そういうつもりで言ったわけじゃないんです。ただ記念にお名前を書いてほしかっただけで……」

「いいんだよ。私も君のスポンサーだ。Have a nice trip!!」

そう言って笑顔で旅を後押してくれた。なんて親切な人なんだろう。胸がいっぱいになり、この旅はきっとうまくいくような気がした。

その明るい予感のままに、ぼくは12カ国を巡り、充実した2ヶ月間が幕を閉じた。途中、思わぬハプニングや事故に見舞われることもあった。しかし、それを遥かに上回る楽しさや感動があった。心も身体もたくましくなって再びドイツに戻り、ゴールのベルリンに辿り着いた。

ブログを通してたくさんの方から祝福された。なかでも嬉しかったのは、「毎朝、勤務前にブログを読むのが日課になりました」「一緒に旅をしているような気分でした」といったコメントだった。

この頃から、「書くこと」を趣味ではなく、ちゃんと仕事にしたいと思うようになった。自分の体験を書いて伝えることの楽しさを知ってしまった。

旅行会社に就職したのは、海外添乗員として様々な国へ行けるだけでなく、ツアー情報誌の編集とライティングに携われることが理由だった。大変なことも多かったが、振り返ってみればこれ以上ない仕事だった。

そして会社で約6年働き、2017年にフリーライターとして独立した。

会社員時代にも、独立以後にも、ドラマチックなエピソードは様々あるのだが、ここでは割愛する。

*****

人生には、思い通りにならないことがたくさんある。失敗したり、挫折したりすることもある。でも後から振り返ってみると、むしろそういう「回り道」にこそ、豊かな人生を送るヒントがあるのかもしれない。

一見無駄に思える経験が、どこかで役に立つことがある。親への安否確認のために始めたブログが、ライターになる道につながっていたように。お金がなかったことが、「協賛集め」という貴重な経験につながっていたように。

だから今は、辛い出来事や想定外の出来事が起きても、「この経験から何を学べるのだろう?」「今は苦しいけど、きっと何か意味があるはずだ」「このピンチをチャンスに変えられないだろうか」と捉えられるようになった。

何がどうつながるかわからない。だからこそ、気になることがあったら、あれこれ悩んでないでやってみようという気持ちでいる。何も起こらないかもしれない。だけど、もしかしたら、何かが起こるかもしれない。それが「書くこと」を通して、ぼくが学んできたことだった。

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