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不安の正体

夜寝るときや、朝起きたとき、言いようのない不安に襲われることがある。

今朝もそうだった。頭に残っているのは、先日会った、2週間弱のアメリカ旅行から帰ってきた友人の言葉だった。

ニューヨークとサンフランシスコを巡ってきた彼女は、「これから1〜2年海外で働くことも検討している」と言って、キャリアの構想を聞かせてくれた。アメリカ滞在も大きな刺激になったらしい。

今は英語の勉強に励んでいる。「英語ができれば情報やトレンドをより早くキャッチアップできるし、海外のクライアントとの仕事もやりやすくなる。チャンスが広がる」ということだった。

ぼくはただただ、「立派だなあ」と感心するしかなかった。

一方で「ぼくはこういうキャリアの実現に向けて今はこういうことを頑張っているよ」と対等に刺激を与えられる話ができればよかったのだが、実際はどうか。彼女がアメリカでスケールの大きな物事にインスパイアされていた時間、ぼくはピアノの練習ばかりしていた。おいおい、どこに向かっているんだ?

もちろん、それは自分が望んでやっていることだし、実験的なライフスタイルとして試している部分もある。だから結果どうなろうと後悔はないのだが、彼女と話したときの素直な実感として、「ぼくはこのままでいいのだろうか? キャリアの可能性が狭まっているのではなかろうか?」ということを思った。

それは本当にそうなのかもしれないし、ただの錯覚かもしれない。ぼくはぼくで、好きなことに振り切る生活を試すことでキャリアの可能性を広げようとも思っているから。うまくいくかどうかは別として、まったく狙いがないわけではない。

ただ、「仕事より趣味を優先」という今のライフスタイルでは、大きな収入が得られないため、どうしても節約思考が高まってくる。そうなると大胆なお金の使い方や、大きなチャレンジの選択肢を思い浮かべづらくなる、というのはあるなと感じている。やはり十分なお金がある、ということは、行動の選択肢を広げる。あとは、これは人によるのかもしれないが、基本的にはお金があることで気持ちにより余裕が生まれ、その結果ポジティブ思考でいられやすい、というのもありそうだ。ぼくの場合は結構そうで、フリーランスになって以降たびたび不安に襲われる場面があった。無意識にお金のことを気にしているのだろう。

今は仕事の問題を先延ばしにしているが、いずれは、いやもうそろそろ真剣に考えなければいけない。ときどき頼まれる取材記事を書いたりしていれば場当たり的に収入を得ることは可能かもしれないが、そういう生き方で自分は満足なのか、どうなのか。何のために生きているのか? もっと長期的に自分のキャリアプランを描き、そのための行動をきちんと起こしていくのが大切なのではないか。たとえば同じ「記事を書く」行為でも、頼まれた仕事をただ引き受けるのと、自分がやりたいことを企画して実現するのとでは、根本的に異なる。生きる姿勢の問題だ。

ピアニストを目指してピアノに夢中になっているわけでもないし、別にピアノ関係の仕事を取りたいわけでもない。ピアノはあくまで趣味。癒しにはつながっているし、学ぶことも多い。成長を感じられるのも素晴らしいことだ。

でも趣味ばかりしていて、キャリアにどんな発展がある? もちろん、何か思わぬところから偶発的にキャリアの発展が起こる可能性はある。けれども、「神のみぞ知る」的なことだけに頼らず、自分はどうありたいのか、どういう働き方や生き方をしたいのか、そのことをもっと強く意識して、目標を立てて、そこに向かって行動を起こすような姿勢(彼女がアメリカへ行ったように)を持たなきゃ、社会性すら失ってしまう気がする。人は刺激を与えてくれる人とつながりたい生き物だと思うから。

孤独は良いが孤立してはいけない。どこかで、人とつながる生き方、人が自分とつながりたくなるような生き方をしたい。でないと、「最近中村さん見かけないね」「ああ、あの人ピアノ弾いてるよ」「じゃあそっとしておこう|彡サッ」みたいなことになってしまいそうだ。もしかしたら、それが不安の正体だったのかもしれない。まだ引退も隠居もしたくない。我が道を突き進むことと、社会性を確保すること。そのバランス。ピアノも読書もするけど、孤立せず、きちんと人や社会とのつながりのなかで生きよう。

(つづきです↓)


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