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書き続けることに意味がある

noteを毎日書き続けてみようと思い立って、今日で16日目。

この試みは、自分の殻を破るために始めた。初日のnoteにこんなことを書いた。

noteではいつも、何か書くテーマが決まっていないと、書けなかった。しかし、逆の発想はどうか。テーマが浮かぶかどうかに関係なく、「毎日何かを書く」と決めてしまう。そしたら、何が書けるのだろうか。自分でもわからない。だからワクワクする。

それ以前のぼくは、書きたいことがあったときだけ、書いていた。だから、文章としてすくい上げられるのは、自分にとってわかりやすい行動やわかりやすい思考ばかりだった。

だが、本当はもっと、いろいろなことを考えながら生きている。電車を乗っているとき、景色を眺めながらふと思ったことを、ツイートする。その140文字を拡大して、深掘りして、1500文字の記事にできないか。

いつもと変わらない日常の中でも、何かしら発見があるはずだ。一瞬でも心を動かされたら、それは記事のネタになるかもしれない。

そうした心の動きを注意深く観察して、メモ帳に残す。それがネタ帳になっていく。「気付く力」を研ぎ澄ませるための訓練ともいえる。

ライターとしての基礎体力をつけるためにも書き続けたい。あるいは、書くことのネタはいたるところにあるし、少し育てれば十分ネタになりうることを日々思考しているはずだ、ということを半信半疑な自分自身に気付かせるためにも。

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村上春樹の『遠い太鼓』は、3年間のヨーロッパ旅行を綴った本だ。その3年間で、彼は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』という長編小説の名作を2つ書き上げた。後者は『ねじまき鳥クロニクル』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と並んで、ぼくの好きな作品のひとつだ。

相当忙しかった3年間であったはずなのに、彼は小説執筆とは別に、旅先でのことをちゃんと書き続けている。『遠い太鼓』は文庫版で約570ページにもなる長い作品だ。

冒頭で、彼はこんなことを言っていた。

僕がスケッチを書き始めたそもそもの目的は、ひとつには異国にあって知らず知らずどこかにぶれていってしまいそうになる自分の意識を、一定した文章的なレベルから大きく外れないように留めておくことにあった。自分の目で見たものを、自分の目でみたように書く、それが基本的な姿勢である。自分の感じたことをなるべくそのままに書くことである。安易な感動や、一般論化を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。様々に移り変わっていく情景の中で自分をなんとか相対化しつづけること。もちろん簡単な作業ではない。うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。でもいちばん大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することであり、使用しつづけることである。
ここに収められた文章は、原則的にはただのスケッチの集積だ。あるいはそのひとつひとつの断片にはたいして意味はないかもしれない。しかし、読者のみなさんに理解していただきたいのだが、僕にとってはその継続そのものの中に、これらの文章を途切れ途切れではあるにせよ書きつづけるという行為そのものの中に、意味があった。

これらの言葉が、今のぼくにはストンと落ちた。

ぼくのnoteを読んだ読者がどう思うかに関係なく(もちろんおもしろいと思ってもらえた方がいいに決まっているが)、ぼくにとっては「書き続けることそれ自体」に大きな意味がある。

書くことは自分と向き合う時間でもある。今自分自身は何を強く思っているのか。「先週はこんなことを書いたけど、昨日あの人と話したことで、少し考えに変化が生まれたな」とか、そういうことはよく起こり得るのである。

だが、自分とゆっくり向き合う時間を取らないと、その意識の変化を見過ごしてしまう。

自分が何を思っているのかきちんと言語化することは、生きることと向き合うことでもあるし、自分を大切にすることでもある。この習慣を持ってから、生きていることの実感がより色濃くなった感じがする。生きることが楽しいし、人生や生活や思考が安易に流されそうで流されない、そんなグリップを手にしたような感覚である。ちゃんと言葉で掴んで、引き止めている。

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