新疆ウイグルの人口・強制避妊問題に関するゼンツ氏の論文の検証
'20年6月に前米国務長官であるポンペオ氏が、中国共産党は少数民族のイスラム教徒に対して不妊手術や中絶の強要や強制的な産児制限を行っており、「ショッキング」で「憂慮すべき」と批判する声明を発表した[1]。このニュースは世界中で伝えられ、中国はなんて酷い国なんだと多くの人は思っただろう。しかし、これは事実なのだろうか。
この声明はドイツ人研究者のゼンツ氏が書いた論文に基づいており、新彊における人口の分析から中国政府が強制避妊政策を取っており、それはジェノサイドサイドに当たるとしている[2]。そして、この論文を発端として中国政府や新疆大学の学者とゼンツ氏の間で論争が起こっており、その中のいくつかの論点について以下の通り内容をまとめてみた。
■ 新疆ウイグル自治区の自然人口増加率の急激な低下(ホータンとカシュガル)
まずゼンツ氏は論文中で「2018年のホータンとカシュガルの自然人口増加率はわずか2.58‰」と主張している。また、2015年くらいから増加率は急減し、2018年には少数民族全体の増加率より低く、また漢族と同等の増加率となっているとする(fig.1)。そして、これは強制収容所への拘留だけでなく、厳格な出生管理の為と結論付ける。
fig.1 ゼンツ氏によるホータンとカシュガルの自然人口増加率のグラフ
これに対して反論したのが新疆ウイグル自治区政治行政学部の林芳菲准教授である[3]。林准教授は2019年新疆ウイグル自治区統計年鑑を基に、以下の数値を示してホータンとカシュガルの自然人口増加率は低くないと反論する。
・カシュガル地域 6.93‰
・ホータン地域 2.96‰
また、ゼンツ氏はデータの出典を明記しておらず、信憑性が低いと批判している。確かにゼンツ氏は多少の補正を行っていると書いているので、その結果として異なる数値が出てくる事もあり得るが、それにしても6.93‰と2.96‰という数値から2.58‰という両者の数値より低い値が出てくるのは理解に苦しむ。
そして、ゼンツ氏はこの反論に反応した[4]。問題のホータンとカシュガルの自然人口増加率が林准教授が提示した数値と異なるのは、使用した統計が異なるためと説明している。具体的には、ゼンツ氏は新疆統計年鑑(XSY)と新疆ウイグル自治区の地域社会経済開発レポート(SEDR)を使用しているが、両者の間にいくつかの地域と期間で差異がある為、今回の論文では特にデータの安定しているSEDRをカシュガルのソースとして使用することにしたと説明する(table.1)。確かにSEDRの方が妥当な数値の様に見えるが、なぜカシュガルのデータだけSEDRから引用したのだろうか。
table.1 ゼンツ氏が使用する二つの統計
ここまでをまとめると、ゼンツ氏はホータンとカシュガルの自然人口増加率が急激に低下しているのは強制収容や出生管理の為と主張したが、数値の違いを指摘されてカシュガルのデータは数値の安定している統計から用いた為と答えている。とすると、普通の人は「じゃ、すべてのデータを安定した統計から引用すべきでは」と思う訳で、その目的は「都合の良い数値を使うため」と疑ってしまう。
■ 新疆ウイグル自治区の自然人口増加率の急激な低下(新彊と全国の対比)
ゼンツ氏は例えばホータン郡の自然人口増加率の目標は2017年 16.5‰、2019年 11.59‰であるが、2018年の実際の成長率はわずか2.22‰であり、全体としてみても2018年の人口増加は目標をはるかに下回っている都市が多く、これは大量収容キャンペーンの為だけでなく、はるかに厳格な避妊措置の結果でもあると主張する。
これに対して林准教授は「中国統計年鑑2019」から、2018年の新疆ウイグル自治区の自然人口増加率は6.13‰に対し全国の増加率は3.81‰であり、決して低い値ではないと反論している。この年鑑はネットで閲覧できるが[5]、他の都市と比較しても新彊ウイグルが特に低いという事はなく(fig.2)、ゼンツ氏がここでも都合の良いデータだけを引用しており、人口増加率が急激に低下しているから強制避妊だというのは無理が有ると感じる。
fig.2 ゼンツ氏と林准教授が主張する自然人口増加率
また、前出の「中国統計年鑑」を調べれば中国各都市の自然人口増加率が分かるので、その傾向を調べる為にfig.3の通りプロットしてみた。これから以下の事が分かる。
・ 確かに新彊の自然人口増加率は2018年に急減している
・ 急減しても全国平均よりは高い値
・ 他にも山東省のように急減している都市も有る
・ 山東省の急減、チベットの変化が少ないことの理由は不明
fig3. 中国各都市の自然人口増加率の推移
尚、2018年から新彊の自然人口増加率が急減しているのは一つには2017年から統一した家族計画政策が適用されている事が要因と考えられる[6](fig.4)。これにより、これまで比較的緩かった家族計画が、都市部であれば2人、地方であれば3人の子供に限定されることになり、自然人口増加率の減少も妥当だと考えられる。また、これは新疆開発研究センターの特別研究員 李暁霞氏によると[7]、以下の様に家族計画を実行する為の施策が奏功している結果だという。
・子供を1人か2人の場合は、3000人民元以上のボーナスを受け取る事ができる(fig.5)
・避妊等に掛かる費用は政府が負担する(fig.6)
これは政府資料にも明記されている([8],fig.7、”州”は機械翻訳の誤訳)
・コンドームやその他の避妊具を無料で配布
・スマートフォンのアプリケーションも開発されいる
fig.4 2017年から少数民族にも適用された家族計画
fig.5 3000人民元のボーナス
fig.6 家族計画に伴う費用は政府負担
fig.7 家族計画に関する政府資料
もう一つの理由として李暁霞氏は、新疆ウイグル自治区の人口は第4段階、すなわち、低死亡率、低出生率、低成長率の段階に達し、貧困緩和のさらなる推進により、南疆ウイグル自治区の貧困地域の生活環境は大幅に改善され、都市化のプロセスは明らかに都市人口の継続的な増加とともに加速したとしている。結果として、新疆の人口はまだ増加傾向であるが(fig.8)、2017年から2018年で新生児の数が約12万人減少したとの事で、今後伸びは抑えられていくものと推測される。
fig.8 新彊の人口推移
結局、ゼンツ氏は2017年の家族計画変更に伴う一部の地区のデータを取り上げてジェノサイドの証拠と大騒ぎをしているのだが、減少した自然人口増加率は全国の値と比較しても異常な値ではなく、家族計画及び都市化の帰結として妥当な変化と考えられる。(より厳密な定量的な検証は必要と考える)
■ 強制避妊や産児制限について
ゼンツ氏の新彊ウイグルにおける強制避妊の主張の中で特徴的なのは、「新彊ウイグル自治区でのIUD装着が中国全土の80%を占める」という主張である。人口割合で1.8%でしかない地域でIUDの装着率が中国全土の80%を占め、まさにこれがジェノサイドの証拠だと言っている。
ここでIUDとは聞きなれない言葉だが、避妊具の一種で(fig.9)安全でかつ確実に避妊ができる器具との事である。この器具の装着及び除去には手術が必要で、その回数がゼンツ氏の根拠となっている。
fig.9 IUDの装着方法
これに対して林准教授は「中国健康統計年鑑2019」から、2018年の新疆ウイグル自治区におけるIUD配置の新規症例数は328,475件、全国の新規症例数は3,774,318件であり、到底80%という数値にはならないと反論している。
そしてゼンツ氏はこれに反論した。その内容は氏が対象としているのはIUDを取り換える人(除去後すぐに装着する人)ではなく、純粋な新規装着者数であると言うことであった。式で表すと
(新規のIUD装着件数)=(装着件数)ー(除去件数):(1)
として、以下の数値を示した。
全国:装着 3,774,318件、 除去 3,474,467件、 新規装着 299,851件
新彊:装着 328,475件、 除去 89,018件、 新規装着 239,457件
なるほど、全国で約30万件、新疆で約24万件だから確かに80%、という訳は無く、ゼンツ氏の考えの間違いを以下の様に推測してみた。尚、この説は中国政府系のメディアにも書いていない個人的な説である。
式1から考えるとゼンツ氏は除去と装着がセットと考えているようで、実際継続して避妊する場合はそうなる(fig.10上)。しかし、ゼンツ氏も認める通りこの年は全国的には除去する人が多く、これは2014年に一人っ子政策が終了し避妊を止め、除去だけ行った人が増えたのではないか。また、IUDの交換期間は3、5、10年のようであり[9]、毎年除去と装着が行われることはなく、数年遅れで除去が行われていくと考えられる事もこの仮説を裏付ける。この仮説に従えば、全国の新規装着件数はもっと増える筈であり(fig10.下)、80%という数字は間違いという事になる。
fig.10 IUD新規装着率の考え方
尚、林准教授によると2015年から2018年にかけて、新疆における子宮内避妊器具の新規症例数は大きな変動を示さず、2018年の新規症例数は2015年と比較して減少したとの情報も付記しておく。
■ 家族計画に違反する女性は教育訓練センターに収容
前述の通り、2017年にこれまで規制が緩かった少数民族に対する家族計画を他の民族と同じ統一した規制とする規則の改正を行った。ゼンツ氏はこの後から、公的な文章の表現が劇的に厳しくなったと指摘する(fig.11)。例えば「家族計画に違反する行動を激しく攻撃する」などであり、これは強制避妊を示しているとする。そして、「頑固で罰金の支払いを拒否する子供が多すぎる家族は「教育と訓練」の対象である」とする文章に対しては強制収容の証拠だとする。
fig.11 厳しくなった公的文章の表現
また、ゼンツ氏はリークされた政府文書と言われる「Karakax List」に、避妊違反者を含む拘留者311人の記録が有るとして強制収容を正当化する。尚、この件に関してはゼンツ氏が論文を書き[10]、これに対して中国側が反論するという状況であり[11]、またかなりの長文の為、ここでは簡単に紹介するに留める。
そして、このゼンツ氏の主張に対して林准教授は以下の通り反論する。
・強制避妊を表す厳しい表現については、ゼンツ氏が引用する資料を確認したが強制避妊を表す文章は確認できなかった。尚、これは林准教授の文章に有る訳ではないが、家族計画の法律には「家族計画技術サービスは政府の指導と個人の自主性を組み合わせるという原則を実施するものとする」「政府は市民に適切な家族計画技術サービスを受ける権利を保証する」と明記されている[8](fig.12)。
・「Karakax List」に避妊違反により拘留された人の記述があるが、チャイナデイリーの調査により[8]、311人のウイグル人住民の大多数がずっと社会で正常に働いて生活している事が確認されている。従って、ここは第三者の検証が必要とされるところである。
fig.12 家族計画の内容を記載した政府文書
この反論にゼンツ氏は特に反論はしておらず、「証言、衛星画像、政府独自の文書などの文書から、これらのいわゆる教育およびトレーニングセンターの本質について私たちが知っていることを考えると、ここに追加するものは何もありません」とだけ言っている。これは反論出来ないのか、これまでの自身の論文に自信が有るのかは分からない。
結局、直接強制収容を示す証拠は無いし、強制収容所に関する証拠も以前書いた「ウイグル人権侵害に関する資料集 〜日本人の知らない事実〜」[12]の通り根拠は薄弱なので、この部分についても根拠は不十分という結論になる。
■ まとめ
以上をまとめれば次の通りであるが、これをもって新彊でジェノサイドが行われているというのは無理が有る。
□ 新疆ウイグル自治区の自然人口増加率の急激な低下
(ホータンとカシュガル)
⇒ ゼンツ氏の統計の用い方が恣意的な為、信憑性は低い
□ 新疆ウイグル自治区の自然人口増加率の急激な低下(新彊と全国の対比)
⇒ 自然人口増加率は確かに低下しているが、妥当な理由が有りジェノサイドには当たらない
□ 強制避妊や産児制限について
⇒ 主要な主張の新彊のIUD装着は全国の80%は単純な理解不足
□ 家族計画に違反する女性は教育訓練センターに収容
⇒ 公的文書を基にした批判は根拠は薄く、収容者については検証が必要
参考文献:
[1]:米シンクタンク、中国がウイグル人に不妊強制との報告書 ポンペオ長官「衝撃的」,ニューズウィーク日本版,2020年6月30日
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/06/post-93819.php
[2]:Sterilizations, IUDs, and Mandatory Birth Control:The CCP’s Campaign to Suppress Uyghur Birthrates in Xinjiang, Adrian Zenz, June 2020
https://jamestown.org/product/sterilizations-iuds-and-mandatory-birth-control-the-ccps-campaign-to-suppress-uyghur-birthrates-in-xinjiang/
[3]:新疆ウイグル自治区の人口問題に関する鄭国苑の誤謬への報復-新疆ウイグル自治区のすべての民族グループの子供を産む意欲に基づく調査と調査報告, 国际在线, 2020-09-14
https://m.sohu.com/a/418248724_115239/?pvid=000115_3w_a
[4]:A Response to the Report Compiled by Lin Fangfei, Associate Professor at Xinjiang University, Adrian Zenz, Adrian Zenz, Oct 7, 2020
https://adrianzenz.medium.com/a-response-to-the-report-compiled-by-lin-fangfei-associate-professor-at-xinjiang-university-bdad4bbb97f9
[5]:中国統計年鑑2019
http://www.stats.gov.cn/tjsj/ndsj/2019/indexeh.htm
[6]:普法宣传 新修订, 2017年7月28日
https://m.sohu.com/a/352896992_363955/?pvid=000115_3w_a
[7]:An Analysis Report on Population Change in Xinjiang, Global Times, Jan 07, 2021
https://www.globaltimes.cn/page/202101/1212073.shtml
[8]:中華人民共和国国務院令 第428号, 2004年12月10日
http://www.gov.cn/zwgk/2005-05/23/content_262.htm
[9]:MSD マニュアル, Merck Sharp & Dohme Corp., 2018年 11月
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/22-%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E5%81%A5%E5%BA%B7%E4%B8%8A%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E8%A8%88%E7%94%BB/%E5%AD%90%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%81%BF%E5%A6%8A%E5%99%A8%E5%85%B7-iud
[10]:The Karakax List: Dissecting the Anatomy of Beijing’s Internment Drive in Xinjiang, Adrian Zenz, February 17, 2020
https://www.jpolrisk.com/karakax/
[11]: Officials: Xinjiang 'name list' terrorist hoax, China Daily, 2020-02-24
https://www.chinadaily.com.cn/a/202002/24/WS5e5307e9a3101282172799f1.html
[12]:ウイグル人権侵害に関する資料集 〜日本人の知らない事実〜, yota8, 2021/05/02 01:04
https://note.com/yota811/n/n40853e1d5090