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吉増剛造の自伝。我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!

吉増剛造さんは凄まじい詩人で、彼の詩はその字が跳ね回り、また原子が飛び散るようなもので、詩集「花火の家の入り口で」ではじめて、詩の中で外から宇宙を見るような経験をさせてくれた、大詩人です。

吉増さんの自伝を読んで、気に留めた部分を少し書いておこうと思う。会話を文字起こししたものなので、その空気感を含んでいて面白い。

アイオワに行って、英語が逆にどんどん出来なくなって、英語を拒絶して、言語を枯らすようにした。

もうほとんどぎりぎりまで持っていくのよ。もうこれ以上行ったらぼきって折れるようなとこ。そこまで行かないと非常時のそこにつかないの。

「言葉を枯らす、….」ということをさらに考えてみると、……「歌」ということに関連していることが判る」。プレスリーやディランのように歌わなければいけないのに、物真似のとても劣った言葉しか、発語できない、この絶望感は言語を絶している。ここで「歌」、を「声」を「詩」といいかえることが出来る筈。「伝達言語」や「普通言語」を枯らそうとしたんだね。

吉増剛造 我が詩的自伝から抜粋


非常時の実存の底、冷たかったり水だったり、「歌」や「声」、夏の庭で舞っている女…..それに触れてないとだめだということなんじゃないかな。

吉増剛造 我が詩的自伝から抜粋


作品っていうのは火のようなものだからね。どこかでもう一つの知恵が働いていてて、どこかでそういうところに触れていないと、作品が出てこないっていう。それはどこかで会得したんだろうね。だから単純な引きこもり、孤独だけじゃないのは確かだ。単純に言葉を涸らす、だとかじゃなくて、しかも作品だけじゃなくて、別の生に触れていないと、この生は生きていることにならないって、….そして 「歌」だね、そこに希みがあるんでしょう。

吉増剛造 我が詩的自伝から抜粋


ということで、とくに僕がこのことに対しての意見などはなく、ただ深く入ってきたので、皆さんに広められたらと。

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