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変わらない世界へようこそ 映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』

I

トロイアの人々が木馬を城内に運び込もうとしたとき、それがギリシア軍の策略であることを見抜いたのはプリアモスの娘カサンドラだけだった。彼女の警告に誰一人耳を貸さなかったのは、彼女にかけられた呪いによる。カサンドラはアポロンから予言の力を授かったが、好色な神との同衾を拒んだため、誰も彼女の言葉を信じないという呪いをかけられたのだ。

この呪いをかけるとき、アポロンはカサンドラの口に唾を吐き入れたという(松田治『トロイア戦争全史』講談社)。

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カサンドラが警告したとおりトロイアは陥落し、カサンドラはアテーナー神殿でギリシアの武将小アイアースに凌辱される。小アイアースはこの行為によってアテーナー女神の怒りを買い、帰路の航海中に難破して命を落とす。

エメラルド・フェネル監督『プロミシング・ヤング・ウーマン』の主人公カサンドラ(キャリー・マリガン)の名前は、このトロイアの王女と同じである。幼馴染のニーナがアル・モンローに公然と凌辱されたとき、彼女達の告発に耳を傾ける者は誰もいなかった。事件の後ニーナは自ら命を絶ち、カサンドラは医学校を中退する。カサンドラの怒りは神殿を汚された女神さながら、あるときは背後に落下するスクラップとして、またあるときはワーグナーの音楽とともに通り過ぎる貨物列車として画面に横溢する。

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II

もっとも、フェネル監督は叙事詩環よりもキリスト教的イメージを多用している。たとえば、映画冒頭のクラブで壁にもたれるカサンドラの姿態は明らかにキリストの磔刑になぞらえたものだ。彼女は連れ込まれた男のベッドの上でも同じポーズをとる(このポーズは、映画終盤の決定的なシーンでもう一度繰り返される)。

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カサンドラはクラブで泥酔した振りをして、同意を得ずに自分と性行為に及ぼうとする男性に制裁を加えるという行動を何年も続けている。手帳に刻んだ「正」の字の色分けが暗示するように、彼女がすべての夜を無事乗り切ったとはとうてい考えられない。それでもクラブ通いをやめないのは、もはや不埒な男性を懲らしめるためというより、それが彼女自身の贖罪だからではないだろうか。そう考えると、一見ガーリーな花柄のブラウスも、身体に開いた無数の傷から血を流しているようにみえる。

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ニーナを暴行した張本人であるアル・モンローが最近婚約したことを知ったカサンドラは、関係者への復讐を思い立つ。復讐を実行していく彼女の姿は、しばしば熾天使ミカエルのような翼や光輪を背後にまとっている。

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しかし3人目のターゲットである弁護士の悔悟に心を打たれたカサンドラは、彼らを赦し、世界への憎しみを捨てる決意をする。映画はその姿を聖母マリアになぞらえる(背後に畳まれた翼もみえる)。

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III

世界と和解し、小児科医の青年ライアンと恋に落ちたことで、凍り付いていたカサンドラの時間は再び動き出した。しかし、マディソンから渡された暴行現場の動画にライアンの姿を認め、カサンドラはまたも絶望の底に突き落とされてしまう。

このとき流れる音楽は、前に彼女の両親が見ていたテレビで放映されていたチャールズ・ロートン監督『狩人の夜』の劇中歌だ。

Once upon a time there was a pretty fly
He had a pretty wife, this pretty fly
But one day she flew away, flew away

She had two pretty children
But one night these two pretty children
Flew away, flew away, into the sky
Into the moon

『狩人の夜』の殺人鬼パウエル(ロバート・ミッチャム)は、説教師として各地を旅しながら行く先々で殺人を繰り返している。パウエルは、死刑囚が奪った大金の隠し場所を幼い兄妹に教えたことをかぎつけ、子供達の母親と結婚するが、正体を知られ彼女を殺してしまう。親を失った兄妹はパウエルの追跡を逃れるため、ボートに乗って川を下る。このとき妹がくちずさむのが上記の子守歌である。

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復讐に燃えるカサンドラは、世間からみれば殺人鬼パウエルの女性版のようにもみえる。しかしカサンドラにとっては世間のほうこそがパウエルで、彼女とニーナはパウエルから逃亡する子供達(two pretty children)なのだ。

IIII

アル・モンローのバチェラー・パーティに首尾よく潜入したカサンドラは、モンローの両手をベッドに手錠でつなぎ、身体にニーナの名前を刻もうとする(モンローは婚約者の名前をタトゥーにしてプロポーズに成功した)。だがすんでのところでモンローの手錠がはずれ、カサンドラは逆にモンローに殺されてしまう。

ことの成り行きに、多くの観客は期待が裏切られたと感じるだろう。だが、アル・モンローの立場でこの出来事を振り返れば、彼は突然現れたサイコパス女の攻撃から間一髪で身を守ったのである。カサンドラはこの映画の冒頭から、世界と敵対するモンスターだった。モンスターがクライマックスで退治されるのはホラー映画の常道だ。なぜなら、映画を観終わった観客が映画館の出口を出て現実の世界に戻ったとき、その世界にモンスターが生き残っていたら困るのである。

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というわけで、この映画を観終わった後にわれわれが戻る現実は、カサンドラが死に、アル・モンローが生き残った世界だ。とはいえ、この映画をみたわれわれは、カサンドラの言葉に少しは耳を貸すことができるようになっているかも知れない。


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