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この世に必ず従うべき〜するべきは存在しないについての話

おはようございます。僕の中ですごく大切なトピックなのですが、ずっとモヤモヤしていたことに答えが見えた気がしたので記事にしようと思います。

きっかけ

僕はそもそも自分が幸福になるべきなのかどうか?という問いをずっと持っていました。というのも様々な人たちは人間は幸せになるべきという考えを植え付けられており、それに疑う余地を持っていないように思えたからです。なのでその幸せになるべき、という考えを一度疑ってみようと思って考えてみたのですが、自分が幸せになるべき理由というものは見つけることができませんでした。

そこで僕の出した答えは幸せになるべき理由は存在しない、ということです。

これはいろいろな人によって意見が大きく変わってくると思いますが、少なくとも僕はこういう結論を出しました。

「するべき」と「したい」の違い

ここで、一つ〜するべき、と、〜したいの違いについて考えていきたいと思います。

この二つには共通して、何か行動を起こすための原動力になるということです。この二つのどちらかによって人は行動を起こし、結果を得るのだと思います。

しかし、この二つには明確な違いがあります。それは自分の価値観から生まれたものなのか、自分以外の価値観から生まれたものなのか、という違いです。そしてこの違いはすごく重要な意味を持ちます。というのは自分以外の価値観というのはある種の強制力や、洗脳のような意味を持ちます。そして、この〜するべきを自分の意見だと勘違いして、その〜するべきが自分と合わない時に頭の中でパニックを起こしてしまいます。これは問題です。

しかし、もしこれらが自分の中から生まれるWantであれば、こんな自分の中で矛盾が生まれるようなことはありません。常に一貫している必要はなくとも、自分なりに納得できる意見だと思います。こんな違いがあります。

〜するべきは悪?

かといってするべきが完全な悪ではありません。これによって自分を強制し、より厳しい環境でも耐え抜くことができたり、より成長につながるアクションをすることができます。そして先ほど書いたようにするべきには洗脳に近いものがあります。洗脳は人を幸福にするものでもあります、なので完全に悪ではありません。

全ては自由

少し脱線しますが、この世に存在する人は(少なくとも日本で生まれた人は)生まれながらにして完全に自由です。しかし、成長していく中で様々な人の意見を受け入れたり、葛藤をしながら自己を形成していきます。その過程で、親から勉強はするべきものである、というふうに教えられたり、年上の人には敬語を使うべき、などの考え方を身に付けてきました。そしてそれらは自国で生きていくために特化し自国人らしい考え方が定着します。そしてそれは時にはその人を助けることもあると思います。なぜなら自国が居心地がよくなるからです。しかし、これら〜するべきは強制されたものであることを忘れてはいけません、これらは他人の価値観を押し付けられているだけなのです。

そしてそれらの考え方に囚われると人は自由であるにもかかわらず、自分が自由ではないと考えるようになります。そして実際に自由ではなくなります。それはあらゆる強制によって、自分の判断以外のところで縛られた何かが存在しているからです。限りなく可能性があるのに、それらは無い物になってしまいます。そしてこれはもったいないです。

歳をとって過去を思い出した時にやっと自分があらゆる制約を受けていたことに気づきます。これはその頃の自分を制約なしで俯瞰的にみることができるからです。そしてその時になってやっと自由であったことに気づき、後悔することになります。

〜するべきの考えの中に僕が悩んでいた幸せになるべきという考え方が最近は根強い気がします。その根底には生活することに比較的安定が訪れたからです。これはここ数十年の流れだと思います。そしてYoutubeをみていると、楽しいと思えることを仕事にしたい、幸せになるためには楽しいことを仕事にする、という考え方が根深く浸透しているように思います。その価値観はすごく正しいです。しかし、それが全てではないのも事実です。

そしてその「楽しいことを仕事にするべき」や「幸せになるべき」という考え方は時には人を苦しめることがありますし、おそらくほとんどの人がそれが叶わないことで苦しんでいることでしょう。もちろん僕もそのうちの一人です。人を幸せにするための考え方なのですが、その思考によって幸福になっている人はごくわずかで、後のほとんどは何か物足りない思いをしています。満たされません。(それらの背景もありinstagramが流行ったのだと思います)そしてSNSをみてわかるように人と比べる文化が成立してしまいました。これにより、「楽しいことを仕事にするべき」や「幸せになるべき」という考え方はより悪質に人を苦しめていると感じています。考え方自体はすごく正しいのですが、悲しい現実です。

しかし僕の考えはこうです。

人は幸せになるのも不幸になるのも自由です。決して幸せになることを強制されているわけでも、幸せにならなかったら誰かに責められるわけでもありません。なのでまず、自分で幸せになるのか不幸になるのかを決めることができます。しかしほとんどの人はそんな質問には意味がないと言います。これは当たり前のことだと思っているからです。しかし僕が言いたいのは決して幸せになることや好きなことを仕事にすることを強制されているわけではないということです。他の選択肢もこの世には準備されているよ、ということです。

これらからわかるように幸せになるべき、という考え方でさえも考える余地があります、そしてこれらはほとんど洗脳です。洗脳は人の選択肢を奪います。これはいいように働くこともありますが、洗脳は説いていた方がより幸福度が高く自由度の高い人生を歩むことができると思います。

洗脳を説けば、新たなステップがあります、それはその説いた洗脳を再定義するということです。その洗脳が正しいと思うのであれば、また洗脳にかかることをえらばいいし、洗脳から反対の考え方をすることもできます。洗脳を解くことで得られることはその洗脳を選ぶ選択肢ができるということです。これにより全ての選択は自分の意思によるものに変換することができます。

しかし、洗脳を説いた時に一つ感じるはずです。〜するべきがなければ何を信じればいいのかわからない、何に頼ればいいのかわからない、明確な軸がなくなってしまった。

こういう状況になります。それは今まで自分が自分の考えではなく他人の価値観にすがってきた証拠でもあり、自立した証です。そこからやっとスタートだと思います。

「するべき」は「したい」に変換可能

そして、何を信じればいいのかわからなくなった時に頼りになるのがWant、したい、という気持ちです。これは自分の中から生まれます。よって洗脳でも他人から強制されたことでもありません。これがその人にとっての一番重要な意味を持つ意見です。そしてこのしたいという意見を大事にしていけば、何を信じればいいのかわからないがなくなります。

僕は幸せになるべきという考え方がしっくりきませんでしたし、幸せになるべき理由を考えても思いつくことができませんでした、しかしこれで納得が行きました。全ての選択肢には〜するべきは存在しない、しかし〜したいという気持ちは確かに存在するということです。従うべきことはないが、したいことはある。この状況です。そしてそれを幸せになるべきという言葉に当てはめてみました。

幸せになりたい

これが一番ピンときましたし、これが正しいと思います。幸せになるかどうかは自分で考えた上で、幸せになりたいと人は願うもので幸せを望むものです。なので強制されることはありません。

そしてこれは言葉の力なのかどうかはわかりませんが、〜するべきから〜したいに変換した時にちからが湧くような感覚になります。これははっきりと感じ取ることができます。他人から強制されるのが嫌なのは誰でも同じです。自分の意思で判断したいと思っているのは皆同じです、なので、したいには言葉のちからがあるように思います。

するべきは存在しない

少しタイトルと外れてしまいましたが、するべきは存在しません。僕がこの文章で書きたかったことはするべきは全てしたいに変換することができるということです。

例えば

脱ぎ捨てた服が溜まっている、これらを洗わなければいけない

こういう状況があったとしましょう。これは少し強制力のある考え方ですし、いや嫌な雰囲気がぷんぷんします。ではこれはどうでしょう?

その洗濯物を洗えばまた清潔感のある服を着ることが出来る、洗濯物を洗って清潔になりたい。

これからは強制力のようなものは感じません、言葉の力とはこういうものだと思います。そして、なぜか本当にあらいたくなってしまうものです。不思議です。

まとめ

するべきはないという話からそれをしたい、という言葉に変換するというすゝめを書きました。最後のするべきをしたいに変換するというのはおまけみたいなものです。人がいつの間にか受けてきたあらゆる洗脳解き、新しい選択肢があることを知ること、上司にもため口をいう自由が存在するということ。明日会社に行かないという選択肢が存在するということ、今日のつまらない約束を守らなければいけない義務などどこにもないということ。そして好きなことを好きなだけする選択肢もあるということ、アニメをみて終わる人生もこの世には存在するということ、あらゆる選択肢があります。しかしそれらはこの世に存在する〜するべきの考え方を全て捨てた奥にあります。洗脳を解こうと努力するかどうかも人の自由ですし、洗脳に身を任せることも自由です。自分の選択は全て自分の意思によるものだと胸を張って言えるように僕も頑張ります。