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「エモい!」と叫べ!

「この曲、まじでエモいな!」

「あの映画は激エモやから必ず見るべき!」

このように、ここ数年「エモい」という言葉をよく耳にする。

意味は以下の通りだ。

エモい
「エモい」とは「エモーショナルな感じがする」ということであり、「感情に訴えかけて来るものがある」「心が動かされるようだ」「情緒を感じる」「趣がある」「グッとくる」というような説明しがたい感慨を述べる表現である。 (実用日本語表現辞典より)

この「エモい」という言葉には批判もある。あまりにも抽象的な言葉で意味がわからない。使い方や使いどころが人によって変わる。日本語にはもっと適切な言葉がたくさんあるじゃないか。と言った具合だ。

しかし、僕の意見を言わせてもらうと、

僕は「エモい」という言葉がとても好きだ!

今回は「エモい」推進派としての僕の主張を書きたい。


まず初めに「エモい」の推せるポイントを言いたい。

それはズバリ、

心の振動を制限なく表現できるところ


である!

「エモい」にはたくさんの要素が含まれている。嬉しさ、喜び、悲しみ、興奮、かっこよさ、かわいさ、懐かしさ…etc

その感情の種類や言葉の区切りをすっ飛ばしての「エモい!」なのである。

誰しも、「よくわからないけど、すげえ!」「理屈抜きで心が掴まれた!」という感覚を感じたことはあるだろう。

上の意味の説明でもあるように「グッとくる」感覚である。

人間はそのような感覚によくなることを古語や外国語が証明している。

「エモい」は平安時代の「いとをかし」であり、英語の「WOW!」なのである。


このように心の振動をそのまま表す言葉は古今東西に存在するのだ。それなのになぜ「エモい」だけが新しい言葉というだけで批判されなければいけないのか。

少し考えてみよう。

心にグッとくることを「エモい」というなら、味覚にグッとくることは「美味い」だと思う。

例えば、あなたは美味しいカレーを食べたときに一言目で「美味い!」というはずだ。

一言目から「甘みと辛味が絶妙にマッチしてる!」とは言わないだろう。

イメージしていただけるだろうか。この直で感動が口をついて出る感覚。

理性や思考をすっ飛ばして、心が動くときに発する波が言葉として放出される感覚を。

「エモい」という言葉にはこのような尊さがあると僕は思っている。


そもそも、言葉で心の様相を100%捉えることはできないと僕は思う。

例えば、映画を一本見たとする。

なんとも言えない感動が身体を包んだあと、「あの映画どうだった?」と聞かれればたいがい感じたことを手持ちの言葉で一生懸命表現しようとするだろう。

しかし、このとき「絶対俺の伝えたいこと全部伝わったわぁ〜」と思えることはあるだろうか。

おそらくそんなことはできないと思う。

感情を言葉で表そうとしても、

言葉は、その言葉が持つ意味以外の部分を削ぎ落としてしまう。


これは言葉が現象を切り取るために生まれたという性質上どうしようもないことだ。

そして、言葉には主観が大きく関わる。

「主人公がかっこよくて、アクションが激しくて、心温まる家族愛の映画だった。」

といっても、かっこいい、激しい、心温まるのイメージは人それぞれで絶対に同じものをイメージすることはできないだろう。


そんな部分的で主観的な言葉で感情を表すより、その心に起きた振動自体をもっともっと大切にすべきだ。

言葉にできない感情こそ本物で、尊いものだと思う。


だから、

心が動いたら「エモい!」ってまず叫ぼうよ!


そしたら、その振動は共鳴して人とのつながりを生む。言葉はなくとも分かり合える。理性や思考をすっ飛ばして、心と心が触れ合う。「エモい」はそんな可能性を持った言葉だと思う。

細かい話はそれからにしよう。


エモさをシェアする時代に生まれた僕らだから。











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