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「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を今、観るということ

0 「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を観るまで、観てから

2021年6月19日に「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」(以下単に「劇場版」といいます。)を観ました。(ヘッダーの画像は、その勢いでかの東京タワーそばの公園まで行ってきた時に撮ったものです。)
遡って6月8日、この日から初めてテレビアニメ版「少女☆​歌劇 レヴュースタァライト」を観始めました。GYAOで無料配信が翌々日10日の23時59分までということで、慌てて。
一周(した後に、あまりの衝撃でなぜかもう一度第1話を再生してしまったんですが)ののち、6月14日再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」を鑑賞。
そして、冒頭のとおり劇場版の鑑賞に至ります。

更に言うと、6月20日には「映画大好きポンポさん」を観た後に、劇場版の2回目を観まして、6月27日には劇場版の3回目を観ました。
(同じ映画を映画館で2日連続で見たのは、「天気の子」に続き2例目でした。ちなみに「天気の子」の3回目は1回目の2週間後だったので、結果的にそれより短いスパンになりました。)

さて、その観てからというもの、自分のあまりの読み取れなさにすっかり辟易するばかりで(きらめきがまばゆすぎて、とかいう言い訳はあるんですが)、何も考えられないくらい打ちのめされるだけでも気持ち良いけれど、こんなに良いものをそれだけで終わらせて本当に良いのかという感情に強く押されて、あれこれと考えていた中で思い浮かんだのが標記の件でした。
(当たり前っぽいことを解説めいて回りくどく書くのも何なのですが、頭の中の整理ということで。以降、ネタバレが含まれます。)

1 キリンの”まにまに”

劇場版初見の際、私が最初に「おっ?」と思ったのは、キリンのまにまにのシーン(ここ)でした。

予告編で見た時(厳密に言うとここではまにまに言っていませんが)このシーンはある程度後半に来るものだとぼんやり思っていた(YouTubeのコメント欄にも同意見がありびっくりした)のですが、御承知のとおり、タイトルロゴより前の初っ端にありました。
なぜ「ある程度後半に来るものだ」と思ったのか考えると、言うなればキリンが見逃すまいとする「ここぞ」というシーンの前に配置されるものだと捉えたのだろうと思います。

そのキリンが、”まにまに”の後に言ったのが「もう終わってしまったのか。私は見逃してしまったのか。いや違う、開演したのだ、今!」です。

ここから、(やはり見逃すまいとしての動作ではあったのですが、)それは特に個別のシーンが、ということではなく、この劇場版の本編そのものについて言っていたのか、と受けとめました。

2 2019年と、それまでの年月と、「今」

本作には、大別すると3つの時点があると捉えています。

1つ目は、タイトルロゴの後に始まる、99期生が3年生の2019年
2つ目は、2019年に至るまで、愛城華恋の経過をたどる年月
以上がいわゆる「劇場版の本編」です。
このうち、劇場版の本編の中でいう「今」、いわば基準点は1つ目の2019年で、それは執拗に出てくるテロップが2019年を基点として「○年前」としていることにも表れています。
(幼い頃の華恋とひかりが「スタァライト」を観に行った2006年が「13年前」、「青空の向こう」を演じた2013年(小6)が「6年前」、修学旅行の打合せからボイトレに向かうのが「3年前」、そして神楽ひかりが再び目の前に帰ってきたのが「1年前」でした。)

そのテロップの時点が唯一違うのが、エンドロールの後、最後の華恋がオーディションを受けているシーンで出る「本日、今 この時」です。
この時点こそ、最後の3つ目、演じられている「今」です。

この分類について、キリンの冒頭の台詞に乗っかってみると。
「今」から見れば、劇場版の世界は「もう終わってしまった」光景。
それでも、劇場版の本編は今から始まる。

終わってしまった世界の再演が始まるとも。(ということで良いんだろうか。)

3 ワイドスクリーン・バロックとは

(ひかりがキリンに「何よ、ワイルドスクリーン・バロックって」(大意)って聞いたのが(答えが返ってこなくても)それだけでスッキリしたという感想を聞いて、確かにそうだなと思ったのを書きながら思い出しました。)

「ワイドスクリーン・バロック」については定義があってないようなもののようですが、初出の時点では「それは時間と空間を手球に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。」という性質を指していたものと理解しています。(ワイドスクリーン・バロックという言葉を生み出した、複雑怪奇、超絶怒涛の幻の名作SF──『パラドックス・メン』

その性質は、かなり勝手に噛み砕いて有り体に言って良いのなら「破茶滅茶な跳躍」くらいに落ち着けられると思うのですが、そのキーワードに引っ掛けると、本作の動きを以下の3点を整理することができます。

・99期生のそれぞれのレヴューに前触れなく移っていく跳躍。
・劇中の基点である2019年(過去)、華恋の幼少期から中学生までの各エピソード(大過去)(と、演じられている「今」)の間を連続的に次々と行き来していく跳躍。
・劇中の演じられている「今」と観客の時間が、次元を超える形で結びついてくるという跳躍。
(こうして見てみると、本作が「ジェットコースター」と評されるのももっともで。)

ややアイディア先行で、言い切るには強引な持ち込み方だとは思うのですが、こう概観してみると「ワイドスクリーン・バロック」という言葉が飲み下せてくる気がしています。

4 「私たちはもう舞台の上」とは

本来は全然関係ないのですが、ここであの突然泣きじゃくる星見純那の「なんで過去形なのよ」が想起されます。(初めて見た時「これ本当どうするんだよ……」という気分になりました。)

というのは、本作のいわばメインテーマである「私たちはもう舞台の上」についてです。

この言葉の意味するところとして、一つは、愛城華恋を含む9人の舞台少女自身にとっての気づき、警句というのがあり(ここがいまいちしっくり来る表現に落ち着かない)。
もう一つは、観客に対して、舞台少女たちはこの劇場版で描かれる物語を経て、今は「もう」舞台の上にいる、という報告めいた宣言でもあると捉えています。
具体的に時間が2019年という過去にあるということ以上に、もう舞台の上にいる舞台少女たちにとり、そのちょっと前の物語であるところの劇場版。

そう捉えると、めちゃくちゃ喪失感が大きくて辛い。
どうして過去形なのかと泣きたいのはこっちの方。

(冒頭にわざわざ視聴履歴をつらつらと書いたのは、レヴュースタァライトに触れたのがつい1ヶ月前という私からしてみたら、こんな勢いで99期生が卒業していってあまつさえそんなフレーズを掲げられたら、あまりに流れが早すぎて意識が追いつかないという苦しみを、知ってはもらえないだろうかという思いからでした。)

※2021年6月28日・追記
27日の夜中にこれを書いているときに「今」と「2021年」を明確に結びつけていないのは観客への優しさかなあとちょっと思っていたんですが、エンドロールで、冒頭に出てきた1年生(101期生)が99期生をめぐる世界一周旅行に出るひかりを見かけるシーンがあり、そこから流れてラストの華恋のオーディション=「本日、今 この時」に行き着くので、素直に考えると101期生が在学中の2020年か2021年だと捉えるのが自然ですね(更に素直に考えれば結局「今」にリンクする2021年とするのがより自然か。オーディションから2、3年越しに神楽ひかりが再会するの、胸に来るものがある。)。
そうすると、やっぱり輪をかけて、もう今、劇場に足を運ぶ(運んでもらう)しかないという気持ちが強まります……

5 そのほかに細々と気になったこと(現時点版)

・何度見てもトマトが弾け飛ぶシーンでびっくりする。
・タイトルロゴ前の星摘みの塔、降りるとはいえ爆破解体する勢いにちょっと面白くなるのと、あのシーンだけテイスト(なんだろう、画角?)が違うのが不思議(巷間言われているエヴァっぽさが劇場版で一番出ているのここな気がするんですよね。)。
・お互いのカスタネットを叩いて力を合わせてリズムをとっていく幼少期の華恋たちを見せた後に、気持ち良いくらい裏拍を決めてくる大場ななを見せるの非常に意地が悪いけど、悔しいくらい格好良い。
・「天気の子」で雨が降っている東京に性癖が捻じ曲げられてしまったので、雨が降っている映像が出るたびにちょっとわくわくしていて気づかなかったんですが、下記ツイートのとおり、確かに華恋の前に「神楽ひかり」がいないところではずっと雨だったような気がしてきました。また観に行かないといけなくなった。)

・「セクシー本堂」への足がかりとしてわざわざ「本堂拝観受付」の旗を出している丁寧さ。
・「MEDAL SUZDAL PANIC◎○●」に「舞台少女心得」が潜んでいるなるコメントを聞いてから見て、華恋が脱線後に東京タワーへ歩いていくシーンで「スタァライト」のメロディが聞こえた気がするんですが、その感触しか残っていない。
(というか「恋の魔球」に続いて「MEDAL SUZDAL PANIC◎○●」と露崎まひるの曲がどストレートで好みすぎる。)
・最後の「スタァライトしちゃいます!」の後に電車の走行音がするところで心臓がぎゅっとなる。「本日 今、このとき」も引き続き走り続けている……
(あとはもう記憶がおぼろげになってきて「すごかった」以外の感触が残っていない。)

6 映画大好きポンポさんが今やっているということ

上で書いたとおり、2回目を見る直前に「映画大好きポンポさん」を観たのですが、この2作が同じ時期にやっている社会は怖い。

何かを残すことは、それ以外を犠牲にすることなんだ」という台詞(予告編から拝借)のニュアンスは劇場版でまさに見たなあと思ってしまいました。
そのアプローチの仕方、そもそも「映画」と「舞台」という似て非なる(似てるのか?)素材を扱う点などで、そのニュアンスの表れ方もまるで違った形にはなってはいますが。
(文化芸術の世界で共通して、情熱の裏返しの危機感みたいなものが広がっているのかなとも思ったり。)

(ちなみにこれはいよいよスタァライトの話から外れるのですが、)映画大好きポンポさんのエンディングで、スタッフロールと一緒に流れるアフターエピソードの画像が、一枚ごとに十分な尺をとってくれていて、一度視聴しただけでも混乱なく見られたのが結構嬉しかったです。
(それこそ劇場版は、もう一緒に流れる画像の威力が強すぎて、音楽もスタッフロールも半ば頭に入ってこなかったというのが正直なところで(それはそれで凄く良いのですが)、それがあって余計に思ったのかもしれません。)


とりあえず、書きたいことが多少は形になった気がします。おやすみなさい。

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