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【追悼】 シネイド・オコナーが乗り越えられなかった孤独、そして音楽業界に蔓延る偽善

2023年7月26日にシネイド・オコナーが亡くなった。8月19日時点でも死因は明らかにされていないが、状況から自死なことは確実と思う。
筆者は長年彼女の音楽のファンであったことは勿論のこと、カート・コベインやモリッシーと同様、耳障りのいい言葉の羅列ではなく真実を語り発信できる人間として彼女の生き方を模範としていたところがあり、難局において信念を貫く上での心の支えにもしてきた。今は脱力感と共に、膨大に残された彼女の音源や動画を漁る日々を過ごすのみである。

シネイドの死は、直接的には2022年1月に自殺未遂歴がある3番目の子供Shaneが施設を抜け出し、遺体として発見されたことが原因だろう。その後、彼女はSNS上で繰り返し悲痛な感情を吐露しており、唯一の生きる望みが失われたことを嘆いていた。死去する数日前にも下記のようなツイートをしており、立ち直れていない様子が伝わってくる。

” 以来、死なずの夜の生物として生きています。 。彼は私の人生最愛の人であり、私の魂の灯でした。私たちは二つに分かれた一つの魂でした。彼は私を無条件に愛してくれた唯一の人間でした。彼のいない中有 (仏教用語で現世と来世の中間)で私は彷徨っています。” (翻訳・括弧書き注釈は筆者)

実はシネイドが最終的に死を選んだこと自体には違和感がない。過去に何度も自殺未遂を起こしたり、SNS上で書置きをしたまま行方不明になったりといったことを繰り返してきたからだ。それは複数いる元パートナーやShane以外の子供から見捨てられ、見向きもしてくれない、というのがシネイドの主な言い分だった。何度も自殺未遂や行方不明になることで家族の注意を引きたかったのかもしれない。ここで非常に残念に思うのは、シネイドの心の支えになることができた人物は、状況的には決して子供のShaneだけではなかったのではないか、ということ。死の直前までニューアルバムを一緒に制作していたデビッド・ホルムズや、二人のマネージャー、その他多くのファンなど、常にサポーターに囲まれていたはずで、心の支えを求めようとすれば、それができた環境にいたのではないか。その自覚の有無に関わらず、シネイドは家族から愛されるという至上命題からは逃げられなかった。過去に4度も結婚歴があり、それぞれの子供を設けていたことからも想像に難くなく、生きるためには常に近親者から愛される必要があったのではないかと想像する。何度も自作曲のテーマになっている母親からの虐待など、育ちも影響してるのかもしれない。母親からの愛を求めながらも、その母親を交通事故で失ってしまったことで、家族から愛されることが音楽よりも大きな人生の目的となっていたのではないか。

もうひとつ残念なのは、シネイドがプライベートでの孤独の吐口をアートに求め、昇華させ続けることをこと諦めてしまったこと。同じく息子の死後にかえって作品発表のペースが早まり、いつまでも息子の死をテーマに作品を発表しているニック・ケイブとは対照的である。こんなにも音楽に愛された人が、最終的に音楽によって救われなかったことが非常に悲しい。
あと一曲のレコーディングを残すのみで発表延期となっていたと伝えられるニューアルバムの完成とツアー直前に、プロモーションのルーティンが嫌になってしまったのかもしれない。実際にニューアルバムの発表が元々予定されていた2021年に、これを理由に引退表明をしている。(後日撤回)。
今となってはデビッド・ホルムズと作っていたそのアルバムが陽の目を見ることを祈るのみである。

最後に、有名アーティストの訃報が世界を駆け巡った際にどうしても拭いきれない違和感がある。それはメディア・ライター・同業アーティストたちが、こぞって亡くなったアーティストの冥福を祈り、美辞麗句と共にアーティストが残した作品の再評価を始めることだ。シネイドの生前、SNSで痛々しい発信をして救いを求めていた際に見向きもしなかったのに、これ以上の偽善があるだろうか。
特にマイリー・サイラスは許せない。彼女は数年前シネイドへの憧れを口にし、その回答としてシネイドが実の子に宛てたかのような心の籠もった警告(音楽業界に踊らされて過度に裸を露出することを戒める内容)を発信した際、シネイドの過去の精神疾患を嘲笑うような対応をして反発した。その後シネイドはマイリーのファンから「早く自殺しろ」などの罵詈雑言を浴びせられることになる。そんな経緯があったにも関わらず、シネイドの死後にはステージ上でシネイドを有名にした曲Nothing Compares to Youをカバーをインスタグラム上にポストし、追悼するフリをしている。これは若さゆえの過ちというよりも、持って生まれたパーソナリティではないか。なんという偽善だろう。

今回、自分のその違和感を適切に言語化してくれたのは、他でもないモリッシーだった。シネイドやモリッシーのような人間がこの世からいなくなれば、これから何を心の支えに生きていけばいいのだろうか。
彼のホームページ上に載せられた言葉を引用してこの記事の締めとしたい。

彼女(シネイド)が提供できるのは『(彼女)自身』だけだった。 レーベルが700万枚のアルバムを売り上げた後、レーベルから解雇された。 彼女は確かに気が触れたかもしれないが、興醒めになることはなかった、決して。 彼女は何も悪いことはしてこなかった。 彼女には気高きか弱さがあった…また、音楽業界には「適合」しないシンガーたちに対するある種のヘイトがあり(これは私もよく知っている)、彼ら(シンガーたち)は最終的に死に至り反論することができなくなるまで、決して賞賛されることはない。 名声という残酷なベビーサークル(playpen)は今日、「アイコン」と「レジェンド」という相変わらず愚かなラベルと共にシネイドへの賞賛で溢れている… お前たちが今彼女を褒めているのは、もう手遅れになってしまったからにすぎない。 彼女が生前お前たちを求めていたとき、お前たちには彼女をサポートする気概はなかった。 (翻訳は筆者。原文は以下から引用。https://www.morrisseycentral.com/messagesfrommorrissey/page/2 )






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