波乱の人生〜子供と共に〜

沖縄浮気の翌月、私は北の大地へ戻っていた。
傷心より安堵の気持ちでいっぱいだった。これで安心して子育てができる。
私が私で居られる。広い大地とどこまでも続く空を見て、心の底からホッとしたのを覚えてる。やっぱりこの大地が大好きだ。

年子の子育てを実家で始めて数ヶ月もしない内に、娘の毎晩の夜泣きが始まった。それは必ず1時間続いた。
息子が寝そうになっている時に夜泣きが始まると、頭の中で何かが切れる音が聞こえる程キレた。
夜泣きの娘を抱いて、息子を寝かせておけば泣いてもその内勝手に寝るというのが今になれば分かる事だが、あと1分もしない内に寝そうになっている息子をベッドへ置くという選択肢は当時の私には無く、とにかくあとちょっと。ほんの数分でいい、静かにしてて。という切なる願いも虚しく娘の夜泣きに私が泣かされていた。
1時間コースの夜泣きは3歳になるまで毎晩続いた。

上記の様な事が続いたので、私の精神的健康を優先する事にした。
大人しい息子を1階で寝ている母と寝かせ、私は夜泣き娘と2階で寝た。
それから母は息子の乳母となり、仕事から帰宅した父親の様に息子の離乳食を食べさせたりミルクを飲ませたり、分担育児が始った。

夜泣き娘は、私の精神状態をそのまま体現している様な子だった。
当時の私はそんな事認めないだろうけど、時が経った今の私が思うに、娘の育児に手がかかったのは、新米母の私が不安で押し潰されそうになっていたからだ。
それを認めてしまうと一人で立っていられなくなるのが分かっていたので
「大丈夫。大丈夫。私の選択は間違っていない。責任は私が持つ!」と、
子供と接する全ての瞬間で呪文の様に唱えていた気がする。

実家暮らしだったが、当時は母を反面教師にしていた為、育児に口出しされる度喧嘩になっていた。私の育児を頑張りを認める様な言葉は一つも聞こえてこなかったのも、私を苦しめる原因の一つだった。

子供を育てるなんて、24歳の娘が自信を持って出来る訳が無く、出来なくて当然なのに
スパーで、公園で、お散歩の途中で、レストランで、世間の目が刺さる様に痛かった。

私を責めるなら責めればいい。
でも、この子は悪くない。悪い子じゃなんです!ちゃんと理由がある!と、叫びたかった。
子育てに疲れ始めていた頃、娘は幼稚園に入る年齢になっていた。
子供同士の世界は発達に於いて重要と思っていたので、どうにか、娘の良さを分かってくれる幼稚園を見つけたいと、毎晩子供が寝てからPCに向かっていた。

翌年4月、娘は幼稚園に入園した。
自宅から車で15分という近場に探していた幼稚園があったのだ。
そこでの4年間(息子も同園に通ったので通算4年)は、子供たちと私の成長に大きな気づきと成長をもたらしてくれた。

ここで私は心を平穏に保つ事ができる様になるが、まだ、強がる自分がどこかに居た。
”父親が居ない”家庭というのがそうさせる要因の一つだった。
全ては私の固定概念が起こした幻想に過ぎないのだが、”私”から見える世界は、両親が揃った家族が眩しくて直視できなかった。

娘が幼稚園に入った事で別居の長期化が決まり、マンションへ引っ越した。晴れて実家を出ることが出来て、私も両親にも笑 やっと平穏な日常が戻った。

モラハラ夫は3〜4ヶ月に1週間程こちらに来ては、子供孝行なのか、父親としての懺悔なのか分からないが、ホテルに泊まり観光地や子供の好きそうな遊ぶ場所へ連れて行くツアーをしていた。

この1週間、モラハラふ夫が大声で怒鳴り散らさない様、お店の人にクレームをつけている所を子供達に見せない様、細心の注意を払っていた私は常に気を張っていたし、気を遣っていた。

春から夏に変わる頃、私は原因不明の咳が2ヶ月も続いていた。体調は良いので病院へ行く様な事ではないと感じ、当時mixiをやっていたのでそこに体調の事を投稿すると、それを見た友人がある人を紹介してくれた。

その人はタロット占いをする男子の占い師だった、、、胡散臭い。

私はその時まで、占いとか全く信じておらず、そういうのを信じている人を軽蔑さえしていた。
他人の言葉に踊らされて、右往左往する様がアホらしく見えていたのだ。
しかし、今まで経験した事の無い体の異変を、説明のつかない何かが起きているとどこかで分かっていたのだろう。私は胡散臭い占い師に会う事にした。

彼に会った時の事を今も鮮明に覚えている。
顔がいいとか、体型がとか、タイプとか全くそう言うものと関係ないところで私の心というか魂が喜んでいた。
自分の感情が理解できないまま時間になった。占い師の話は殆ど覚えていないが、嬉しくて嬉しくて、終始自然と笑みが溢れていた。


波乱の人生〜修行時代①〜

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