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【百年ニュース】1921(大正10)11月9日(水) 東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)第7代校長に茨木清次郎(45)が就任。茨城は石川県出身で東京帝大英文科卒,英国留学を経て文部官僚となった。東京音楽学校,東京外国語学校,旧制松本高校の校長を歴任。1923(大正12)関東大震災では校舎焼失を乗り切る。

東京女子高等師範学校の第7代校長に茨木清次郎いばらき せいじろう(45)が就任が就任しました。東京女高師は現在のお茶の水女子大学です。

茨木清次郎は1879(明治9)年8月19日に石川県士族茨木操の次男として生まれました。東京女高師の校長就任時は45歳でした。自身は東京帝国大学英文科で学びましたが、そのときの英語講師は小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)でありました。1899(明治32)年に帝大を卒業すると、ふるさとの旧制第四高等学校(現在の金沢大学)の教授となりました。1907(明治40)年に家督を相続します。

のちイギリス留学を経験し文部官僚および教育者として順調に出世します。東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)、旧制松本高校(現在の信州大学)の校長を歴任したのち、東京女高師の校長に就任しました。

茨木の妻は幕末の加賀藩家老でわずか32歳で尊攘派に暗殺された本多政均まさちかの孫にあたる本多良です。茨木には5人の娘がいました。長女光が金沢第一高等女学校に進みましたが、次女延、三女秀が父が校長をつとめる東京女高師に進みました。また校長就任のこの年4月に誕生した四女美和ものち東京女高師に進みました。

茨木は1927(昭和2)年までの6年間、東京女高師の校長をつとめましたが、在任中の1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では校舎が焼失する被害に見舞われました。しかし地震の翌日には上野の東京音楽学校に仮事務所設置を設置し、翌月は青山の東京府女子師範学校(現在の東京学芸大学)内に移転のうえ、仮教場および仮寄宿舎も設置し学校運営を続けました。そして翌年には御茶ノ水に仮校舎が建設され同地に復帰しました。

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