【百年ニュース】1921(大正10)11月22日(火) 横須賀海軍工廠で建造された最新鋭戦艦「陸奥」が海軍に引き渡された。長門型戦艦の2番艦。引渡式が開催され佐世保鎮守府に入籍した。当時ワシントンで開催中の海軍軍縮会議で廃艦とされるのを避けるため半完成のまま引き渡された。
横須賀海軍工廠で建造された日本海軍の最新鋭戦艦「陸奥」が海軍に引き渡されました。引渡式が開催され佐世保鎮守府に入籍しました。
陸奥は当時最大であった長門型戦艦の2番艦になります。日露戦争後の1907(明治40)年にアメリカ海軍を仮想敵国として構想された八八艦隊計画の最初の2隻がこの長門型の2戦艦でした。予算的な裏付けとして帝国議会は、1916(大正5)年の八四艦隊、1918(大正7)年の八六艦隊、1920(大正9)年の八八艦隊と拡充をしていきました。
しかし当時の日本政府全体の歳出規模がわずか15億円であったことを考えると、膨大な艦隊建造費用はもちろん、整備後の年間維持費用だけで6億円が必要と見積もられていたことから、現代から振り返ると到底実現不可能な計画案であったと考えられています。
第一次世界大戦終結後の世界的な軍備縮小世論の高まりにより、100年前の1921(大正10)年11月11日から米国ハーディング大統領の呼び掛けでワシントンにおいて海軍軍縮会議が開催されました。海軍軍縮の最初の条件は、この会議開催までに完成していない艦船は廃艦にするというものでした。そして未完成艦のリストが作成されましたが、そこで議題になったのが「陸奥」です。
「陸奥」は1917(大正6)年7月31日、すなわちワシントン軍縮会議開催の4年前に発注された戦艦で、1918(大正7)年6月1日に起工、進水したのは1920(大正9)年5月31日でした。進水というのは船の本体が完成したあとに水に浮かべることで、通常は進水式が行われ華やかに新造船の誕生を祝いますが、実はその状態ではただ水に浮かんだだけで、エンジンなど船を機能させるための装置や設備は取り付けられていません。つまり未完成な状態です。
進水以降完成するまでには艤装という工程が待っています。原動機のほか、兵器の装備すなわち兵装もこの段階で行われます。陸奥はワシントン会議が始まった11月上旬にはこの作業が完了していませんでした。備品が間に合わず、装甲板さえも一部は不良品をそのまま使用せざるを得ない状況でした。しかし11月上旬からのワシントン軍縮会議では未完成艦は廃艦という条件ですので、それを避けるため書類上では10月24日に完成とし、公式試験も省略し、100年前の今日、11月22日に未完成なまま海軍に引き渡しとなりました。
ところが事実は引き続き横須賀で艤装が続いていました。陸奥に第三分隊長として着任した大西新蔵(のちの海軍中将、当時は大尉)はのちの回想で、12月5日の時点でもまだ完成度は85%程度だったと述べています。
結局英米との交渉の末、日本が長門と陸奥の2隻保有を認める見返りに、英国は2隻の大型戦艦の新造が認められ、米国は3隻の建設続行が認められることとなりました。これで16インチ砲を搭載した大型艦は世界に7隻となり、当面はビッグ7(世界の七大戦艦)と呼ばれる英米日のバランスが維持されることとなりました。
ワシントン軍縮会議の結果、主力艦の排水量合計は、英国と米国がそれぞれ50万トン、日本が30万トンとなりました。いわゆる5:5:3の比率です。日本の海軍は対米7割を主張しましたが認められませんでした。この比率のみをもって、このワシントン海軍軍縮条約が日本に不利な条約であるという誤った認識が生まれ、現在でもそのように考える人がいます。しかしそれは間違いです。
先述の通り日本財政の限界があり、また条約締結の翌年には関東大震災が発生、さらに財政がひっ迫します。一方で米国の1920年代は未曽有の好景気でした。自由な建艦競争が続いていた際に日米の戦力差は5:3以上の開きが生まれたことは確実です。
また条約自体は、英国海軍のラッセル・グレンフェル大佐が最も利益を得た日本と、最も犠牲を払った英国と評した通り、日本にとっては大変犠牲の少ないものでした。日本はほぼ建造済だった長門と陸奥の保有が認められ、廃棄した戦艦は速度や武装で最も劣っていた「摂津」1隻でした。一方英国は建造中だった超ド級戦艦、すなわちドレッドノート以上の最新鋭艦4隻、すなわちサンダラー、キング・ジョージ5世、センチュリオン、エイジャックスを廃棄したのです。米国もデラウェア、ノースダコタの2隻を廃棄しました。
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