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【百年ニュース】1921(大正10)6月14日(火) 蒋介石の母,王采玉が死去,享年59。1895夫の蒋肇聡が死去すると,家業の製塩業で子供たちを育てた。広東政府の要人となっていた蒋介石(33)は渓口鎮で母の葬儀を盛大に行い,母を記念し生地に武嶺小学校を建設。墓碑銘には孫文が揮毫。胡漢民や汪兆銘も碑文記す。

蒋介石の母,王采玉が死去しました。享年59でした。王采玉は1864年、実業家で大地主の王有則の長女として生まれました。現在は浙江省紹興市に含まれている嵊州じょうしゅうの出身です。20歳のとき、当時44歳だった製塩業の実業家、蒋肇聡しょう・ちょうそうと結婚し、長男の蒋介石を生みました。

1895年夫の蒋肇聡しょう・ちょうそうが死去すると,家業の製塩業を経営するかたわら、子供たちを育てました。100年前のこの当時、広東政府の要人となっていた33歳の蒋介石は渓口鎮で母の葬儀を盛大に行い,母を記念して生地に武嶺小学校を建設。墓碑銘には孫文が揮毫し、広東政府の胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。

先日5日前になりあますが、6月9日の放送で、ウィンストン・チャーチルの母親レディ・ランドルフ・チャーチルが亡くなったというお話をしました。第二次世界大戦の連合国側の指導者であった蒋介石とウィンストン・チャーチルの母親が同じ年の6月、わずか5日違いで亡くなっているのは不思議な偶然です。

なお、連合国が戦後の対日方針を決定づけた1943年11月のカイロ会談の三人のうちもう一人、すなわちフランクリン・ルーズベルトは当時39歳、ニューヨーク州の第44代州知事を務めていました。フランクリンの母、サラ・ルーズベルトはニューヨークで健在でした。サラが亡くなるのは1941年9月7日、日本の真珠湾攻撃で太平洋先生が始まるちょうど3か月前でした。

カイロ会談の三人の年齢を確認すると、ウィンストン・チャーチルは1874年生まれ、フランクリン・ルーズベルトは1882年生まれ、蒋介石は1887年生まれで最も若い指導者でした。

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蒋介石は満州事変後,日本を国際連盟に提訴。日本を連盟脱退に追い込む。日米が開戦し日本が敗北すれば満州はいずれ中国に戻ってくるので,蒋は日本と全面的な軍事衝突を起こしてまで満州を奪還する必要はないと考えた。

家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』岩波書店,2012


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