【百年ニュース】1921(大正10)10月20日(木) 伊藤燁子(柳原白蓮)失踪。福岡に帰る夫伊藤伝右衛門を東京駅で見送ると,白蓮はそのまま宮崎龍介の宿に向かった。2日後に朝日新聞に失踪を伝えるスクープ記事が出て,次いで翌日には公開絶縁状が掲載され世間にセンセーションを起こす。
夫伊藤伝右衛門とともに福岡から上京していた伊藤燁子(柳原白蓮)が突如失踪しました。燁子は福岡に帰る夫の伊藤伝右衛門を東京駅で見送ると、そのまま愛人である宮崎龍介の宿に向いました。
二日後に朝日新聞に失踪を伝えるスクープ記事が出て、次いで翌日には前代未聞の公開絶縁状が新聞に掲載され世間にセンセーションを巻き起こしました。これは宮崎龍介と白蓮が姦通罪を逃れるため、マスコミを利用して正当性を訴えて世論を味方につけて伝右衛門に対抗しようとした作戦でした。
福岡に戻る途中の京都で新聞報道を見て伝右衛門は驚愕することとなります。朝刊の失踪報道に続き夕刊で公開絶縁状が掲載され、また女性の人権問題であるとして多くの投書が新聞に寄せられていることを知り、終始守勢に立たされることとなりました。
大阪朝日新聞に掲載された白蓮の絶縁状
1921(大正10)年10月22日付
私は今あなたの妻として最後の手紙を差し上げます。今私がこの手紙を差し上げるということはあなたにとっては突然であるかも知れませんが、私としては当然の結果にほかならないのでございます。あなたと私との結婚当初から今日までを回顧して、私はいま最善の理性と勇気との命ずるところに従ってこの道をとるに至ったのでございます。
御承知の通り結婚当初からあなたと私との間には全く愛と理解とを欠いていました。この因習的な結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解と、そして私の弱小の結果でございました。しかし私は愚かにもこの結婚を有意義ならしめ、出来る限り愛と力とをこのうちに見出していきたいと期待し、かつ努力しようと決意しました。
私が儚ない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますが、そのあいだの私の生活はただやるせない涙をもっておおわれまして、私の期待はすべて裏切られ、私の努力はすべて水泡に帰しました。あなたの家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませぬが、あなたに仕えている多くの女性のなかにはあなたとの間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもありました。あなたの家庭で主婦の実権を全くほかの女性に奪われていたこともありました。それもあなたの御意思であったことはもちろんです。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態においてあなたと私との間に真の愛や理解のありようはずがありませぬ。私がこれらのことにつきしばしば漏らした不平や反抗に対して、あなたはあるいは離別するとか里方に預けるとか申されました。実に冷酷な態度をとられたことをお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても常にあなたの愛はなく、したがって妻としての値を認められない、私がどんなに頼り少なく寂しい日々を送ったかはよもやご承知なきはずはないと存じます。
私はおりおりわが身の不幸を儚なんで死を考えたこともありました。しかし私は出来得る限り苦悩と憂愁とをおさえて今日まで参りました。その不遇なる運命を慰むるものはただ歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだ不遇とこの不遇から受けた痛手のために、私の生涯はしょせん暗い暮らしのうちに終わるものだとあきらめたこともありました。しかし幸いにして私にはひとりの愛する人が与えられ、そして私はその愛によって今復活しようとしておるのであります。このままにしておいてはあなたに対して罪ならぬ罪を犯すことになることを恐れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時期に臨みました。すなわち虚偽を去り真実に就くときが参りました。よってこの手紙により私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久のわかれを告げます。私は私の個性の自由と尊貴を守り、かつ培うためにあなたの許を離れます。長い間私を御養育くださった御配慮に対しては厚く御礼を申し上げます。
(二伸)
私の宝石類を書留郵便で返送いたします。衣類等は照山支配人への手紙に同封しました目録通り、すべてそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印はお送りいたしませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためにはいつでも捺印いたします。
二十一日
伊藤伝右衛門様
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