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【百年ニュース】1921(大正10)11月17日(木) 皇太子裕仁親王が陸軍特別大演習視察で日野に。日野駅からは乗馬で野戦演習場に向かう。午後は八王子で戦況視察。陸軍特別大演習は天皇統監の軍事演習で例年秋に4日間開催された。2個以上の師団が対抗。1892(明治25)から1936(昭和11)まで計34回開催された。

皇太子裕仁親王が陸軍特別大演習視察のため日野と八王子に現れました。

陸軍特別大演習とは天皇統監のもと行われた陸軍の軍事演習です。例年秋に4日間の日程で開催されました。2個以上の師団が対抗する大規模なもので国民の関心も高いものがありました。1892(明治25)年に第一回が開催され、日中全面戦争が勃発する前年1936(昭和11)まで合計で34回開催されたました。

1921(大正10)年の陸軍特別大演習は東京・神奈川・埼玉で行われました。東京および横浜の2つの大都市を含む地域での大演習は初めてでした。日程は11月17日から20日で、両軍の決戦は最終日の11月19日深夜から20日早朝にかけて、多摩川をはさんで展開されました。

特別大演習は通常の演習と違い、大元帥である天皇が統監するものとされていましたが、同年の大演習は大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が初めて統監を行いました。半年間の欧州歴訪を終えた20歳の若き皇太子は国民的人気が高く大いに注目されました。

なお今回の特別大演習の司令官は、東軍が陸軍大将大井成元おおいしげもと、西軍が陸軍中将梨本宮守正王なしもとのみやもりまさおうでした。

東軍は房総および常盤地方を根拠とし、足利・深谷・秩父の線に陣地を構え、一方の西軍は新潟の直江津方面から前進し、小鹿野・本庄・桐生の線にあって攻撃準備中との想定でした。

そして清水港付近に上陸し、甲州街道方面および東海道方面より東京の攻略を試みる西軍第四軍と、東京付近に結集してこれを防御しようとする東軍第三軍とのあいだの戦いが今回の演習となりました。

東軍の兵力は近衛師団、第一師団、独立歩兵聯隊、騎兵集団(第一旅団、第二旅団)、野砲第一旅団、独立重砲聯隊、独立重砲中隊、野戦高射砲、航空第二大隊、独立気球中隊、野戦電燈、軍電話隊、軍無線電信隊、軍自動車班、鳩通信班。さらに航空隊戦力としての戦闘中隊(スパッド10機)、爆撃偵察中隊(サルムソン10機)、偵察中隊(モ式8機)が加わり、総勢は2万2,909人、馬匹5,662頭でした。

西軍の兵力は、第三師団、第十三師団、第十四師団、独立重砲兵聯隊、独立重砲兵大隊、航空第四大隊、軍電話隊、軍無線電信隊。さらに航空隊戦力として、戦闘中隊(ニューポール10機)、爆撃偵察中隊(サルムソン10機)、偵察中隊(モ式10機)、独立空中隊(コードロン3機、エフ六十号)が加わり、総勢は2万5,711人、馬匹3,981頭でした。

この日の東軍は沼津方面より進軍中の西軍主力を騎兵集団によって拒止するとともに、甲州街道方面より進軍の敵をまずせん滅するため、軍主力を八王子・橋本方面に進軍させ、14:00頃、日野西方台地に展開中の西軍第十四師団に対して攻撃を開始、これを八王子以西に退却させました。一方この日の西軍主力は、東海道方面を東に進み、東軍騎兵集団を伊勢原方面に退却させて、大磯、寺坂および善波峠ぜんばとうげ付近の線に停止させました。東軍は反撃のため軍主力をもって伊勢原方面に集結させます。

さて皇太子裕仁親王はこの日、10:00に乗馬にて大本営の神奈川県庁(横浜)を出発、横浜駅から臨時列車で正午に日野駅に到着し、ただちに乗馬で日野御野立場おのだてしょに進みました。参謀総長の上原勇作から演習経過に関する言上を聞きつつ演習を統監しました。15:15乗馬で八王子の大和田御野立場に向かい、17:50大本営の神奈川県庁に帰還しました。

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