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【Voicy】#ゆる解説 漢冶萍公司、辛亥革命、高木陸郎、盛宣懐(2021.11.2放送)

こんにちは、吉塚康一です。私は会社経営の傍ら近代史を研究し、「百年ニュース、毎日が100周年」という放送をお送りしています。本日はVoicy編集部が募集中の「#ゆる解説」というテーマで放送を収録してみたいと思います。タイトルは「漢冶萍公司、辛亥革命、高木陸郎、盛宣懐」です。よろしければ最後までお付き合いをお願いします。

さて「#ゆる解説」というテーマなんですが、お恥ずかしながら「ゆる解説」という言葉、はじめて聞きました。最初はなんのことか分からなかったのですが、「ゆるーーーく解説」つまり「やさしく解説」ということで、考えてみると私は、「100年ニュース」「毎日が百周年」ということで毎日これをやってる、あるいは試みている、という気がいたします。

一方で「ゆる解説」で言うところの「ゆるさ」というのは、解説の内容というよりも、解説のテンション、というような意味のようでもあります。低いテンション、ちゃらいテンションでの解説、ということですので、遊びの効かない私の苦手分野かなと思います。ボケとツッコミじゃないですが、二人でやると私のようなタイプの人間でも、多少やれるのかなとも思います。

今日は「ゆる解説」になるかどうかわかりませんが、私が書いた学術論文について、さくっと、簡単に紹介してみたいと思います。私が2015年に早稲田大学アジア研究機構「次世代アジアフォーラム」の「次世代アジア論集」という論文集で発表いたしました学術論文で、タイトルは「高木陸郎と辛亥革命 盛宣懐の日本亡命を中心に」というものです。時折著名な先生方にも引用して頂いているので大変喜んでいる論文です。

高木陸郎という人物は一般にはあまり知られていませんが、近代外交史や近代経済史では時々登場する経済人です。1880(明治13)年生まれ。元福井藩士の6番目の息子ですが、育ちは私と同じ新潟です。16歳まで新潟におりまして上京、三井物産に丁稚奉公に入りました。そして中国修業生という社内制度、当時は支那修業生と言いましたが、その第一期生。当時の中国は清朝末期です。義和団事件、日露戦争を現地で経験し、1911年の辛亥革命においては、当時の中国の大物政治家であり企業経営者でもあった盛宣懐という人物の日本亡命を現地でアレンジしました。この盛宣懐日本亡命の部分が私の論文の中核部分になります。

のち高木陸郎は三井物産を離れまして、自身で高木商会という会社を経営し、のち日中合弁会社として有名な中日実業という会社、渋沢栄一が設立にかかわったことで大変有名な会社ですが、その日本側の責任者、中日実業副総裁というポジションに1922(大正11)年11月24日に就任、当時高木は42歳でした。そして終戦を迎えるまで23年間その地位にあり、様々な活動に関わりました。基本的には日本と中国の利益の調整に生涯をささげた人と言っていいかも知れません。戦後は公職追放となりますが、1950年代には復活しまして、当時の吉田茂首相に請われまして、現在でも東証一部上場会社であります日本国土開発の創業者となりました。

時代のせいもありますが波瀾万丈の人生で、また新潟育ち、三井物産、中国修業生、独立起業、ということで、私のような小者とはスケールがかなり違うわけですが、似通った人生ということで昔から大変気になる人物であります。

この高木ですが、とにかく中国語が特技。もともとの知能は高いのですが、大学を出たわけではなく、丁稚奉公で仕事を覚えて、こいつは使えそうだということで、18歳で中国に送り込まれました。送り込まれた先の中国ですが、その頃の三井物産の上海支店長がまたハチャメチャで有名な人でして、山本条太郎という人物です。この山本も丁稚奉公上がりですが、のち三井物産の常務まで出世し、シーメンス事件の責任をとって退職、政治家に転身、政友会幹事長、そして満鉄の総裁を務めた有名人です。

高木はこの山本のもとで鍛えられました。高木は中国修業生の第一期生ですが、給与が安くて物価の高い上海で暮らしていけません、と山本に訴えると、ただで勉強させてやってるんだから文句は言うな、うるさいことを言うと逆に月謝を取るぞ、と一喝されます。私が中国で修業生をやっていた当初も、1年目は語学研修、2年目はお礼奉公、の2年コースでした。私のお礼奉公は南京事務所だったのですが、今でも2年目は通常僻地に派遣されるのが常のようです。

さて高木陸郎の時代は期限なしのお礼奉公ですので、それこそこの先中国に骨をうずめる覚悟が必要だったと思います。そして派遣された先は漢口、今の武漢でありました。もしかしたら若い高木は大都会上海を離れて、やや寂しい長江中流の都市漢口に行くのを寂しく思ったかも知れません。しかしこれが高木の運命を大きく開いていくことになりました。

高木は漢口支店で鉄鉱石や石炭など、鉄鋼生産に関わる商売を中心に任されることとなりました。そして漢口にあります漢冶萍公司のトップ、盛宣懐のふところに飛び込んで徐々に信頼を得ることになったのです。そして盛宣懐はその経済力をテコにして、李鴻章なきあとの清朝で影響力を増していき、1911年すなわち辛亥革命が発生した年には、盛宣懐は郵電部大臣、今の日本でいえば、総務大臣と経済産業大臣を兼ねたようなポジションに立つこととなりました。そして辛亥革命の直接の引き金となった、鉄道の国有化という政策を進めていくことになります。

辛亥革命は、1911年10月10日の武昌蜂起から始まります。武昌は漢口の対岸の街です。武昌、漢口、漢陽という三つの街は長江を挟んでほぼ一体の街で、当時から武漢三鎮と呼ばれていました。つまり盛宣懐が本拠地し、高木が駐在していた漢口が、辛亥革命の勃発地点となったわけです。

しかも盛宣懐は鉄道国有化を進めて地方有力者の反発を招いた張本人です。清朝の政府はずるいので、すぐに責任を盛宣懐個人に押し付けて罷免します。あせった盛宣懐は国を脱出しようと試みます。革命直後に北京から天津、そして当時のドイツの本拠地、青島に移ります。盛宣懐は漢冶萍公司をはじめ未だなお巨大な経済的実業を握っていますので、外国人は自分の勢力下に匿いたいわけです。一時的に失脚してもいずれ復活するかも知れないという読みです。事実そうなりまして、辛亥革命後も盛宣懐の経済力は衰えませんでした。

初動でドイツに先を越されましたが、ここから日本も巻き返します。私がこの論文を書いた切っ掛けとなったのが、外交史料館に資料閲覧に行った際に見つけた数本の電文でして、三井物産青島支店から日本の外務省宛に打たれた盛宣懐に関するものでした。最初はわかりませんでしたが、徐々に調べていくと高木陸郎が打ったものと判明したのです。

高木は辛亥革命で不安定になった盛宣懐の財産を一時自分の名義に書き換えて守っています。蘇州にある世界遺産の庭園「留園」は盛宣懐の所有でしたが、一時高木の名義に書き換えられています。外国人の資産には新政府も手出しが出来ませんでした。このような様々な盛宣懐に対する便宜供与の甲斐があって、辛亥革命のスタートすなわち武昌蜂起から3カ月後の1912年1月、盛宣懐は神戸に到着し日本での亡命生活が始まります。そして神戸において漢冶萍公司の日中合弁化交渉がスタートするわけです。

ということで、本日は「#ゆる解説」「漢冶萍公司、辛亥革命、高木陸郎、盛宣懐」というタイトルでお送りいたしました。もしご参考になったのであれば大変嬉しいです。そして是非是非フォローを宜しくお願い致します。以上「100年ニュース」「毎日が100周年」吉塚康一でした。ご機嫌よう。

高木陸郎


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