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【百年ニュース】1921(大正10)2月10日(木) 宮中某重大事件収束。宮内省「久邇宮良子女王殿下,東宮妃内定の事に関し,世上種々の噂あるやに聞くも,右御決定は何等変更ならせられず」と発表。翌日の紀元節に右翼が明治神宮に多数結集予定で山県も狼狽。中村雄次郎宮内大臣辞任。

中村(雄次郎*)宮相来訪,皇太子妃御内定御変更のこと枢密院に御諮詢のこととなすには,聖上に伺いてその聖旨によらざるべからず,しかるときは累を聖上に及ぼすの恐れあり,ゆえにこのまま御遂行のことに決定して,自分辞職せんとする決意なり,元老らにも訪問,その意を述べたりと言うにつき,余は何事にても聖旨を伺うことあれども,責任は当局において取るべき次第なれば,累の聖上に及ぶものとも信ぜざれども,その決心なればそれまでなりと言いたり。

中村の考えにては久邇宮(邦彦王*)よりご辞退あることと信じいたるに,そのことなきは,本件につき松方に宮よりご下問ありたるに,杉浦(重剛*)の意見お尋ね在りたりしと言うにつき,杉浦に御下問ありたるところ,絶対にご辞退を不可となしたるものの由にて,それより久邇宮御態度一変したる趣なりと内話せり。

而してそのまま御遂行のこと政府より公表しくれよと言うにつき,余はそれは不可なり,このこと全く宮中のことにて公表の必要あれば宮相の談とか次官の談とかいう体裁にて,宮内省より公表のほかなしと言いたるに,宮相は押川方義(城南荘,国民義会グループ*)らより意見申出,面会も求めおると聞けば彼らに返答として公表下されたしと言う。

余押川らに返事すべきも明日の紀元節には明治神宮に祈願するの国民大会を開くのと,大騒ぎをなしおれば,これを鎮圧するには宮内省より今夜中に公表せらるるのほかに方法なからんと注意し,あれその通りなすべしと言えり。

ただし中村はその辞任のことも公表すべしと言うにつき,余はそれは無用のことなり,君の進退はこれを公表せざるべからざる理由なしと注意したり。

畢竟形勢の非なるをみて,中村を犠牲にして一事を凌がんとする平田らの小策の結果なり,中村の心情同情にたえざるものあるなり。

川村(竹治,内務省警保局長*),岡(正雄*)来訪につき,中村宮相の内話の次第を告げたるに,中村は川村にぜひ御内定の遂行ならびに宮相辞任のことを公表しくれよと言うにつき,ついに新聞記者に漏せりと言うにつき,余その不都合を責めたるに,なにぶん中村宮相の切なる依頼につき,やむを得ず公表したりと弁解せり。

ただし宮内省よりも今夜公表したる趣なり,明日の騒擾を恐れ彼ら多少狼狽せしものの如し。

押川らを招きたるに,彼ら不在,遅くも可なりと言い送りたるも遂に来たらず,彼らもとより口にこそ皇室の御為なりなど道徳論をなすも,その実は誰かの煽動にていたずらに騒擾を願うのほかなきこと今さら言うもなきことなり。

原奎一郎編『原敬日記 第五巻 首相時代』福村出版,1981年,348-349頁 〔*は引用者註〕

原敬書斎

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押川方義

川村竹治

久邇宮邦彦王

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