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【百年ニュース】1921(大正10)9月25日(日) 童話画家の若菜珪(男性)が埼玉で誕生。多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)を卒業し,多くの児童文学の挿絵を描いた。『ないたあかおに』『泣くなアパッチ』など。1955(昭和30)息子の若菜等が誕生。同じくイラストレーターとして活躍している。1995没,享年74。

童話画家の若菜珪わかなけい(男性)が埼玉で誕生しました。多摩帝国美術学校(現在の多摩美術大学)の図案科(現在の美術学部グラフィックデザイン学科)を卒業したあと、おもに昭和期に活動し、多くの児童文学や児童向け雑誌の挿絵を描きました。

代表作は『ないたあかおに』『泣くなアパッチ』など。1955(昭和30)には息子の若菜等わかなひとしが誕生しました。等も父と同じくイラストレーターとして活躍しています。

若菜珪は1995(平成7)年8月1日に死去しました。享年は74歳でした。

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浜田廣介作「泣いた赤鬼」『ひろすけひらかな童話』岡村書店,1935

とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。

そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。

しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。

一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。

しかし、これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。

作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。

だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。

しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。それは「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙であった。

赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。


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