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【百年ニュース】1922(大正11)1月3日(火) ドイツの詐欺師ヴィルヘルム・フォークトが死去。「ケーペニックの大尉」事件で著名となる。靴職人だったフォークトは,1906年10月16日に西ベルリンで陸軍大尉に変装,立哨勤務を終えた近衛兵12名に指揮下に入るよう命令。ケーペニック市庁舎で市長を逮捕した。

ドイツの詐欺師フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォークト(Friedrich Wilhelm Voigt)が死去しました。72歳でした。「ケーペニックの大尉」事件で著名な人物です。「フォイクト」と表記されることもあります。

フォークトは1949年に当時の東プロイセン・ティルジット(Tilsit)で誕生しました。ネマン川の南岸にあり、ドイツ騎士団の城の周辺に発展した都市ですが、現在はロシア領でカリーニングラード州のソヴィェツク市となっています。

父親は靴職人でした。フォークトは少年時代から盗みの常習犯で、14歳のときには窃盗の罪で2週間ほど刑務所に収容されていたこともありました。その後も窃盗で四回、文書偽造で二回刑務所に送られましたが、1890年に裁判所に盗みに入り懲役15年を言い渡されました。

1906年の初めに刑期を終えて刑務所を出ると教会が提供する受刑者向けの支援制度を利用し何とか靴職人として生計を立てようとしますが、逮捕歴がたたってうまくいきませんでした。

ヴィルヘルム・フォークト(1849-1922)

そして同年10月16日に有名な「ケーペニックの大尉」事件を起こします。西ベルリンの古着屋で軍服や軍刀を買い集めると陸軍大尉に変装、立哨勤務を終えた近衛兵12名に指揮下に入るよう命令し、ケーペニック市庁舎で乗り込むと、ゲオルク・ランガーハンス市長の逮捕を宣言し拘束、一帯を封鎖しました。

そして市庁舎の帳簿の「照会」すると、3557.45マルクを不正資金として「押収」してしまいました。近衛兵は市庁舎に残り、自らは新聞記者の取材にも応じたうえで悠々と駅に向かい、服を着替えてベルリン行き列車で逃走し姿を消しました。

10日後にフォークトは逮捕され懲役4年の判決を受けますが、皇帝ヴィルヘルム2世の特赦で釈放されました。皇帝は「これが規律だ。地球上で我々だけが成し得るものだ」と述べたと言います。

フォークトはこの事件で一躍有名人となり、「ケーペニックの大尉」が舞台劇や映画の題材として上演されただけでなく、ドイツ語で詐欺を意味する「ケーペニキアーデ」という言葉も生まれました。

1906年10月16日「ケーペニックの大尉」事件
「ケーペニックの大尉」を伝える新聞記事
ヴィルヘルム・フォークト(1849-1922)


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