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【百年ニュース】1920(大正9)11月12日(金) ラパッロ条約調印。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後未確定だったイタリアとユーゴスラヴィアとの国境が確定される。また1919年9月以来,文豪ガブリエーレ・ダンヌンツィオが軍事占領しているフィウーメは独立自由市と定められた。

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フィウーメ(クロアチア語名リエカ)はイストリア半島の東に位置し,アドリア海でも有数の港を擁する都市である。第一次世界大戦終結時にはイタリア語系住民が居住人口の相対的多数を占め,彼らは都市の内部で一定の自治権を与えられていた。

ただ長らくハプスブルグ帝国の支配に服していたこともあり,ロンドン秘密条約でもイタリアによる領土要求の対象とはなっていなかった。ところが,大戦末期の1918年10月に,この都市のイタリア語系住民によって構成される「フィウーメ・イタリア国民会議」が民族自決を理由にイタリアへの併合を宣言したことによって,にわかにイタリアの政府や世論の注目を浴びることになる。

フィウーメでは(イタリアの)ニッティ政権成立直後に駐留していたイタリア軍とフランス軍の間で衝突が起き,フランス側に9人の死者が出た。その責任を取る形で,フィウーメ駐留のイタリア軍は削減されることになるが,これに危機感を抱いた軍人のあいだにフィウーメ問題の軍事的解決を求める声が高まっていく。

ダンヌンツィオによるフィウーメ占領が実行されたのは,まさにこうした状況のもとであった。

05ガブリエーレ・ダンヌンツィオ

ガブリエーレ・ダンヌンツィオは1863年にアブルッツォ地方のペスカーラに生まれた。20歳を目前にローマに出て詩集『新しき歌』を刊行し,存在を知られるようになった。その後,小説『快楽』『市の勝利』といった作品を発表して世紀末を代表する耽美派の作家となる一方で,既婚女性や当代きっての女優エレオノーラ・ドゥーゼとの恋愛を始めとする派手な女性関係により,社交界の花形となる。

だが,華麗な社交生活を支えるために多額の借財を負い,それから逃れるべく1910年には生活の拠点をパリに移した。第一次世界大戦が勃発すると,ダンヌンツィオは帰国してイタリアの参戦を主張する活動を開始する。イタリアが参戦すると,彼はすでに50歳を過ぎていたにもかかわらず従軍した。彼は「詩人にして兵士」と呼ばれ,とりわけ参戦支持派から英雄として扱われるようになる。フィウーメ問題が緊迫するなかでダンヌンツィオに対する期待が高まっていったのは,こうした大戦中に形成されたイメージによるところが大きかった。

1919年9月,彼はフィウーメやその近郊に駐在するイタリア軍の一部兵士の要請を受け,イレデンティストの義勇兵や革命サンディカリスト,未来派といった人々からなる一団を率いてフィウーメへの示威行進を行った。市の城門では,駐屯するイタリア軍の司令官がダンヌンツィオを説得して彼らの入城を阻止しようとしたが,拒絶されるとそれ以上の阻止行動はとらず,彼らは易々と市内に入った。

ダンヌンツィオはただちにフィウーメのイタリア併合を宣言し,自ら「司令官」と称してフィウーメを軍事占領した。1920年に入ってから膠着状態が続いていたフィウーメ情勢は,6月にジョリッティが首相になると大きく転換する。

ニッティ政権のもとで始められていたユーゴスラヴィアとの交渉をイタリアに有利な形で進め,11月にはラパッロ条約を締結した。この条約では,フィウーメはイタリア、ユーゴスラヴィアのいずれにも属さない自由都市とされ,イタリア系住民には従来と同様に自治権が認められることになった。

フィウーメの内部で,ダンヌンルィオ,執政府,軍の兵士,一般市民のそれぞれのあいだで次第に亀裂が深まっている状況を見て取ったジョリッティは,12月24日にフィウーメに軍を派遣してダンヌンツィオらを武力で排除することを決断した。「血のクリスマス」と呼ばれる4日間の攻防の末、ダンヌンツィオの政権は崩壊した。自由主義国家に敵対する様々な政治勢力を糾合したフィウーメ占領という政治的実験の舞台は、こうして1年余りであっけなく崩壊した。

北村暁夫『近代イタリアの歴史』ミネルヴァ書房,2012年,129-132頁

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