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【百年ニュース】1921(大正10)8月18日(木) 国際活映(国活)所属女優や従業員らが会社非難の演説会を開催。角筈撮影所の閉鎖撤回や待遇改善を求める。宮部静子や音地竹子ら人気女優が登壇。当時同社の撮影部では円谷英二(20)が撮影技師として働いていた。国活は経営不振により1925(大正14)に倒産する。

映画製作会社の国活(国際活映)所属の女優や職員らが会社を非難する異例の演説会を開催しました。

国際活映は1919(大正8)年12月、1年半ほど前に設立された新しい映画会社でした。いわゆる第一次世界大戦の好景気、戦時ブームで設けた成金たち、いわばバブル紳士のような人たちがお金を出し合って設立したものです。社長は日活出身の小林喜三郎。巣鴨と角筈の二つの撮影所を擁して2年官で120本という大量の映画を量産しますが、経営陣の乱脈ぶりと戦後不況による経済低迷により経営悪化が表面化、角筈撮影所の閉鎖が決まります。

角筈撮影所は現在の西新宿の十二社にあったようです。こちらの撮影所の従業員は全員解雇が告げられましたが、従業員らが撮影所に立てこもって抵抗するという事態になります。そして女優らも巻き込んで一般大衆に指示を訴える演説会が開催されることになりました。

演説会は演壇に女優が立つということで盛況になります。宮部静子や音地竹子ら人気女優が登壇し、角筈撮影所閉鎖の撤回や待遇改善を求めました。しかしこれらの訴えは届かず、また国際活映の経営もまた好転せず、結局1925年に倒産することとなりました。

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宮部静子

当時の国際活映の従業員でひとり注目するべき人物がいます。これは撮影部で撮影技師として働いていた円谷英二です。当時20歳でした。円谷英二はのち松竹に移籍し、さらに1933(昭和7)32歳のときに日活に移籍。この年公開された米国映画「キング・コング」に衝撃を受けます。

第二次大戦中は東宝で多くの国策映画の撮影に関わり、戦後1954(昭和29)満を持して「ゴジラ」製作、空前のヒットとなりました。さらにテレビに進出し「ウルトラマン」の生みの親となりました。円谷は1970年没、享年は68歳でした。

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