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【百年ニュース】1921(大正10)7月21日(木) イタリアのリグーリア地方サルツァーナでファシストと治安組織が衝突。アメリゴ・デュミニの率いる500人のファシスト隊が囚人解放を要求して街に入ると,国家憲兵(カラビニエリ)が出動,周囲の農民たちも呼応しこれを撃退。18人のファシストが殺害された。

イタリアのリグーリア地方サルツァーナ(Sarzana)でファシストと治安組織が衝突しました。いわゆるサルザーナ事件です。これはイタリアにおける初期のファシズム台頭に対する数少ない抵抗運動のひとつとして記憶されている事件です。

第一次世界大戦終結まもない1919年3月に、ベニート・ムッソリーニがミラノのセンセポルクロ(Sansepolcro)広場で復員兵らを中心とする集会を開き、その場で「戦士のファッシ」を結成しました。最低賃金の設定や平等主義的な経済政策に加え、イタリアの民族主義的な主張を色濃くもった綱領が採択され、政治運動が始まりました。左翼が徐々に力を持つ世相のなかで、ファシスト党は農村を中心に徐々に勢力を拡大していきました。

1920年11月にはボローニャで当選したばかりの社会党の市長の就任式を数百人のファシストが襲撃、市役所を破壊し9人の死者と多数の負傷者を出す大惨事となりました。

そして1921年7月21日、すなわち百年前の今日、アメリゴ・デュミニが率いる500人のファシスト隊が、リグーリア地方の小都市であるサルツァーナに、囚人の解放を要求して街に入りました。カラビニエリと呼ばれるイタリアの国家憲兵(いわゆるミリタリー・ポリス)が出動、周囲の農民たちもカラビニエリ側に呼応しファシストを撃退。混乱の中で18人のファシストが殺害されました。イタリア政府によるファシストらの暴力行為への鎮圧方針が明確になりました。

これによりムッソリーニは一時的に後退を余儀なくされ、社会党との平和協定が8月に締結されました。しかし翌年1922年10月にはファシスト党のローマ進軍、そしてムッソリーニ政権の誕生へと時代は移っていきます。

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