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【百年ニュース】1921(大正10)5月20日(金) 元日産自動車会長の久米豊が誕生。東京府立第六中学校(現都立新宿高校)から東京帝国大学工学部へ。大戦中は海軍で軍用機の製造。戦後日産自動車入社。社長時代は日産黄金期を牽引。初年度に3万6400台を販売した「シーマ現象」の他,シルビア等ヒット車を連発。

元日産自動車会長の久米豊が東京で誕生しました。東京府立第六中学校(現都立新宿高校)から東京帝国大学第二工学部航空原動機学科へ進み、第二次世界大戦中は海軍で軍用機の製造と修理に関わりました。戦後1946(昭和21)に日産自動車に入社。その後は主力の座間工場工務部長・吉原工場長などを歴任しました。

久米は1985(昭和60)に日産自動車の社長に就任。バブル経済のなか日産の黄金期を牽引しました。特に今までの日産の代表的な高級車であったセドリックを上回る「シーマ」は、500万円以上する価格帯であるにも関わらず初年度に3万6400台を販売する大ヒットとなり、「シーマ現象」と呼ばれる社会現象になりました。最高級クラスの車は後部座席に乗るものであるという常識を覆し、自らがハンドルを握り運転を楽むものだという発想に転換させたとされます。

また5台目シルビア(S13)は無意味でわざとらしい造形を排し、シンプルで美しく、柔らかな曲線と伸びやかなプロポーションをもつスポーツクーペで、誰もが美しいと感じるスタイリングが20代の若者に受け大ヒットとなりました。また同じような最新のデザインで30代以上の顧客層を開拓したセフィーロも、当時定番だった豪華な装飾の大人向けサルーンカーの常識を壊し、「くうねるあそぶ」のキーワード、井上陽水のテレビCMとともに、その斬新さが評判となりました。ほかにもノスタルジックで斬新なデザインのBe-1は1万台限定生産で消費者の購買意欲を引き出しました。

久米は1992(平成4)日産自動車の会長となり、同時に経団連の副会長にも就任しました。2014年9月10日、胃がんのため横浜市で死去、享年は93歳でした。

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