上野千鶴子の誤算
先日、上野千鶴子の発言が炎上した。
上野が批判している、オーナーへの呼称は、単にそういう設定でしかなく、元々花嫁用として作り込まれているわけでもないので批判はまったく的外れである。そして、近藤顕彦氏は、初音ミクを僕やメイドとして扱っているわけではないし、むしろ、彼女は何もできないぐらいである。少なくとも、私が個人的に彼を知る限り、彼は初音ミクがいなければ死んでしまうような人であり、心底愛しているということを知っている。
なぜ、上野はこのような無理解な発言をするようになったのだろうか。単に、上野は昔から無理解な放言をして開き直るような人間だという見方もある。1986年に河合文化教育研究所(河合塾の関連機関)から発行された、上野千鶴子著『マザコン少年の末路―男と女の未来』(河合ブックレット1、河合文化教育研究所発行)という本で、上野は「自閉症は母親の過干渉・過保護によって引き起こされる」と記述し、1994年に自閉症関連団体から抗議を受け、話し合いを持った。結果、上野は自閉症の原因を母親の過干渉・過保護とすることを偏見と認めたが、自閉症が先天的な疾患であり、育て方で起きるものではないということを認めはせずに、その類まれなる文章力によってなんとなく他人を納得させる文章をブックレットに追加した。まぁ、はっきりいって、そういう奴だという批判は、否定しがたいというのは事実である。
しかし、筆者はそれだけが、この発言の背景にあるとは考えていない。筆者は、この20年の間における、上野の大いなる誤算が背景にあると考えている。この記事では、その上野の誤算について議論していきたい。
平和に滅びなかったオタクたち
さて、上野千鶴子とオタクといえば、以下の記述が有名である。
オタクが「女と付き合うのは、めんどうくさい。それよりギャルゲー(カッコ内略)がいい」といったりしますね。
(中略)
もし、そのゲームに参入する女がいたら、そこは当然きしみや違和感が発生し、ノイズが発生します。彼らはそのノイズの発生を、「めんどうくさい」と言います。でも、関係というのは、めんどうくさいもんなのです(笑)。めんどうくさがる男たちが、実際のインタラクションから完全に撤退してくれたら、それはそれでいい。ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないですみますから。
(2006, 上野千鶴子他著, バックラッシュ!なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?,双風舎 p. 433-434, 引用部分は全て上野による)
この書籍は2006年の出版であり、恐らく、上野は2000年代前半には、このような考え方に至っていたと考えられる。しかし、ここに引用してある上野の主張の半分以上は、上野の思想に通底している。平たく言えば、女性の権利獲得などを通じて、男性に依存せずに生きることができるようになり、それによって、いわば社会によって立場を与えられてきただけであったり、マザコンであったり、面倒くさがりの男から解放され、最終的にそのような男たちは淘汰されるという考え方である。単に、その理屈を「オタク」に拡張したに過ぎない。
しかし、上野はこの時点で完全な誤解をしており、完全に予測を外していく。
実を言えばオタクはノイズを排してはいない。むしろ、この時代はギャルゲーにせよ、ラノベやアニメ、マンガにせよ、何かしらの邪魔を機転や努力、愛情や運などで排除していくような物語が書かれている。顕著な例がセカイ系と言われるような作品で、これらは、意味の分からない妨害が延々と続く中の話である。むしろ、ゼロ年代のオタクのエポックというのは、(萌え)要素の発見と、それに伴うキャラクターという概念の再定義、そして、それを自分や他人、あるいはモノやコトにまで広げていく貪欲さである。
さらに、バブル崩壊以降、氷河期世代やリストラ、不良債権問題が発生し、消費が低迷する中で、比較的安価な趣味である、オタク趣味がコンスタントに消費していくことで、人口を増やし、消費者としての強固な地位を獲得したことは以前より論じているとおりである。
つまり、オタクはこの間、いわば、「キャラクター化」と「数と売上」でその影響力を増やし、拡大再生産を続けてきた。人のキャラクター化はアイドル文化を発展させ、モノのキャラクター化は擬人化という一大ジャンルを生み出した。あるいは、自分や仲間をキャラクター化し、オタクというコミュニティを形成していった。さらに、キャラクター化は、(萌え)容易な要素の追加を可能とし、例えばキャラクターの服装をコンビニやファミレスの制服にすれば、すぐにコラボができるようになり、商業的な可能性も拡大していった。さらに、様々な団体はゆるキャラなるものを採用し、もはや、今の日本はキャラクターが溢れかえっている。
こうして、上野は「平和に滅びていってくれればいい」という予想を大外しした。
それでも自由を擁護する上野千鶴子
しかし、上野千鶴子は、予想を大外ししても、オタクの表現を潰そうとはしなかったことは彼女の命のために記憶しておくべきである。上野は、マッキノン、ドウォーキンのラディカルフェミニズムによる、ポルノ禁止論を退け、あくまで自由を前提としている。
―最後にポルノについてお尋ねします。日本のポルノが韓国でも人気があるのですが、ポルノについてどのような立場でいらっしゃいますか?
「まずポルノはそれを不法化しても抑えることができません。そして私は『ポルノは理論であり、レイプは実践』だというマッキノンの主張に同意しません。インターネットであれ、DVDであれ、バーチャルな性的表現物をたくさん消費する男性が、実際の性生活で必ずしも積極的ではないという調査結果があります。」
ー私が読んだところでは、ポルノの商業化されたイメージに頻繁にハマると、実際の女性たちには性的興味を感じられなくなる状況も発生するといいますが、それも問題ではありませんか?
「それのどこが問題なんでしょう?彼らは平和なオトコたちでしょう。レイプ犯になるはずのない・・・・・・」
(2010, 上野千鶴子さんインタビュー@韓国・IF, WAN, https://wan.or.jp/article/show/1917 2020-05-15閲覧)
ここでも、上野は、メディアに耽溺する男を「平和」と評している。そして、それと同時に、そのように生きる自由を、消極的な形であるが認めている。
予想を外したことに気づいていない可能性
こうやって、見ていくと、一つの可能性が見えてくる。
上野は、自分が予想を外したことに気づいていない。キャラクターに耽溺し、ノイズを嫌うような男は、平和に滅びていくという予想を正しいと今でも信じている。近藤氏のような男を、滅びゆく者として見ているのではないだろうか。
そして、上野の発言を見ていくと、コミュニケーションについて一つの信念が見え隠れする。それは、多様性と摩擦を重視していることである。大きな話題になった、2019年の東大入学式の祝辞で彼女はこう言っている。
学内に多様性がなぜ必要かと言えば、新しい価値とはシステムとシステムのあいだ、異文化が摩擦するところに生まれるからです。
(2019, 上野千鶴子, https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html 2020-05-15閲覧)
上野はすでに70歳を過ぎている。そんな彼女に、ある種の予定調和を与える、属性やキャラクターを軸にしたコミュニケーション論を理解することは、もはやできないのかもしれない。ただ、彼女が気付かぬままにこの世を去ったとしても、もはや、この流れは止められないのは間違いない。
いつもありがとうございます!