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【基本無料】キモオタにも小児性愛者にも「社会的責任」を強制することはできないし、規制をちらつかせた脅迫は差別である(四谷三丁目を論難す)

四谷三丁目を名乗る者(以下、四谷という)が、小児性愛者とラブドールに関する問題について、オタクたちに社会的責任なるものを果たすことを要求する文章をNoteに掲載し、大きな反響を呼んでいる。

本稿では、四谷の議論について、検討し、その問題点について明らかにしていく。

問1 小児性愛の達成は罪なのか?

なぜ同性愛の達成は罪ではなく、小児性愛の達成は罪なのか。

相手が子どもだからだ。


当たり前だ。
ここに関しては掘り下げるときりがないのでサックリといくけども、精神が未発達の児童と成人が恋愛関係を達成する、ましてや性的な接触を行うことは、明確に児童の人権侵害に当たる。なので法で禁じられている。ここですでに「?」な人は、ちょっとどうしようもないので自分で色々調べてくれ。

前置きが長くなってしまったが、小児性愛は「現実で思いを遂げたら即犯罪である以上、ある程度犯罪と肉迫していると言わざるを得ない性的嗜好」である。

まず、厳密な意味での小児性愛、つまり二次性徴前の児童にを対象に考えた場合。これと性交に及ぶことは、13歳未満との性交が法定強姦であることから、明らかな犯罪であり、ほぼ間違いなく人権侵害であるのは間違いない。

しかしながら、小児性愛者の「思いを遂げる」や「達成」、つまり児童との性交は、必ずしもゴールや目的とは限らない。実際に、小児性愛者は、必ずしも児童と性交に及ぶための努力をしているとは限らないだろう。筆者は異性愛者だが、特に異性と性交に及ぶための努力をしていない。そして、それで十分に満足している可能性は十分にある。筆者のように何十年も性行為に及んでなくても、特に不満を感じていない人は珍しくない。むしろ、四六時中性行為のことを考えていたら、依存症である。

実際に、実行すれば犯罪になるような欲望を持っている人は珍しくない。たとえば、拳銃の所持や薬物の使用、あるいは小児性愛者の殺害などを欲望している人は存在するだろう。にもかかわらず、小児性愛者のみを取り上げて、安易に「犯罪と肉薄している」などと評価することは全くナンセンスな話である。

問2 社会的責任はあるのだろうか?

責められているのは、その「社会的責任に対する自覚のなさ」である。

当たり前の話だが、我々はどんな性的嗜好を持っていようとも、その前に社会の構成員であり、成人であれば社会的責任を負う存在である。性的嗜好の前に、社会的責任である。大事なことなので2回言う。

社会構成において子どもという圧倒的な弱者は、一番に守らねばならぬカテゴリーに入る。

小児性愛者だって、「子どもを守るという社会的責任」を負っているのだ。当たり前だがな、本当に。

さて、四谷は、「社会的責任に対する自覚のなさ」について繰り返し批判をしているが、そもそも、私たちは何か社会的責任を義務として負っているのだろうか?

はっきり言えば、社会的責任とされるもののうち、義務と言えるものはごく一部しかない。たとえば、コンプライアンス、法令順守は当然に義務である。しかし、それに対して、グリーン購入法に従った購買、FSC認証の紙やRE100電源の使用、CSR監査を受けることなど、こういったものは義務ではない。これと同様に、「子供を守る」ということは、社会的責任かもしれないが、義務ではない

また、社会的責任を他人にそこまで強く要求するというのであれば、四谷自身の社会的責任の履行についても厳しく精査されるだろう。もちろん、ISO26000に基づくマネジメントを行い、サプライチェーンに対しても監査を行うぐらいのことはしているはずである。当然に、普段使っているスマートフォンで使われているレアメタルにはトレーサビリティがあり、奴隷的労働によるものではないという保証を取っているはずである。当然にコーヒーやチョコレートなどの食品はフェアトレード品しか食べていないのだろう。まさか、あれだけ批判されている実習生を使って生産した野菜を口にしているはずがない。四谷に賛同する者も同様である、今回の件で四谷に同調する腐女子は多かったが、カラー部分はCUDに配慮しFSC認証の紙にSoyInkで刷った同人誌を制作し購入しているはずである。はっきり言えば、偉そうに他人に指図をするのであれば、当然に自分もきちんとできていてしかるべきである。

問3 小児性愛は加害性を伴っているのか?

ハッキリと言えば、小児性愛者は「自身の性的嗜好の、子どもへの加害性」を自覚し、社会的責任感を持って慎重に振舞う必要がある。

「自身の性的嗜好そのものが、加害性を伴っている」という自覚である。

内面に持つ嗜好そのものを、責めることはできないから。しないから。

まず自覚をしてほしい。

まず、問1で示したように、小児性愛という性的嗜好が、必ずしも最終的に加害に繋がるとは言い切れない。実際の加害に繋がるとは限らない小児性愛という性的嗜好は、他の嗜好と同様に、それそのものが加害性を持っているということは言えない。

しかしながら、当然に、小児性愛という性的嗜好の表明を聞いた人が、嫌悪感を持ったり恐怖するということは、事実である。過去の判例上も、受忍限度はあるにせよ、「内心の静穏の権利」という権利があることは確認されている。その意味で、加害性があるということは否定できない。しかし、単に「恐怖感や嫌悪感を感じる人がいる」というだけでは、LGBTQの権利主張が保守主義者やキリスト教の敬虔な信者に恐怖感や嫌悪感を与えることと変わらない。

これに対して、小児性愛の性愛の実現は必ず人権侵害を伴うが、LGBTQの性愛の実現は問題無いので、話が違うという主張はある。しかし、これは問1で示したように、小児性愛者にとって児童との性交は必ずしもゴールではないということを示しているので、その区別は妥当ではないと考えられる。

以上のことから、「小児性愛の加害性」なるものは、他の様々な趣味嗜好や思想信条と同じ程度の加害性しかないので、殊更これを取り上げるのは、それこそ差別であると言えるだろう。

なお、実際に重大な加害行為に及んだ思想信条である、オウム真理教のようなカルト宗教、テロやゲリラに及んだ新左翼の思想といったものがあるが、思想信条そのものは規制されていない。これは、疑似医療や反ワクチンのような公衆衛生の脅威となりうる言説についても同様である。

問4 小児性愛者は理解を得なければならないのか

小児性愛という嗜好を社会へ受け入れてほしいならば、当事者たちが「そんじょそこらの大人より児童の人権に配慮する」姿勢が必要ではないか。

実在児童への性的加害に対して「絶対に許さない」という姿勢を世間一般の人間よりもよっぽど真剣に示して初めて、社会は「この人たちはフィクションと現実を切り離して考えることができている」と捉えてくれるだろう。

努力と歩み寄りを怠り、理解だけ得ようとするのはあまりにも稚拙だ。

はっきり言えば、一人一人の個人は、小児性愛という嗜好を受け入れる必要が無い。もちろん、「小児性愛者はフィクションと現実を切り離していない」と考える自由は誰しもある。

しかし、重要なことは、開かれた社会はどのような者であっても受け入れるしかないということである。毎年、「社会を明るくする運動」というキャンペーンが法務省によって行われている。これは、刑事施設の出所者の社会復帰を促す運動である。もちろん、「凶状持ち」と揶揄されるような出所者に個人的な拒否感を持つ人は珍しくない。あるいは、多くの人は自宅の近所に更生保護施設ができるとなれば、嫌になるかもしれない。しかし、そうだったとしても、社会は彼らを受け入れるしかないのである。

これは、小児性愛者同じである。自由で開かれた日本の社会は、当然に自由な市民である小児性愛者を受け入れなければならないのである。これは他の市民と同じように、実際に犯罪を犯せば刑事施設に隔離されるだろうが、犯罪に及ばず、普通の生活を送っているのであれば、他の人と同様に自由を享受する権利を有する。むしろ、嗜好または指向を理由にして差別的取り扱いをすることこそ、非難されるべきだし、場合によっては違法行為や民事上の不法行為になる恐れすらある。

問5 悪い影響を危惧する声を真剣に取り合うべきか

「フィクションに影響され加害を実行に移す危険性」について。

やっと本題といえど、もう結論は出ていますね。ここまで語ってきたことすべてが、「フィクションが現実に与える影響」に言い換えることができる。

良い影響もある。悪い影響もある。究極的にはケースバイケースである。

“だから”

悪い影響について危惧する声が上がるのは当然だし、我々オタクという嗜好者は、社会の構成員であるという自覚をもって、責任をもって、当事者として、真剣に取り合っていく必要がある。

もちろん、良い影響を与える場合もあるし、与えない場合もある。それは当然のことである。しかし、悪い影響を与える可能性があるからと言って、即座に何かを規制できるということにはならない。

数年前に、表現による悪い影響について大変な危惧をしていた人たちがいた。外患誘致罪という極めて重い犯罪を引き起こしかねないという重大な懸念を持って、弁護士に懲戒請求を行った人たちがいた。余命三年時事日記というブログが懲戒請求を扇動した事件である。彼らは外患誘致という「悪い影響について危惧する」からこそ、弁護士を懲戒請求し、国に対する大量の要望メールを送信していたが、果たしてこれを「真剣に取り合っていく必要がある」と言えるのだろうか? そんなバカな話はないだろう。実際に起きていない犯罪を、特定の属性に結び付けて危惧することというのは、大量懲戒請求事件の当事者と同じように、被害妄想的な言いがかりである。

また、問2で示したように、社会的責任というものは義務的なものではない。私たちは、単なる犯罪の危惧程度のことを理由に、何かしらの義務を課せられることは無い。

問6 「悪い影響への危惧」を無視した場合、規制をされるべきなのか?

悪い影響への危惧は、「明日への不安」なのである。どこまでも、生々しい現実の話だ。

それを茶化し続けた果てにあるもの。それは、「社会的信用の失墜」である。

しつこいけども、我々オタクも「オタクコンテンツの嗜好者」である前に、社会構成員だし、成人なら社会的責任を負っている。
ケースバイケースの「悪い影響」を危惧する声が上がるのは、社会において必然である。それについて我々が社会的責任感を伴う客観的な視点を持てないなら、大喜利大会を開いて茶化し続けるなら、その果てにあるものは、社会的信用の失墜からの一律の法的規制である。

(中略)

フィクションが現実に与える危険性を無視するなら、危惧の声を茶化して封じ込めるなら、社会に対して「話にならない」態度をとり続けるなら、「フィクション作品における殺人描写は禁止」とサクッと規制される日がやってくる。
社会的責任を放棄してきたものが、それに対して慌てて異議を唱えてももうおしまいだ。

はっきり言えば「社会的信用の失墜」があろうがなかろうが、単なる抽象的な危険性を以て、表現を規制することはできないし、それを認めることはできない。

地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の後継団体であるアレフ等は、当然に信教の自由や、布教活動などに伴う表現の自由を有している。オウム真理教及びその後継団体には、破壊活動防止法の適用が出来ず、新たに団体規制法(オウム新法)を以て規制されることとなったが、その団体規制法ですら、表現の自由を制限する条項は存在しない。

過去に暴動事件を起こし、警察官を殺害するといったことを起こしてきた中核派の活動家に対する破壊活動防止法の適用は、言論を規制した非常に珍しい事例である。この事例では、日時などを明確に示した上で暴動を扇動したことで有罪とされた。しかし、中核派をはじめ、新左翼(過激派)は常日頃から暴力革命や政府転覆、警察の暴力的打倒を主張しているにもかかわらず、これは規制対象とはなっていない。なぜならば、単に抽象的な危険性があるだけの発言は「明白かつ現在の危険」が無いからである。このような言論は規制することができないのである。それどころか、過激派の発行する機関誌は大きな書店やミニコミ専門書店では普通に取り扱われているぐらいだ。中核派に至っては、Youtubeに「前進チャンネル」として動画を配信し、2018年冬のコミックマーケットにはサークル「みどるこあ」として同人誌の頒布を行ったぐらいである。

はっきり言えば、たとえ人々が規制すべしと言ったところで、日本国憲法はそうやすやすと表現を規制させてはくれない。オウム真理教を解散させ、信者たちの自由を奪うことに反対する人など、ほとんど居なかったはずである。にもかかわらず、私たちの社会は彼らの自由を守る決断をするしか選択肢が無かったのである。

問7 その「当たり前」は本当に正しいのか?

フィクションは現実に影響する。良くも悪くも。
影響に関してはケースバイケースであり断言はできないが、悪い影響を与える可能性がある以上、慎重に取り扱わないといけない表現がある。
それに対して危惧の声が上がること自体に腹を立てず、茶化さず、社会的責任感を持った視点で判断していく。

そんな当たり前のことを、当たり前にできるオタクでいたい。そうしなければこの先、私たちの大好きなものを守ることができなくなると、真剣に思う。

四谷の言う「当たり前」はちっとも「当たり前」などではない。もちろん、一般的な道徳には適うという意味では「当たり前」なのかもしれない。しかし、それは基本的人権を尊重するという我が国の根本的なありかたを捻じ曲げられるようなものではない。天賦人権説、自由、基本的人権、これらは善悪の彼岸にある概念である。たかだか、世俗的な道徳観念ごときで否定することなど不可能である。

頭を低くしてイイ子ブリッコすることが「大好きなものを守ること」なのだろうか? もちろん、それが良いと思う人もいるだろう。頭を低くしてイイ子ブリッコする自由はある。しかし、そんなことをしなくても、人権は万人に付与されているのである。どんなに反社会的で、どんなにいけ好かなくて、どんなに道徳や倫理に背を向けていようとも、人には人権があるのである。

私は、この人権を徹底的に擁護する。大喜利で茶化す自由とともに。

最後に、「小児性愛は「嗜好」なのか「指向」なのか?」と「Twitterへの規約違反ではないか? という指摘について」の二つの補遺を有料にて掲載しました。あくまで補遺というべき些末な事項ですので、オマケ程度にお考え下さい。

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