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リベラルの蹉跌、そしてその転換。

今、多くの人が、左派、あるいはリベラルと呼ばれる存在が昔と変わったと感じているのではないだろうか? 恐らく、その感覚は間違っていない。

本来、自由を重視してきたはずのリベラルは、いまや社会の風紀委員のように、大衆のちょっとした娯楽や、漁民の生活の糧を、正しくないと攻撃するようになった。プライベートジェットで燃料を消費する欧米のセレブたちは、社会貢献活動に参加して、人々に対して偉そうなことを言うようになり、リムジン・リベラルと揶揄されるようになっている。

リベラルの一翼を占める、原発反対派、反レイシズム活動家、フェミニストなどは、自分たちの意見に賛同しない者たちを敵と見做し、御用、遺伝障害が出る、レイシスト、キモオタ、セクシスト、バックラッシャーなどと規定し、相手がいかに愚昧で勉強しておらず悪意にまみれており、あるいは金をもらっているといったことを言い募ってきた。

また、支持層も変わっていった。2016年のアメリカ合衆国大統領選挙では、それまで民主党を支持していた労働者階層の少なくない割合が、共和党のトランプ候補に投票し、結果的にトランプ候補が当選した。

もちろん、こうなったのには理由がある。この記事では、旧ソ連崩壊以降の社会的経済的流れの中で、リベラルがどのように変わっていったのかを議論する。

リベラルの失ったもの

旧ソ連、東側諸国の崩壊は、社会主義経済という左派にとっての根本的な思想の蹉跌となった。そして、この東側諸国の崩壊、それとともに中国の改革開放路線やベトナムのドイモイの成功といった資本主義化が、世界に大きな変化をもたらした。いわゆる、グローバル化である。

グローバル化は、先進国に大きな変化をもたらした。急速に製造業などの産業が途上国に移転していき、国内の産業の空洞化が進んだ。また、ヨーロッパでは東欧の新たなEU加盟国からの移民労働者が、日本では技能実習生のようなかたちで、農業などの労働集約産業において、低賃金での労働が蔓延することになった。また、企業は株主指向に進み、証券化スキームを活用して、事業の新設増強改廃を身軽にできるようにしていった。

これは、労働者に対して、しかも若い労働者に対して大きな影響を及ぼしていった。なぜならば、先進国においては十分に強い労働組合があり、90年代においては働き盛りでこれから給料の上がっていく戦後のベビーブーマー、日本でいう団塊の世代を無視することが困難で、しかしながら企業は、世界のグローバル化により身軽な形での雇用体制を整えたかったからだ。結果的に、日本においては中高年のリストラもかなり発生したが、それ以上に若者の雇用が非正規化や、低賃金に抑えられる賃金構造への転換が進んでいった。ヨーロッパにおいては若干異なり、有名大学卒業後も就職先が決まらず、長期間の無給のインターンの後に採用されるかもしれないという制度が普及していき、それに適応できない人々は、日本と同様に小売りや飲食店などの低賃金の仕事につくしかないという構造が出来上がった。

つまり、多くの国において、グローバル化というのはこの30年の間に労働市場に参加した者に対して極めて厳しい状況を生み出していったのである。これによって何が起きたか、労働組合の組織率の低下である。1990年代から現在にかけて、日本も欧米各国も労働組合の組織率は低下傾向にある。そして、何より若者が自分たちの救済に全く動かない、労働組合とリベラルを信頼できないという傾向を作り出していった。

つまり、ソ連崩壊とそれに伴うグローバル化で、リベラル派は大きなものを二つ失ったのである。一つは、社会主義の夢、そして、もう一つは労働者大衆との繋がりである。そして、リベラルは、その二つに代わるものを探し求めた。一つは社会主義の夢に代わるもので、いままでの活動家が納得してくれそうな正義を示すもの。もう一つは、労働者大衆に代わる新たな支持層である。

リベラルの見つけたもの

実は、あっさりリベラルはその二つの回答を見つけた。以前より多少は関わってきた、様々な環境問題や差別問題である。ただ、これらに肩入れしていくと言うのは、政治的な転換を含むものであった。

実は、マイノリティの擁護というのは、日本共産党や日本社会党をはじめとする既成左翼よりも、華青闘告発といった事件があった中で、新左翼が力を入れてきた分野であり、特に日本共産党は、被差別部落団体と1970年代に厳しい対立を繰り広げ、その後も部落差別問題からは距離を置いてきたという背景がある。ただ、日本社会党は、日本共産党と異なり、組織内に様々な派閥をかかえ、ある意味融通無碍な態度を取ってきた中で、日本共産党よりも親和的ではあった。

とはいえ、リベラルは全体として、様々な環境問題や差別問題に肩入れをすることで、環境問題に関心のある層や、被害を訴えるマイノリティを取り込んでいくことに成功した。しかし、このことが、大きく二つの、大きな問題のある理論をも一緒に取り込んでいかざるをえない状態に彼らを追い込んでいったのである。

一つ目の理論:朝田理論

朝田理論とは部落解放同盟において活躍し、1960年代から70年代にかけて中央執行委員長を担った朝田善之助の提唱した理論である。簡単にWikipediaで見てみると、以下の記述がある。

「ある言動が差別にあたるかどうかは、その痛みを知っている被差別者にしかわからない」(藤田敬一『同和はこわい考: 地対協を批判する』57頁)
「日常生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益なことは一切差別である」(部落解放同盟第12回大会)
(Wikipedia日本語版 朝田理論 2020-05-10閲覧 一部脚注を移動)

簡単に言えば、朝田理論というのは、あるマイノリティが「差別」だと判断した場合、それは自動的に「差別」になること。そして、そこに因果関係や根拠が全く不明だったとしても、あるマイノリティが不利益を受けた場合は「差別」と見做されるという理論である。

つまり、この理論を利用することにより、「差別」とか「問題」というものは一切の根拠なく無限に作り出していけるようになるわけである。1960年代はこの理論を根拠にして、因縁をつけて蛮行に及ぶ者も居たようであるが、今やそんな者はほぼ存在しない。しかしながら、この考え方は、ややマイルドな形になって、浸透していると考えるべきだろう。実際に、私たちは、被害の実質も証拠も因果関係もはっきりしない被害の訴えの多くが、差別であると主張され、それがなんとなく認められているというのを多く見ているはずである。

二つ目の理論:血債の思想

そしてもう一つの理論が血債の思想である。これは、過去に差別や植民地支配をした者や、間接的に差別や植民地支配から利益を得たり、あるいは関与している者は、いわば血債を背負っており、その責任を果たさなければならないという考え方である。

その、最も極端な例が東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工ビル爆破事件の犯行声明に表れている。

“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。
(三菱重工ビル爆破事件犯行声明より)

ここでは、単に通りかかって巻き込まれた人も含めて「植民者」として規定している。そもそも、先進国で普通に働いて生活すると言うことは、多かれ少なかれ途上国からの搾取を伴うことは言うまでもないが、血債という考え方は、これを懲罰の対象としうるわけである。

そして、この爆破事件を起こした側も、先進国で生活する以上同じ罪を背負っているのではないかという疑問が出てくる。しかし、これは簡単に解決される、途上国の人民の血債を果たすために、身を粉にして働く闘士は、その血債、罪に対する責任を十分に果たしていると言えるわけである。

もちろん、爆破事件を起こすというのは極端な例であるかもしれない。しかし、このように責任と罪の範囲を拡大するような言説は珍しくない。いわゆる、Not all men(全部の男はそうではない)という言い訳を否定するフェミニズムや、先進国の市民をまとめて悪魔化するような環境保護活動家の言説は珍しくない。そう、つまり、この理論は、誰しもを加害者と認定する悪魔の理論なのである。

最大のマイノリティと立憲民主党

そして、最大のマイノリティの存在に気づき、この取り込みに努力している政党が一つある。それは、立憲民主党であり、そして、ご存知のように最大のマイノリティは女性である。

例えば、2017年の立憲民主党基本政策を見てみよう。言論の自由についてこのような記述がある。

■民主主義に不可欠な情報アクセス権、報道の自由など表現の自由を守るとともに、人権としてのプライバシー権を確立します。

ここでは、報道の自由に対する「など」として、その他の表現の自由が定義され、例えば、ポルノなどをいわば一等下に置くような形で記載されている。

対して、女性問題についての記述は多い。子育て支援など、周辺分野を除いて3項目である。

■国政選挙におけるクオータ制の導入を進め、ジェンダー平等を確立します。
■性暴力被害者の心と体を守るために適切な支援ができる体制をつくります。
■希望する夫婦が別姓を選択できるよう、選択的夫婦別姓制度を実現し、ジェンダーギャップの解消を進めます。

2017年時点で、いわゆる表現の自由戦士とフェミニストの対立が深まっていたことを鑑みれば、この時点から最大のマイノリティの取り込みを狙っていたと考えられるかもしれない。

そして、2020年になると、さらに旗色を鮮明に出してくる。立憲フェスで示された年間活動方針を見てみよう。女性に関わるものは、これだけ直接的に多く記載されている。

次の衆院総選挙こそ、政治の大きな転換点としなければならない。
候補者の擁立作業は急務であり、参議院選挙に引き続き、女性候補者の擁立や多様な候補者の擁立にも取り組みながら、小選挙区で勝利するための有為な候補者の早期の発掘・擁立に真摯に取り組んでいく。(p.2 野党第一党としての選挙対策)
〇ハラスメント防止対策委員会を充実させ、各都道府県連におけるハラスメント防止対策研修会の実施なども含めた、実効性あるハラスメント防止関連施策を実施していく。
〇DV防止法改正案の検討を進めるなど、法制度全般のジェンダー平等の確立に向け、女性自治体議員とも連携して、当事者、有識者や女性団体との共同の取り組みを追求していく。
(追加提案)
〇引き続きジェンダー平等推進本部・「パリテ事務局」(選対・ジェンダー共管)、結成予定の「女性自治体議員ネットワーク」(仮称)とともに、地域におけるパリテ・イベントの開催・女性視点による政策形成・女性候補者の発掘・育成等に関する女性候補者擁立プランの策定などに取り組んでいく。(p.7 (6)ジェンダー平等推進の取り組み)
〇女性の政治参加を促進し、一人ひとりの女性が直面している課題解決のプロセスを共有するという第一歩を踏み出した取り組みについて、次期衆院総選挙にも継承し、女性候補者3割を目標として女性候補者擁立に向けた努力を強化していく。
〇擁立目標の達成とともに、女性が直面する課題の解決に向けた女性政策づくりやバックアップ体制、女性候補者それぞれの当事者性にもとづく選挙対策、セクハラ対応など、ますます明確になってきた課題を踏まえ、「女性候補者擁立プラン」のバージョンアップを進めていく。
〇女性政治家を増やすには女性政治家が働きやすい、女性支援を、活動の柱として組み込んだ政党になることが不可欠であることを踏まえ、ジェンダー平等推進本部のみならず、選挙対策の中心となる選挙対策委員会や執行役員会などの党機関が中心となって、女性候補者への適切な支援を実施できるよう環境整備を進める。(p.10 (2) 「女性候補者擁立プラン」)

対して、表現の自由に、直接的ではないが関わるかもしれない部分は、たったこれだけである。表現の自由という言葉は一切出てこない。

〇憲法に関する議論については、立憲主義を守り回復させ、解散権の制約や知る権利の尊重など、国民の権利擁護・拡大に寄与する観点から議論対応していく。
憲法9条の改悪や解釈改憲には明確に反対し、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権という日本国憲法の原則を徹底して守っていく。(p.8 (1)ボトムアップ型政策づくり)

さらにこのニュースを見てみよう。

幹事長はお恐らく支持率についてこう考えている。つまり、元から立憲民主党が嫌いな人や、その政策を嫌っているひとは、端から支持者にならないということである。つまり、支持者が減ったということは、何かしら、支持者から嫌悪される原因があったと考えるわけである。

そして、前述のとおり、立憲民主党は、かなり最大のマイノリティに力を入れている。そして、最大のマイノリティにとって、風俗で遊ぶ男というのは、最低の搾取者・差別者であり、ミソジニストと評価されてしまう。これは、高井議員が直ちに除名されたことと重なる。これが、もし仮に、地元の女性による集会に参加したならば、罰せられなかったかもしれない。これが、支持者とカラオケやボウリング場に行ったのであれば注意で済んだかもしれない。しかし、恐らく、風俗で遊んだことというのが、大きな罪として判断されていると考えると非常に自然に説明される。

二つの理論を掲げる委員長

二つの理論は大いなる力を与えた。朝田理論は、事実も根拠も因果関係もなく、被害の存在を訴えることを可能とする力を与えた。血債の思想は、あらゆる人々に、その被害の責任を問うことを可能とする力を与えた。

そして、リベラルは、もう一つ大きな武器を持ち出してきた。「公共」という武器である。

■すべての人に居場所と出番のある社会を目指し、多様な主体が参加して「公」を担う「新しい公共」を推進します。(2017 立憲民主党基本政策)

ハーバマスという哲学者が、産業社会で失われてしまった公共圏を、新しい公共圏として、コミュニケーション的行為によって取り戻すという主張をしている。しかし、その、コミュニケーション的行為によってもたらされる公共圏とはどのようなものになるのだろうか。

はっきり言えば、「下種な大衆」や「アナクロな保守主義者」はこの公共圏に置いて圧倒的に不利となる。しかし、環境問題やマイノリティの問題によって武装したリベラルにとってはどうだろうか。恐らく、非常に有利な立場となるだろう。例えば、下種な大衆のポルノを見せろという要求は、フェミニストの差別的な表現は規制されるべきであるという正義に公共圏でのコミュニケーションで勝つことはできない。伝統を訴える保守主義者は、その振る舞いを差別的と指弾される。

これでは単なる、学級会で糾弾する委員長、うるさい風紀委員、道徳警察、紅衛兵と何ら変わらない。こんなバカなことは到底認められたものではない。

しかし、リベラルは今、この道をひたすらに走っているのである。

いつもありがとうございます!