「悲しい」「傷ついた」は「被害」ではない、私たちには無視する権利がある。

さて、以前から、フェミニストは「悲しい」とか「傷ついた」という意思表明をしながら、政治家や有名人の発言、公開された広告やコンテンツ、店頭に並べられた商品などに対して、是正を求めてきた。

このような自己を被害者化し、相手に有責性を付与していくスタイルについて、ヴィクティムフッド・カルチャー(被害者文化)であるという視点から、先日の白饅頭氏の記事で詳細な批判が繰り広げられている。

筆者も、この記事の前日に、このようなTweetをしていた。

結局のところ、「傷ついた」などと言っている連中は、被害者である証拠は一切ない。この記事では「被害」などというものは端から存在せず、そのような「訴え」を無効化することについて議論する。

岡村隆史の失言に対する法的検討

先日から炎上している、芸人の岡村隆史の問題とされた風俗に関する発言は、よく考えれば、具体的に誰かの名誉、信用などを害すものではない。いわゆるパワハラに見られるような、言葉によって精神が害されることによる暴行や傷害にも該当しない。つまり、法律には反していないし、一般的に保護法益や立法事実となるような、具体的な権利侵害になりうるようなものは一切見られない。

もう一つ、言論・表現においては、具体的な被害が無くとも、明白かつ現在の危険がある場合は規制されうるという考え方がある。実際に、破壊活動防止法や爆発物取締規則に見られるような扇動罪規定があり、過去、適用例が存在する。具体的に「明白かつ現在の危険」の法理が判示された例として、泉佐野市民会館事件では、敵対的党派の襲撃の危険性を理由に、施設を管理する市が使用を拒否したことについて、集会の自由から、原則的には敵対的聴衆の法理として許可すべきところ、警察力等によっても危険を回避できないとして、明白かつ現在の危険により市の使用拒否を問題ないとしたという例がある。また、同じような事件で逆に危険を回避可能、つまり明白かつ現在の危険は無いとして、使用を許可すべきと判示した判例もある。

有名な事例になぞらえると、例えば、ルワンダ大虐殺のきっかけとなったと言われているラジオ放送は、特定個人の人権を侵害するものではなかったが、ラジオ放送をきっかけとして大虐殺が発生したことから、「明白かつ現在の危険」があったと考えられる。

さらに、明白かつ現在の危険の基準として、アメリカの判例であるが、日本でも講学上現在広く受け入れられている、ブランデンバーグ基準という基準がある。この基準は以下のとおりである。

差し迫った違法行為を唱道するか、またはそのような行為を生ぜしめる可能性が高い場合

さて、岡村隆史の発言に戻ってみよう。彼の発言のどこが、「差し迫った違法行為を唱道する」ものだったのか? 「そのような行為を生ぜしめる可能性が高い」ものだったのか? 全くそんなことは無い。つまり、彼の発言は、法的に見る限り、何か問題があるとは思えない。

「女性差別問題」を無視する自由

さて、前節まで岡村隆史の発言をもとに、法的に問題があるかの検討をした。検討した結果は、当然のごとく問題ないということになった。とはいえ、この発言に「不快感」を感じる自由はある。多くの人が不快感を感じるのであれば、ラジオ局やスポンサーから問題視されたり、今後の芸能活動に支障するという可能性もあるだろう。ゆえに、謝罪をしたりする必要が出てきたりすることもあるし、実際に謝罪し、番組で公開説教を受けるという、屈辱的なことにもなった。ただ、重要なことは、「不快感」というのは、単なる自由な個人の感情に過ぎないということである。

しかし、岡村隆史の発言について、単なる不快感の問題ではなく、女性差別であるので批判しているという議論をする人が少なくない。確かに、フェミニズムの理論や、様々な女性差別問題に関する知見からは、当該の発言が女性差別であると判断することは難しくない。これは、今まで批判を受けてきた、日本赤十字社の献血事業と宇崎ちゃんは遊びたいのコラボ、西浦みかんとラブライブとのコラボなども同様である。また、国連女子差別撤廃委員会の勧告など、これらを補強する材料に事は欠かない。

しかしながら、よく考えてみれば、私たちは、そんな理論や知見に同意する義理は一切ない。国連の勧告に従う義務など一切ない。むしろ、これらの存在を否認する自由がある。このような主張を、前提から、全て、一切、承認せず、否認することは別に難しい話ではない。私の知ったことではないと言えば十分である。人は、自らが行った行為についてのみ責任を問われ、家父長制だの、男性中心社会だの、累積的抑圧だの存在するかもあやしいクソ概念の責任を取る義務も義理も無い。

これが具体的に責任を伴う話であれば、そうはいかない。親であれば自分の子どもを保護する義務がある。金を借りれば返さなければならない。しかしながら、フェミニズムの理論、女性差別問題の知見、国連女子差別撤廃委員会の勧告、男女共同参画基本法のクソどうでもいい努力義務、エラソーな社会学者やら映画女優の製造した全く無意味な文字列、こんなものに従う義理など私たちには一切ない。

当然に、社会にもそんな義務は一切無い。社会の成員たる私たちに強制することが不可能であるのだから、社会も当然にそんな義務を負うことはできない。

全ては、戯言、我儘、お気持ちである

前節までの議論で、「悲しい」といったお気持ち、また、フェミニズムの理論や、女性差別であると言う訴えに全く効力が無いことを証明した。全く具体的な被害を伴わないお気持ち、こっちの全くあずかり知らぬフェミニズムの理論やらなんやら、そんなものは、一切意味が無い。

もし彼女らが、何かケアを求めるならば、それは自腹でカウンセラーにでも精神科医にでもかかればいい。こっちは、赤の他人のお気持ちをケアしてやる義理なんか一切ない。そういうのは、金のような対価を払って初めて得られるのだ。まあ、もちろん、性的対価を払うことで、ケアしてくれる彼氏に出逢えるかもしれないが。

これからは「自分の気持ち一つ」である。「悲しい」「傷ついた」「女性差別だ」などと吹き上がる馬鹿どもに対して、「お前の気持ちなど知らん」「被害の証拠出せ」「お前らの独自理論は認めん」とイチイチ言い募って、嫌な気分にさせなければならない。そうすれば、彼女らの最大の武器を奪い取ることがきっとできるだろう。

補遺 インテリリベラルによる抑圧について

近年、SDGsだのESG投資だの、フェミニズムを内部に含んだ様々な国際的な取り組みが広がる中で、フェミニズムの理論に基づいた施策や、投資対象の選定等が行われる動きが出ている。これらには、私たちは断固として拒絶せねばならない。これらに対して、一切協力してはならない。合法的な範囲で妨害せねばならない。徹底的に、反発しなければならない。

結局のところ、このような「社会運動」なるものは、人々の協力が無ければ意味をなさず、善意を前提とした運動は、それゆえの脆弱性を抱えているのである。


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