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逸脱者を石もて追う者。それでも、小さな声を聞く者。

さて、新型コロナウイルス感染症に関連して、感染者や行動、県外ナンバー、医療関係者などに対して、プライバシーを暴いたり、様々な攻撃、権利侵害に及んでいるといったことが報道されている。あるいは、いわゆる自粛警察と呼ばれる自粛要請に従わない・対象外なので営業している店舗に対して、攻撃的な張り紙や怒鳴りつけたりするといった報告も多数SNSをにぎわせるようになっている。

もちろん、これらの行為は批判をされたり、公共機関が差別問題として啓発をするといった動きも出てきている。反面、人々の排除意識は日々高まりつつあり、同じような報道や、SNSでの愚痴はどんどん積みあがっている。

この状況を見て、進化心理学の知見をSNSで披露する人はこのように言っている。

確かに、彼の言う通り、これらの行動は進化の過程で獲得した感情であって、否定しがたいのかもしれない。

この記事では、この問題をどうやって回避するか、我々に回避する手段があるのか、我々はどうするべきなのかを議論をしていきたい。

自然状態という嘘

現代の民主主義による近代国家を規定している基礎的な理論として社会契約説という説がある。それぞれ、トマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソーという三人の17~18世紀に活躍した思想家の思想である。それぞれの思想を簡単に見てみよう。

ホッブズは、人間の自然状態を万人の万人に対する闘争と規定した。人は争い、奪い合う中で、これでは損だと気付いて代表者、つまり王を立てて、そこに他人から奪う権利を委譲し、その統治下に入ることで殺し合いを回避するという契約、社会契約を結ぶということを考えた。こうしてできた国家を、ホッブズは伝説の海獣になぞらえてリヴァイアサンと名付け、それを自らの主著のタイトルとした。

ジョン・ロックは少し違った。彼は、人間の自然状態を真っ白な白紙状態と考え、自然と対話する中で成功や失敗を積み重ね、そして自然から何かしらの収穫を得ていく存在だと規定した。これは、当時のイギリスの自作農に寄った考えである。そして、人々は、自らの努力により自然から得た収穫を奪われないように、他人から奪う権限を放棄して社会契約を結ぶという考えをまとめた。このロックの考えは、現代社会における財産の保護、資本主義に大きく影響している。

スイスに生まれフランスで活躍したルソーはイギリス人の二人と全く異なる考えをしていた。彼は、もともと自然状態の人間は、他人から奪ったりするような存在ではなく善良な野蛮人であったと考えた。それが、文明の発達により不平等が生まれ、嫉妬、奪い合い、そういったことが起きるようになってきたと考えた。しかし、ルソーはここで今一度、人々をして社会に対する正しさを実現してほしいと考えた。そこで、ルソーは一般意思という正しい意思の概念を規定し、皆が理性を持って、皆のことを考えて、一般意思に向かって社会契約を結べば正しい統治が行われると考えた。ルソーの考えは、一般意思という実際には存在しないものに向かうという意味で全体主義的に影響を与えたが、同時に、人々が理性をもって社会契約に向かうという考え方がのちのフランス革命と民主主義の基盤となっていった。

ただ、冷静な読者諸兄はお分かりかと思うが、万人の万人に対する闘争も、真っ白な白紙状態も、善良な野蛮人も、そんなものは自然でもなんでもない、思想家の妄想に過ぎないのである。人類は、そんな単純なものではなかった。現代において、社会契約説的にリベラルな正義の構築を目指し、人間の原始的状態から普遍的正義を導こうと正義論を書いたロールズも、その想定は先進国の価値観でしか通用しないと批判され、それを認めた。

逆にロールズを批判してきたコミュニタリアンの言い分も酷いものである。結局彼らの言い分は、公共圏で討議することで、妥当な結論が出る程度のことで、それは先ほど見てきた、余所者、逸脱者を石もて追う連中がこれだけ出ている場では単なるリンチ会場としてしか機能しないだろう。

目先を変えてバークの保守主義はどうだろうか。フランス革命に反対したバークは、昔の人の考えたルールはそれなりに理由があるし正しいと言っている。しかしそれは、結局のところ余所者は石もて追えという考えと非常に親和性が高いと言わざるを得ないだろう。

そう、実は私たちは、余所者や逸脱者、敵に石を投げ、その資源を奪うことを的確に防ぐための政治的手段を実は全く保有していない。世界中どこにもそんなものは存在しない。リベラルのような包摂する思想があるではないかという人も居る。しかしながら、ほとんどのリベラル派(支持者)は徹底的に保守層を嫌悪し、人間以下の野蛮な動物か、バカか、金で動いていると思っているのが透けて見えている。むしろ、右も左も関係なく政治こそ敵と味方を分けて、石もて追う理由となっている。

パンドラの箱の底に残ったもの

しかし、私たちは、実は、最後の武器を持っている。そう。この記事を読んでいる諸兄は、余所者や逸脱者に石を投げてはならないということを知っている。

関東大震災の際に、警察が保護した朝鮮人や中国人を殺してしまおうと匕首や鳶口で武装した千人の群衆に対して、武装はサーベルしかなく三人の手勢しか居ない大川常吉鶴見警察署長はこう言った。

鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ

筆者は、この記事を読んでいる諸兄が、然るべき立場にあるとき、自らの命を懸け、あらゆる敵に立ち向かい、無実の余所者、迫害を受ける者の権利を守ると確信している。

大川署長は知っていた。朝鮮人も中国人も脅威ではなく、井戸に毒も入れておらず、盗みも働いていないことを。大川所長は示した。朝鮮人が持っていた一升瓶を一口飲み、それが単なる醤油に過ぎなかったことを。彼は、理性を以って何が正しいかを知っていて、それを反証可能な証拠によって示そうとしたのだ。もちろん、群衆は聞こうともしなかったが。

我々は、今一度、自分の内なる理性の声、それは進化によって得られた感情に比べれば小さく、弱いものかもしれないが、それに耳を傾けなければならない。

太平洋戦争のとき、墜落した米軍のパイロットの多くは地元の住民に暴行され、少なくない数が殺害された。しかし、ある村では、日露戦争に参戦した古兵がこう言って保護していた。「降り兵は撃っちゃなんねぇ。オラは戦争に行ったとき教えてもらったんだ」と。

理性を信じるということ

私たちは知っている。投降した兵は撃たず、捕虜として保護し、ヘルメットやガスマスクのような個人防護具を没収せず、食事を与え、家族と手紙のやり取りをさせてやる必要があるがあることを。

私たちは知っている。囚人は安全が確保され、清潔な衣類や寝具が提供され、入浴や適切な医療が供給され、更生のために運動や娯楽、家族との通信の機会が確保されなければならないということを。

私たちは知っている。難民は逃げてきた国に追い返されず、安全が保障され、衣食住と医療が提供され、正当な裁判を受けることができて、適切な教育を受ける権利があるということを。

私たちは知っている。災害時に現れた知らない人間は犯罪者などではなく、保護すべき被災者であるということ、余所者だというだけで避難所から追い出される理由はないということを。

私たちは知っている。図書館には資料を収集する自由を有し、図書館は資料提供の自由を有し、図書館は利用者の秘密を守り、図書館は全ての検閲に反対すること。

私たちは知っている。1789年の人権宣言は、明白で無謬の真実を語っているということを。

今こそ、信じよう。いつも感情に負けてしまう理性の小さな声を。

いつもありがとうございます!