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なんで演劇界はあんなにも居丈高なのか

平田オリザの発言が大炎上した。

最初はこのインタビューのこの発言だった。

それから、ぜひちょっとお考えいただきたいのは、製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる。でも私たちはそうはいかない。製造業の支援とは違うスタイルの支援が必要になってきている。観光業も同じですよね。部屋数が決まっているから、コロナ危機から回復したら儲ければいいじゃないかというわけにはいかないんです。批判をするつもりはないですけれども、そういった形のないもの、ソフトを扱う産業に対する支援というのは、まだちょっと行政が慣れていないなと感じます。

当然に、製造業もそう簡単に増産は出来ない。単純に考えても、1日に100個製品を製造できる工場が、1日に200個製造しようと思ったら、工場の拡張や、製造設備の購入、従業員の確保をしなければならない。そして、これらの資産は何年もかけて償却することになるだろう。

では、今のうちに生産しておけば良いと考えるかもしれない。しかし、今生産したものが、将来売れるという保証はない。倉庫の賃料もかかるし、現代の製造業にとって在庫はリスク・コストでしかない。それに、原材料のサプライチェーンに問題が起きている中では、原材料の在庫も極小化されている現代の製造業は物を作ることは出来ない。

この発言に対する猛烈な批判の後、平田オリザは悪意ある切り取りをされたという意見表明をしている。しかし、冷静に考えれば製造業の実態を知らないのに安易に言及したことこそ非難されていると考えられる。そして、さらに彼の発言は続く。

これらの発言についても、各分野の専門家から実態との乖離、誤解について厳しく追及されている。しかし、彼は、このような批判に対しても馬耳東風であり、演劇界からは何人もの擁護者が現れている。あるいは、ある小劇団の主催者は、和牛券を批判したその口で、自分たちへの支援をすることが文化を守ることであると主張し、そのダブルスタンダードを追求されている。

この記事では、なぜ演劇界の重鎮や、少なくない人々が社会に対してある種居丈高な態度を取るように振る舞うのか。このことについて議論をしてみたい。

分かりにくい演劇の価値

演劇と言っても、梅沢富美男に代表される大衆演劇や、ライオンキングなどで有名な劇団四季、宝塚、2.5次元といったジャンルは、純然たるエンターテイメントとして、観客を楽しませることを目的に行われている。観客は、単なる娯楽として観劇し、それにたいしてチケット代やグッズ、おひねりなどを通じて金銭的対価を支払っている。あるいは、劇団四季や宝塚は、もっと総合的な体験としてエンターテイメントを提供しているかもしれない。そして、こういったエンターテイメント型の演劇業界からは、他の産業分野に対する無理解や、他産業に対する支援への非難といった声は聞こえてこない。

対して、今回、問題発言に至った平田オリザや彼の擁護者、あるいはその他のダブルスタンダードな発言をしている者などは、いわゆる、そういったエンターテイメントとは一線を画した、小劇場演劇と呼ばれるものである。小劇場演劇はエンターテイメントを全く無視しているわけではないが、はっきり言えば同じチケット代ならば、エンターテイメントを目的とした大衆演劇などの方が、よっぽど面白いと言える。しかしながら、観客は似たような値段のチケット代を払って観劇している。

理由はいろいろあるだろう。少なくない小劇場演劇では演者にチケットノルマを課して、演者のファンや、友人などで客席を埋めている。しかし、恐らく問題の本質はこの理由ではない。恐らく問題のきっかけとなっているのは、明らかにエンターテイメントとしては完成度の高い大衆演劇などではなく、小劇場演劇の方を面白い…… funnyではなくinterestingと言う観客にある。

現代におけるファインアート

この問題を考えるために、現代におけるファインアートの位置というのを確認する必要がある。ここでは、現代におけるファインアートとは何かという問題を見ていこう。

ファインアートというのものは一般に、アートのためのアートであるというような説明がされる。もちろんこの定義は重要だ。しかし、デュシャン以降、明らかに一つの大きな定義がのしかかってきた。それは、批評によってアートとみなされたものはアートであるという考え方だ。良く考えてみよう、はたして、自由に回転するように置かれた自転車の車輪や、横に置かれた小便器はアートなのだろうか?

(デュシャン「泉」1917 2015-11-21 ポンピドゥーセンターで筆者撮影)

これはアートである。

そして、もちろん、ある意味「落書き」と評されるバンクシーの作品はアートである。そして、作者がアートとして評されることを考えてなかったであろうヘンリー・ダーガーの非現実の王国でも、あるいは単なるお守りだった可能性の高いデュッセンドルフのヴィーナスもアートである。それとも、田舎の農家で使われている茶碗もアートかもしれない。

単なる車輪や小便器をアートをレディメイドと名付けてアートとしたデュシャンは、アートとは何かという批評性を以て、これらをアートとして確立させた。あるいは、非現実の王国ではアウトサイダーアートとしてその遠大な物語が評価されアートとなった。また、古代人の作ったお守りの人形である、デュッセンドルフのビーナスも学者や批評家によってアートと見做されている農家の茶碗も、用の美という概念で柳宗悦が拾い上げれば立派なアートになった。

つまり、実は、アートというのは、その鑑賞者や批評家が評価することによって、その価値が決定する。しかし、考えてみよう、これらのアートと呼ばれるものよりも、一時期のみつみ美里や、今の比村奇石のイラスト方がよっぽど多くの人に人気があるのではないかと。実はこれは問題にならない、オタク向けイラストを、そのまま評価する批評家やアート愛好家は居ない。なぜならば、そこに批評性を発見することができないからだ。そして逆に、オタクのモチーフを使い、それをさらに奇形化し、パターンとして繰り返していくことで批評性を獲得したアーティストが居る。そう、察しの良い読者は分かるだろう、村上隆である。

つまり、実はアート鑑賞というのは、そのアートの持つ批評性や、歴史的位置づけ、様式作者の意図と思しきもの、他の作品との違い、それらを評価する知識と理論を理解している鑑賞者や批評家との、一種の共犯関係によって成立するわけである。そして、一部の金持ちが、アート作品に法外な値段をつけて購入するというのは、購入者をして「私は一見ただの落書きに見えるこのアートの、難解な批評的な意義が理解できる者である」ということを示すスノビズムの格好の素材だからである。そして、そうであるがゆえに、少なくないアーティストが、自己の作品が単なる娯楽作品と異なり、批評性のあるアートであると示すように振る舞うようになるのである。

小劇場演劇というアート

つまり、小劇場演劇というのはアートの側面が非常に強い。特に今回、発言が大きな問題になった平田オリザの書いたような難解な戯曲は、まさしく批評家にその批評性が評価されたアートなのである。そして、平田オリザはその高い芸術性を評価されフランスでシュヴァリエに叙勲され、数々の賞を獲得してきた。

しかし、アートというのは、その批評性獲得のために交換条件を要求する。例えば、村上隆の作品というのは、別に萌え絵やその他イラストレーション、フィギュア制作という観点で見れば、実はほぼ同じ価値しか有さない。しかし、村上隆の作品が画廊にかかげられれば、それらのエンターテイメントの作品とは一線を期した、批評性のある高尚なアートとして、とんでもない値段がつくことになる。そしてこれが、購入者や鑑賞者の嫌味なスノビズムと合体すればどうなるだろう。批評性の無い量産品のイラストを何枚も集める愚かな大衆と、アートの批評性と真の価値が分かる購入者や鑑賞者という構図が出来上がってしまうだろう。もちろん、実際にこんなことは起きていないが、単にそれは、現代アートが法外な値段がするもので、購入者があまり嫌味なことを言わない程度に余裕のある金持ちであるということ。それ以外に、スノッブな人が鑑賞する美術展は、大衆にも納得できる評価の確立したある程度古典的なアートがほとんどであるというだけに他ならない。

対して、小劇場演劇は、法外な値段でアートを購入してくれる一部の好事家に対してチケットを売るということができない。それでは、劇場はガラガラになってしまう。だから、小劇場演劇のチケットというのは「僕はアートの価値が分かるんだ」というスノビズムに濡れた、サブカル病患者に、そのすべてではないにせよ、少なくない割合のチケットを売るしかなくなってしまう。そして、演出家や劇場主、演者は、このサブカル病患者の期待に応え続けるしかなくなってしまう。「僕たちは大衆と違って、価値のある難解な作品の批評性を理解できる選ばれた人間だ」という自己認識に応え続けるしかなくなっていくのである。

その意味で、平田オリザは正しい。小劇場演劇は、油と埃にまみれて単にラインを回すだけの製造業と異なる高尚な批評性を持つ守られるべき文化でなければならない。国内に掃いて捨てるほどあり、何をやっているかもよくわからない中小企業などより、劇団は高踏な価値を有する文化集団である。アシスタントを切って印税を貰って左うちわの漫画家と比べて、経済的に苦しい中で芸術性を追求する演劇はまさに芸術である。そして、こうやって、他の下品な存在とは異なり、圧倒的に高尚な存在である小劇場演劇を高く評価するのは科研費の申請と同様に当然のことなのである。

おわりに

これは、小劇場演劇という、一種のアートであるにもかかわらず、少数の金持ちの好事家ではなく、大衆に多くのチケットを少額で販売しなければならないという、ある種の歪んだ構造が、生み出した一つの失敗だと筆者は考える。そして、筆者は恐らく小劇場演劇がこのままであれば、同じような過ちを何度も繰り返すであろうことを予言するしかないのである。

いつもありがとうございます!