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フェミニストのヤクザ論法と、ヤクザ者を排除する技術に学べること。

さて、実は、人々の会話というのは、さまざまな前提をもとに成り立っている。もちろん、その言語を知っているという前提が無ければ会話は成立しないが、それ以外にも様々な前提を基に人々は会話をしている。

よく家庭内などの親しい仲において「あれを取ってくれ」と言われて、何を欲しているかを的確に判断し、「あれ」を渡すといったことが行われる。あるいは仕事の中においては、様々なジャーゴンが使われたり、ある職場では「台帳」という言葉が実質的に固有名詞になっている、といった例は多い。

システムエンジニアが「親が死んで、子供がゾンビになったから、子供を全部殺さないとだめだよ」と言った場合、それは、「親プロセスが何かしらの理由で停止した際に、ゾンビプロセスとなった子プロセスを終了させなければならない」という意味のことを言っている。別に、物騒な殺人計画について話しているわけではない。

もちろん、こういった「その場のルールに合わせた会話」というのは、仕事を効率化させたり、あるいはメンバー間の結束を強めたりする。このような言語の使用方法を、20世紀最大の哲学者の一人、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは言語ゲームと言う言葉で定義した。

この記事では言語ゲームについては議論しない。この記事では、こういった言語ゲームと呼ばれるような会話の裏に、巧妙にまぎれこまされていく隠された前提について議論をして、それによる巧妙な操作に対抗する方法について検討する。

隠された前提

実は、多くの議論を巻き起こす発言には隠された前提が存在する。

これは、マンガ宇崎ちゃんは遊びたいの献血コラボポスターに対して、人権派弁護士として知られる太田啓子が批判を加えた事例である。この発言をきっかけとして、ポスターの撤去が行われたり、ネット上では賛成派と反対派による極度の対立が生まれ、未だに問題は燻っている状態にある。

さて、ここでこの太田啓子発言を見てみよう。太田啓子は最初の方に「本当に無神経だと思います」と言っている。しかし、よく読んでみれば何が無神経なのか、それがいかなる基準から見て無神経なのか、何かしらの具体的被害や違法行為を発生させているのか、実は何も書いていない。実は、この文からは、自分にとって無神経(不快)に感じた、以上の事実は読み取れないのにもかかわらず、あたかも、一般的に無神経な行為であるかのごとく読み取れるように書かれている。

続きを読んでみよう。太田啓子は「公共空間で環境型セクハラしてるようなものですよ」と書いている。さて、このポスターの内容や設置状況を検討してみよう。まず、このイラストは胸が強調されているイラストであるが、露出が大きいわけでもなく、エロイラストのように過剰なセックスアピールがされているとも考えにくく、即座にセクハラの要件を満たしているとは言い難い。また、環境型セクハラというのは、単に公共のスペースに置かれている表現には該当しない。例えば、勤務場所のような、逃れられない場所でヌードポスターが飾られるといった例を指すと考えられている。つまりこれは、明らかに環境型セクハラではない。しかし太田啓子は「ようなもの」という言葉を付け加えることで、法的に処罰されうるセクシャルハラスメントではないにもかかわらず、あたかも、それと同じものであるかのように演出している。

合意されていない基準

良く考えてみよう。私たちは、いつ、あのイラストを「無神経」であり「環境型セクハラ」と同一視するような基準に合意したことがあるのだろうか? 実は、私たちは太田啓子の隠した基準に合意したことなど、今まで一度もない。とはいえ、私たちは同じ社会に暮らしており、何かしらの基準やルールに同意してなければ、それこそ社会は成立せずに、世紀末世界が広がっているだろう。つまり、実は私たちは最小限の合意というものをしていると考えられる。

私たちがしている最小限の合意とは何だろう。理念から言えば社会契約と言えるかもしれないが、実態的には罰則付きで強制する規定のある強行法規、あるいは援用的にその背景にあるリーガルマインドや学説があると言えるだろう。その上で考えてみよう、少なくとも私たちと太田啓子の間で合意しうる最小限の基準に照らして、宇崎ちゃんは遊びたいのポスターはどう評価しうるのだろうか?

結論は明白である。まず、わいせつ物には該当しない。破防法の規定にあるように騒乱や殺人や強盗などを扇動しているわけでもない。なお、強姦や強制猥褻などは扇動罪が規定されていないし、仮に規定されていたとしても明白かつ現在の危険、ブランデンバーグ基準に照らして妥当しないだろう。では、男女共同参画基本法の努力義務に反するとも言えなければ、そもそも罰則規定すらない。当然にヘイトスピーチ対策法にも該当しないし、その法律には罰則規定が無い。では、民事上の不法行為に問えるのかといえば、たとえこのイラストを見たことにより、何かしらの損害を受けたと訴えたとしても、到底、違法性を証明することは不可能だろう。

つまり、太田啓子と私たちが、最小限の合意をしている基準においては、何ら当該イラスト違法性や問題を証明することは不可能である。しかし、にもかかわらず、太田啓子は当然に問題があると言うように振る舞い、また、多くのフェミニストは自らが被害に遭っているように振る舞っている。しかし、もう一度言おう、私たちはその基準に一切合意をしていない。

合意されない基準を振り回す者

つまり、この問題をはじめとして、実は、多くのフェミニストは合意されない基準を振り回し、勝手な理由で攻撃し、非難する相手を追い込んだりしている。これは、何かに似ている。全くあずかり知らない勝手な基準を持ち出して、金品を要求したり、暴行する何かに。

そう、これはヤクザが縄張りでみかじめを取ったり、目が合った相手にガンをつけたと因縁をつけ殴り倒す仕草と全く同じである。私たちは、一般にヤクザにみかじめを支払うという合意をしていない。むしろ払ってはいけないと警察や暴排センターが啓発をしている。税金を払うことには、たとえ渋々だとしても合意していることと対照的である。

同じように見てみよう。これを読んでいる諸兄は、刑法175条(わいせつ物頒布等)に基本的には反対していると思われる。しかし、この法律をあえて破ろうとはしていない。つまり、従っている。これは税金と同じである。そして、私たちは一般にフェミニズムの指摘を受け入れたり、成果と呼ばれる何かを反映させるということに合意していない。しかし彼女たちは、無法な炎上を通じて合意せざるを得ない状況か、逃げなければならない状況に追い込む。これは、ヤクザのみかじめとほとんど変わらない。

あるいは、オウム真理教が殺人を実行するに至った教義である、タントラ・ヴァジラヤーナ(金剛乗)という教義を見てみよう。これは、煩悩から解放され解脱することを最高の目的とするオウム真理教において、教団の活動を妨害する者は、煩悩からの解放を目指すどころか解脱を目指す教団を攻撃することにより悪いカルマ(業)を積んで解脱から遠ざかっていると定義し、生きていればさらに悪いカルマを積んでしまうので、これを殺害することは、むしろ善行であり良いカルマとなるという論理である。彼らはこの教義に基づき、善行として殺人事件を起こしていった。この教義は、確かに論理的には整合しているかもしれないが、私を含めて日本中の人々は、当然にこれを認めなかった。

暴排運動から学べる事

もしあなたが店を営業しているならこれらの運動を聞いたことがあるだろう。もし、フェミニストのやり口がヤクザまがいのものであるとするならば、私たちは暴排運動に学ぶ価値があるだろう。

暴力団追放三ない運動+1

暴排には、その代表的な標語・運動として、暴力団追放三ない運動+1というものがある。その内容を見てみよう

暴力団を利用しない

暴力団にボディガードや、ライバルの排除を頼むのは得策ではない。通常、ヤクザに依頼することは違法行為であり、それは弱みになり、一生食いつかれる。同じように、まあまず無いとは思うが、フェミニストに何か一致する面を見つけても、利用してはならない。

暴力団を恐れない

確かに、フェミニストによる炎上騒ぎは盛り上がり、ニュースサイトに取り上げられたり、取材が来たり、クレームの電話が入ったりする。しかし、実際のところほぼ実害はない。話題が鎮まるまでおとなしくしておけばいい。こういった炎上というのは燃料が尽きれば自然と鎮火することがほとんどである。

もちろん、これが、個人を狙われるようになり、燃料の自己供給が始まった場合(ex. 唐澤弁護士、スマイリー菊池)は、ちょっと変わってくるが、フェミニストの炎上についてはそういった例はあまり無い。

暴力団に金を出さない

これは重要である。特に、フェミニスト最大の問題は資金源である。アカポスにありつけていないフェミニストは、いくら社会的に評価されようと、経済的には苦境に立たされている場合が多い。良い例が石川優美である。あるいは、勝部元気のオンラインサロンが惨憺たる状況になったことも記憶に新しい。多くの被害者感情をこじらせただけの野良フェミニストは被害者故に、金を出さない。

そして、私たちも自治体の男女共同参画講演会や人権研修に誰が呼ばれるか、炎上騒ぎの後に監修をしてやろうという火付け強盗が出てこないか、あるいは仕事で契約を結ぼうとしている相手方がフェミニストではないか、よくよく考えていった方が良い。ある程度の企業であれば、CSR名目でフェミニズムに触れられていることが珍しくないが、契約相手方のウェブサイトなどは良く確認しておくべきである。通り一遍か、肩入れしているのか。

暴力団と交際しない

フェミニストと交際しないことは重要である。人は、知っている人間に甘くなり、呵責なき攻撃に躊躇してしまう。そして、今や、フェミニズムは国連によるSDGsにも含まれ、様々なシーンをつかまえて、寄附、協力、賛同を求めてくる。このようなだまし討ちに逢わないように、私たちは警戒心を高めていなければならない。

暴排条項

一般に、現在の企業間の契約では、相互に、代表者や役員、会社を支配する者が反社や密接交際者に該当せず、そうなった場合は催告なく契約が解除可能となるという条項を結んでいる。とはいえ、お互いに個人事業主や零細企業でフェミニストを憎悪しているのでもない限り、フェミニストを排除するという条項を設けることは、まず不可能だろう。

しかし、フェミニストによる炎上騒ぎは、多くの場合、ライセンサーやライセンシーによるものであることが多いので、炎上になった際に、双方の同意なく、変更、取り下げ、謝罪等を禁じるといった条項をうまく入れるといった可能性は無くはない。これによって、根性ナシのライセンシーが、すぐに芋引いてケツを捲るといいったことを阻止することができる。

さて、ここまで読んだ読者諸兄は分かるだろう。ヤクザまがいのフェミニストは、暴排運動のやり方で徹底排除しなければならないことを。そして、これは、私たちの社会を守るための闘いであり、決して負けることの出来ない闘いであるということを。

いつもありがとうございます!