安心安全混同の危うさ。防疫の非情。

半世紀以上生きてきたが、日本の社会がここまで疫病の不安に駆られ、ヒステリックな状態に陥ったのを見るのははじめてだ。

確かな記憶で、前回のオリンピックの年にもコレラ騒動があった。時期が時期だけに一瞬大騒ぎになった。習志野のコレラ騒動

それ以前にもコレラ騒動はあった。バナナコレラ騒動。これが僕の最初の疫病遭遇経験。記憶時期は定かではないが台湾産のバナナが自衛隊の火炎放射器に焼かれるニュース映像が記憶に残っている。バナナは高級食材だったから。この映像は腹を空かした子供の胸にだけでなく、探究心が芽生えはじめた子供の脳にも記憶を植え付けた。疫病とはこう戦うものだと

安心安全のパッケージ販売

ここ何年だろう。多くのメディアが、企業が、政治家が、庶民が。口を揃えて「安心安全」とふたつの意味をパッケージで使う。このパッケージは、かなり以前から政策に書かれているようで、文科省の2004年の資料にも記録されている。…「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」 報告書…とても質のよい行政資料だと思った。

何がよいかというと、安心と安全それぞれの概念やメカニズムを紹介しつつ、安心・安全な社会とはどういうものかを説いている。ここでは「安心」と「安全」の間に「・」が入っており、少なくともこの時点での言葉の混同はない。しかし、僕には最近の「安心」「安全」は「安心安全」という混同された言葉になってしまったように思えてならない。

安全とは何か?

先の資料には「安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。」と書かれている。同資料にはこれに続き「設計および運用段階の安全」「事前および事後対策の実現による安全」「個人の意識が支える安全」「リスクの極小化による安全」という安全の骨子が記されている。

例えば、設計および運用段階の安全では「安全とは、設計段階において安全性が十分に考慮されているとともに、人間が運用する際における安全が確保できている状態である」といった定義がされている。

安心とは何か?

安心とは?については、この懇談会では詰めきれていない。こういう正直さにもこの資料は好感が持てる。以下に引用する。

「安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた」

大切なことは最初に書かれている”個人の主観に依存する”ということだと思う。

マスメディアと公の情報

はやめに書いておくが、COVID19による社会的な混乱は「この疫病そのものの難解さ」と「功を急ぐマスメディア」「形骸的な公の情報」「SNSの普及」によるところが大きいと僕は思っている。

最新の情報を届けるのがマスメディアの役割だが、鮮度と回数が金を稼ぐのか、以前の新聞に見られたような「背景をかみくだく。整理してまとめる。」というコンテンツがあまりできていないように思える。断片的な情報は情報を得られたという安心感はあるが、結果的に個人の頭の中を混乱させかえって不安を煽っているように伺える。もう少し、現代の防疫とはこういうことでそれに照らして云々……といった報道がほしい。

公の情報はちょっと大げさに言えば、大カテゴリに対する量的な説明が多く、「がんばってやってる」ことはよく伝わるが、なぜ?何を?があまり伝わってこなかった。神戸大・岩田教授のYouTubeを発端に検疫の中身が世の中で騒がれはじめたからか、ダイアモンド・プリンセス内の状況は一昨日に急遽発表された。…クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」内の感染制御策について…これは、数少ない「安心」ではない「安全」に関する情報だと思う。

SNSの情緒不安

数年前の放射脳漏洩を昨日のニュースと勘違したシェアが炎上するように、SNSには感情的に動く人も多い。ここ2ヶ月では「HIV薬が効く」から「中国の秘密研究の産物」まで、考えられる限りの未確認情報・憶測・デマが流れている。少し気になるのは、そういう気持ちになることを悪いことだとは思わないが、過度な同情や思いやりの声が大きい気がする。

ダイヤモンド・プリンセスの乗客についても、いつ下船できるかわからないまま監禁状態にされた人々への同情の声が先行した。水際でよく止めたという声は全くというほど聞かれなかった。YouTubeでは中国当局の強引な隔離行動が映され批判されていた。いきなり家に閉じ込めていいのか?やっぱり中国はこういう国だ。そういう声が多い。

先の岩田教授のYouTubeが発表された際も「ことにあたってる行政の担当者も自衛隊も医療の専門家も懸命に頑張っているのに、その人達の仕事を責めるこんな動画を流すなんてひどい」といった声が広がった。さすがに説明されたメカニズムが明確だったせいか、これは他人事として見ていられないという声も多かった。僕自身、乗船して仕事をされている全てのスタッフ(官も民も)は、とてつもなく大変な仕事をそれこそ身を削る思いでされていると思っていたし感謝している。今でもその気持は変わらないが、あの動画が検疫スタッフを責めたり愚弄するものだとは思っていない。

スタッフの誠実な仕事は「安心」に結びつく信頼情報であり、教授の説明は「安全」に関わる専門家の意見だったからだ。

心の防護壁をもう一回り外側に

この後どうなっていくのか?それが見えない今日、これを書いている。この程度の騒ぎのまま沈静化してくれればいいし、そのためにやるべきことがあればルールに沿って暮らしたいと思う。ただ「安心してまかせておいてくれ」だけを信じて心の準備をしないわけにはいかない。

備えは悪い方を想定して行うものだ。このあと、特定の施設(例えば自分の子供の学校)などで、集団的にこの病気が発生することがあるかもしれない。そのときに心優しい「安心」からだけでなく、非情な「安全」からものを考えられるか?そんなことを考えている。今回、安全を実現する防疫の基本は隔離にあると学んだ。隔離する側、隔離される側どちらに立っても非情を受け入れられるかが僕の課題だ。

この点では先の文科省の資料に苦しいながらの誠意的なコメントが記されている。「安全を高めようとすればするほど、利便性や経済的利益、個人の行動の自由等が制約され、プライバシーが損なわれる可能性がある。よって、安全性を向上させる際には、このようなトレードオフの関係を考慮する必要がある。しかしながら、より高いレベルの安全を実現するためには、安全と自由のトレードオフの次元にとどまらず、安全性と行動の自由やプライバシーを並立させる努力を続けることが重要となってくる。」

COVID19は、いまや全世界の課題になっている。(日経新聞・コロナウイルス感染世界マップ)恐らく、もう少し大きい視点に立って動揺しない自分になる必要がある。あれは真面目にやっているものへの批判だ。日本は不当に扱われている。売名行為だ。メンツを潰された…。そういう主観的で情的で殻に閉じこもるような自分など捨てておき、この病気で世界の多くの人命が奪われることがないように非情になれるか?そこに次の安心があるのではないかと思っている。






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