見出し画像

「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」 鈴木忠平 著 文藝春秋

名将野村監督のID野球がどうしても攻略できなかった打者は2人。イチローと落合博満です。彼らには、ある程度打たれても仕方がないと野村監督は考えていました。


落合博満の打撃は、見ていて惚れ惚れとするものでした。野球に全くの素人の僕にも、ボールがバットの上に乗っているところがイメージできました。そのスイングは、大きくスローモーションのようにブンと音を立てて回転しているように見えましたが、おそらくそのヘッドスピードは、とてつもなく速かったのでしょう。


落合は、和田一浩に「大きくゆったり振れ」とアドバイスしています。ピッチャーが150キロのストレートを投げてからホームベースに到達するまで0.4秒。ゆったり振る方が「ボールを長く見ていられるだろ」とのことです。落合は、和田に指の1本1本の使い方握り方まで伝授します。


落合は、現役時代、コースぎりぎりの球を簡単に打ち返すことができたのか。  なぜか、すっぽ抜けのスライダーには空振り(p.49)したのは、「投手ごと、球種ごとに軌道をイメージしていた(p.49)」から、あらゆる決め球を打ち返すことができたのですが、すっぽ抜けのような失投は、打ち返すことができなかったのです。


落合は、現役時代からクレバーでした。


そのクレバーさは、中日の監督になってからも遺憾無く発揮されました。しかし、それは、非情であるとの非難も受けました。

2007年の日本シリーズ第5戦、シリーズ史上初の完全試合を目前にしていた山井大介に代えて、ストッパーの岩瀬仁紀を最終回のマウンドに送ります(p.389)。この継投で中日は日本一の座を得ます。


また、ミスタードラゴンズと呼ばれた立浪を控えにし、森野将彦をレギュラーに座らせ、何人もの選手・コーチを首にしました。全ては、勝つために必要なことだったのです。


選手たちには、選手生命を縮めるようなヘッドスライディングなどを徹底的に禁じ、ヒットエンドランなどより確実にバントで点を取りに行きました。


当初は、選手から不満も出ました。ファンからはブーイング。親会社からは、観客数の減少と監督・選手の年棒の急上昇に不満を持たれ、ついにリーグ優勝しながら監督交代となるのです。


落合が監督だった8年間、リーグ優勝は4回、5回の日本シリーズ出場、1度の日本一という成績を残しています。


「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ。そうしたら、俺に話なんか訊かなくても記事が書けるじゃねえか(p.64)」 ・・これは、落合が、新人記者時代の著者に言った言葉です。同じ位置から、同じ人間を見る。そこから、普通なら気づかないような微妙な変化が見えてきます。そこに、落合のチームづくりの原点がありました。


落合は、組織に、常識に、世論に迎合しませんでした。ただ「勝つ」という契約を守るために、自分の頭で考え、自分で理論を組み立て、そしてチームを勝利に導いたのです。最初は反発していた選手たちも、落合の考えを理解していきました。落合を理解できなかったのは、フロントをはじめとする外部の人たちでした。


天才は、孤独です。でも、近くにいる選手たちが理解してくれれば、幸せなのかもしれません。


「お前らのこと認めてやるよ!(p.398)」と、落合は、自らが解任された直後2011年リーグ優勝した夜、選手たちに言いました。選手たちにとっては、最高の言葉だったことでしょう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?