見出し画像

「ファイト」 佐藤賢一 著 中公文庫」

左回り、左回り、ダンス、ダンス、蝶のように舞い、それから高速の左ジャブ二発、ステップ、ステップで横に流れて、左右のワンツーを蜂のように刺す(p.32)・・・"蝶のように舞い、蜂のように刺す “(Float like a butterfly, sting like a bee)。モハメド・アリのボクシングは芸術です。

  

「ファイト」は、アリの4つの戦いを描いた小説です。対リストン戦、対フレージャー線、対フォアマン線、対ホームズ線です。

フロイド・パターソンを1ラウンドKOで下してチャンピオンになったソニー・リストンを、アリは7ラウンドにTKOで破ってチャンピオンになります。

アリは、試合前のインタビューで、8ラウンドでKOすると宣言していましたが、それには根拠がありました。アリには無尽蔵のスタミナがあり、3、4、5ラウンドを動き回り、リストンを疲れさせ、その後に仕留める作戦だったのです。アリは、ただのホラ吹きではなく、クレバーだったのです。

  

タイトルマッチの試合展開は、ほぼアリの目論見通りになりました。リストンは、アリのダンスについていけず、繰り出すパンチは、ミリ単位で避けられます。アリは、リストンの左目を確実に潰していきます。7ラウンドのゴングが鳴っても、リストンは立てませんでした。こうして、アリはボクシングヘビー級の世界チャンピオンになります。

  

プロになる前、アリは、ローマオリンピックのライトヘビー級の金メダリストでした。しかし、当時の黒人に対する差別で、地元のルイヴィルでさえ、アリに料理を出そうとしないレストランがありました。


アリの元々の名は、カシアス・クレイでした。プロになりソニー・リストンを破りチャンピオンになった翌日、カシアス・クレイは、自分がイスラム教徒であることをカミングアウトし、一週間後に名前を「モハメド・アリ」に改名しました。彼が、イスラム教徒になったのは、白人社会への抗議だったのです。

  

その後、アリは9回防衛しましたが、ベトナム戦争での徴兵拒否により、ボクサーのライセンスを剥奪され、世界チャンピオンの座を無敗のまま奪われます。アリは、25歳〜27歳という全盛期に、ボクシングの試合に出ることができなくなったのです。アリが再び世界王者への挑戦権を得たのは、1971年、29歳の時でした。対戦相手は、人間蒸気機関車・スモーキング・ジョーこと、ジョー・フレイジャーでした。

  

共に無敗のままの対戦でした。その世紀の一戦で、アリは、フレイジャーに判定負けします。常に細かく上下左右に頭を動かすスタイルで接近してくるフレイジャーにアリは恐怖を感じたのかもしれません。そして、今までかわせていたはずのパンチが避けられないことに気づきます。タイトルを剥奪されていた4年間のブランクは大きかったのです。アリのピークは過ぎていたのです。もはや、かつてのダンスはできなくなっていました。アリは、プロとして初めての負けを喫します。

  

そのフレイジャーを2ラウンドTKOで下して世界チャンピオンになったのが、ジョージ・フォアマンです。その試合を僕はテレビで見ていました。あのフレイジャーが1ラウンドで3度のダウンを奪われるのです。フレイジャーは口から血を流し、信じられないという顔をしていました。ジョージ・フォアマン・・・すごいチャンピオンが現れたと思いました。

  

そのフォアマンに、アリは挑戦権を得ます。1974年、アリは32歳になっていました。戦いの場は、ザイールのキンシャサです。アリは、得意の"蝶のように舞い、蜂のように刺す “作戦だったそうです。体重も全盛期近くまで絞っていました。しかし、1ラウンド目でその作戦が不可能であると、アリはさとります。マットがふわふわで、得意のダンスができず、ロープ側まで追われます。ロープもゆるゆるでした。そのとき、アリは気づきます。このゆるゆるのロープを使えばいいのだということに。ロープに寄りかかっていれば、フォアマンのパンチを流すことができます。その後、アリは、このロープに寄りかかる作戦、後にrope-a-dopeと呼ばれる作戦に徹します。この小説では、素王なっているのですが、僕は、試合前、アリはすでにプランBとしてrope-a-dopeを考えていたと思います。1ラウンド目で、アリはプランBで行くしかないと判断したのでしょう。それだけ、フォアマンは俊敏で、パンチも重かったのでしょう。


アリはフォアマンの振り回すパンチを受けながら、フォアマンを罵ります。「このミイラ野郎!お前のパンチはこんなもんか!」フォアマンは、アリを打ち続けます。6ラウンド、7ラウンド、さすがのフォアマンも疲れが出てきます。そして、8ラウンド目、アリを追い詰めたフォアマンがほんの一瞬下を向きました。それをアリは見逃しませんでした。右回りでステップを踏みながら右ストレート、ワンツー、我にかえって追いかけてくるフォアマンに左フック、そして右ストレートを顎の横に打ち抜くと、フォアマンは螺旋を描いてマットに沈みます。アリは8ラウンドKO勝ちでチャンピオンに返り咲きます。この戦いはキンシャサの奇跡と呼ばれます。

https://www.youtube.com/watch?v=kANNhbDt-fQ

  


最後に描かれた戦いは、対ラリー・ホームズ戦です。アリは、フォアマンを破って以降、順調に防衛をしていきますが、レオン・スピンクスに判定で敗れます。そのスピンクスにリマッチで勝ち、ヘビー級で初めて3度世界チャンピオンになったボクサーとなり、そのまま王者を返上し、引退します。

  

しかし、その2年後の1980年10月2日、ラリー・ホームズとの世界タイトルマッチに挑みます。アリは、38歳になっていました、ホームズは、かつてのスパーリングパートナーです。ホームズは、アリのスタイルをコピーすることからはじめチャンピオンに登つめたのです。その元スパーリングパートナーに、アリは打たれます。得意のステップも6ラウンドあたりから思うようにいかなくなります。8、9、10ラウンド、アリは、ホームズからめった打ちにあいます。打たれたことのない顔も腫れ上がり、目が見えにくくなります。そして、11ラウンドのゴングがなった時、チーフセコンドのアンジェロ・ダンディが試合放棄を宣言します。アリは、初めてKO負けを喫するのです。その日の夜、アリの泊まっているホテルに訪ねてきたホームズは、ドア口に立ったまま言います。「あんたは今でもグレーテストさ。あんたのことは好きなんだ。なあ、モハメド、本当に」・・・泣けるシーンですね。

  

一つの写真を紹介しましょう。モハメド・アリが初防衛戦で、ソニー・リストンとリマッチで1ラウンドKO勝ちしたときの写真です。僕は小学2年で、この写真はスポーツ新聞の1面を飾っていました。アリは、ダウンしたリストンに向かい、「オレがチャンピオンだ!」と宣言していたのです。彼は最高のボクサーでした。この写真は、強烈に記憶に残っています。スポーツ新聞の1面にデカデカと載っていた写真です。アリは、僕にとってのヒーローでした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?