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ハードなアプローチは有害か?その1 Aさんの事例

以前は、激しい動きや大声を出すグループセラピーが多かったのですが、最近では、もっとソフトなアプローチが主流になっています。かつてのようなハードなアプローチで、逆にバランスを崩す例もあることは事実です。また、ハードなアプローチをすると予後が悪いと言う人もいます。僕は、この「予後が悪い」という意見には懐疑的です。予後について、徹底的にカウンセリングアプローチとの因果関係を調査した例を僕は知らないからです。
また、ハードなアプローチで救われた人もたくさんいます。例えばジョン・レノンは、「プライマルセラピー」というグループワークに参加したことが、ヘロイン依存から脱し、家族トラウマを乗り越える大きな助けになったようです。プライマルセラピーでは、参加者が幼少期の抑圧された痛みや感情を再体験し、表現することにより、これらの問題を解消しようとします。ジョン・レノンは、1970年にこのセラピーを受けたことで知られています。彼はこの療法を通じて、幼少期の苦痛や母親との関係など、多くの個人的な問題を掘り下げました。レノン自身、このセラピーが彼の人生や音楽に大きな影響を与えたと語っており、特にアルバム『ジョンの魂』においてその影響が顕著に表れています。このアルバムには、彼の内面的な葛藤や成長が反映された楽曲が多く含まれています。


全ての人にハードなアプローチが有効なわけではないかもしれませんが、呼応かのある人にはあるのでしょう。


ここで一つの事例を紹介しましょう。

Aさんは当時20代後半で、技術屋としてメーカの工場に勤めていました。Aさんは新人時代から、お世辞にも会社でうまくやっているとは言えませんでした。ボーナスの査定は、同世代で最低で、上司からは、常に小言を言われていました。最も言われたのが、「協調性がない」「勝手なことばかりする」「素直ではない」とのことでしたが、Aさんには、なぜそのようなことを言われるのか理解できませんでした。


新入社員の頃、Aさんは三つのことを管理職の人たちからアドバイスされました。「工場の現場をしっかりと理解すること」、「他部署の人たちともコミュニケーションができること」、「自分の給料の三倍稼げるようになること」の三つでした。最後の「自分の給料の三倍稼げるようになること」は、将来の目標であって、それができたら一人前とのことでした。


Aさんは、現場を理解するためにという名目で、図面を片手に、時間があれば現場を歩き回りました。どこに何があるのか、どの配管がどこにつながっているのかを理解しようと思っていたのですが、どうにも複雑で覚えきれない。ある日、現場から操作室に帰ってきたら、現場のリーダーのTさんから、「おえんじゃろ?」と言われたので、一瞬なんのことを聞かれているのか迷ったものの、あぁ、そうかと思い至り、「はい、配管を追うのは難しいです」と答えた。網の目のように張り巡らされた配管を追いかけるのは、新人にとっては、本当に厄介だったのです。


Aさんが答えた後、なぜか、場が静まり、「あれっ?何かまずいことを言ってしまったかな?」という思いが頭を掠めたが、その直後、直員の皆さんがAさんを見て大笑いしたのだ。Aさんは、なんのことかわからなかったのですが、Tさんが説明してくれました。「おえん」と言うのは、その土地の言葉で「大変だ」とか「厄介だ」と言う意味で、「(配管を)追えない」と言う意味ではないとのことでした。


こうしたやり取りを通して、Aさんは、現場の直員の人たちと仲よくなっていきました。Aさんは、現場と操作室に入り浸るようになった。事務所で勉強したり書類を読んだりするのも退屈だったし、それよりも現場の人たちからの話を聞く方が面白かったのです。Tさんからは、「あんたは、変わった大卒じゃのう」とよく言われたものでした。


工場では、大卒と高卒が明確に分かれていました。シフト制で工場の作業をするのはするのは高卒の人たちで、大卒の社員は、管理・計画・企画などに携わるわけですが、大卒新人のAさんには、何をどうしたらいいのか、最初の頃さっぱりわからなかったようです。


「大卒」がどのように仕事をしたらいいのかをもっとも親身に教えてくれたのは、Mさんという、私より十歳ほど年上の先輩でした。Mさんは、新人のAさんに気さくに話しかけてくれました。


困っている時には、何度もMさんに助けてもらいました。例えば、入社二年目にこんなことがありました。Aさんが直属のB課長から命じられた英語のマニュアルの翻訳に悪戦苦闘していたときのことだ。B課長がAさんに「マニュアルの翻訳はできたのか?」と、事務所に入ってくるなり聞いてきたのです。ほとんどできていたのですが、数行だけどうしても翻訳ができないところがあり、その旨課長に伝えました。


B課長は、
「見せてみろ!」と、翻訳ができていない数行を一瞥しました。
何かヒントをいただけるのかと思っていたのだが、返ってきた答えは、「お前、辞書は調べたのか?こういうときのために辞書はあるんだよ!」と、書類を投げて返してきたのです。Aさんは、辞書ぐらい当然調べましたよと思ったのだが、その言葉は飲み込んだとのことです。「これからの世の中、英語ぐらいできなきゃダメだぞ!」と言い残し、課長はそのまま事務所を出て帰っていきました。


Aさんは、その後も一人事務所に残り、関連する文献を当たったのですが、どうしても訳すことができませんでした。
そこに、隣の係のMさんが通りかかったのです。
「おう、珍しく残業してるじゃないか?どうしたんだ?」とMさんが声をかけてくれたので、Aさんは、縋るような気持ちで、マニュアルの一部がどうしても訳せないということを伝えました。Mさんは、「ちょっと、見せてみな」と言って、原文とAさんの翻訳を読んでくれた。そして、「確かに、この部分よくわからないな。図書室で調べてみよう」と、Aさんを図書室に連れて行ってくれて、「多分参考になるんじゃないか」と言いながら、いくつかの文献を持ってきて、一緒に考えてくれました。そうしてマニュアルの翻訳は完成し、AさんはMさんの「帰りにちょっと飲んで行くか?」の言葉に誘われて夜の街に繰り出した。


後からわかったことですが、Mさんは、社内の技術屋の中で最も英語のできる人でした。英語のできる人は、あっさりとわからないものはわからないと言えるのだなということを、Aさんは学びました。


Mさんは、いつもそんな感じで、若手に声をかけ、アドバイスをしてくれました。AさんがMさんから教わったことの一つに、「省エネの方法」がありました。その方法を自分の係の装置に当てはめてみると、結構省エネの余地があることがわかり、そのことを現場のリーダーさんたちに話したところ、できるかどうか試してくれることになりました。その結果、年間数百万円のメリットがあるという結果になり、Aさんは、それをレポートにまとめました。その後も、手当たり次第、省エネ運転を行い、ある装置では、省エネに加え、生産性も上げることができました。Aさんの課は、毎年のように省エネや生産性の向上を実現しました。やがて、Aさんの提案だけではなく、現場の人が自主的に運転改善を申し出てくれるようになり、そのメリットは、年間億単位となりました。Aさんは、自分が若手技術屋の中でもっとも成果を出していると確信しました。自分の給料の三倍稼ぐなんて簡単なものじゃないかと思ったのです。


さらに、Aさんは、自分の部署以外の人たちとも広く付き合うようになっていきました。先輩たちが飲みに誘ってくれるのを、Aさんは断ることがありませんでした。当時の価値観では、「先輩からの飲みの誘いは断ってはいけない」空気があったのです。「酒が飲めなければ出世できない」などと、管理職の人から言われたこともありました。そういう時代だったのです。そして、まずいことにAさんは飲めたし、酒好きだったのです。


Aさんの先輩たちとの付き合いは、飲みに行くことだけにとどまることはありませんでした。あるきっかけで、Aさんは、管理職の人たちから麻雀に誘われるようになったのです。そのきっかけとは、持ち回りで書かされる社内報の記事でした。その社内報にAさんは、「麻雀省エネ論」と言う小文を書いたのです。内容は、「業績が悪い時は、一発逆転を狙わず、省エネなど地道な努力を続けていきながらチャンスを見極めるべきで、それは、麻雀でついていない時に、役満を狙うのではなく、ピンフ・タンヤオのような小さな手をものにしていきながらツキの波が変わるのを待つようなものだ」というおちゃらけた内容でした。その記事を読んだ管理職から誘われたのが最初でした。当時、麻雀人口が減少傾向にあり、麻雀を打てる若手がほとんどいなかったので、Aさんは、ひっきりなしに管理職の人たちから誘われるようになった。


それからAさんの夜の生活は忙しくなりました。毎日のように先輩たちと飲みに出かけ、管理職の人たちと麻雀をやるようになったのです。
毎日飲み会や麻雀があるので、残業はできません。仕事をこなすために、Aさんは早く出社し、定時で帰って、居酒屋か雀荘に向かったのです。


Aさんは、入社当時に言われた、「製油所の現場をしっかりと理解すること」、「他部署の人たちともコミュニケーションが取れること」、「自分の給料の三倍稼げるようになること」の三つを、早くも実現したと考えていました。


Aさんはテングになっていたのです。成果を出しているし、人脈も広がったのだから、プライベートで何をしようとも文句は言わせないというような傲慢な気持ちで会社員生活を送っていたのです。


そうした私の態度を面白く思わない人たちもいました。最初の課長は、Aさんの行状に対して何も言わなかったし、Aさんの出すアイデアを面白がってくれていました。しかし、入社半年ほどで人事異動があり、B課長に交代してから、様子が変わってしまいました。次の課長からのAさんに対する評価は、「協調性がない」「勝手なことばかりする」「素直ではない」でした。ボーナスの査定は、同世代では最低になりました。


Aさんとしては、「工場の現場をしっかりと理解すること」、「他部署の人たちともコミュニケーションが取れること」、「自分の給料の三倍稼げるようになること」の三つの教えを守っているだけなのに、なぜなんだという気持ちがありました。


今から振り返ってみれば、評価が悪くなっても仕方ないだろうと思うとのことです。みんな残業しているのにさっさと定時で帰り、他の部署の先輩や管理職と遊び歩いているし、朝は酒の匂いがぷんぷんしている・・・となれば、最低の評価がつくのも仕方がなかったのではないかとAさんは言います。


そして、その頃、Aさんは一つの事件を起こしてしまいました。
入社四年目、Aさんは初めて、大きなプロジェクトの一員となりました。百人ぐらいが関わる大きなプロジェクトの一員として選ばれたので、Aさんは、これまでの成果がやっと認められたのかと思ったのだそうですが、これは、大きな勘違いで、単に数合わせでアサインされただけだったようです。
それなりに張り切ってプロジェクトの業務に携わっていたのですが、Aさんのような下端には、雑用しか回ってきませんでした。Aさんは、そのプロジェクトの中で二番目に若く、同じく雑用を担当していた一番年下のH君に愚痴をこぼす日々でした。


雑用だけだったらまだいいのですが、問題なのは、プロジェクトの方針がはっきりしないことでした。上層部からの朝令暮改のような指示が続いたため、多くの人たちが、毎日深夜まで残業するような事態になっていました。その結果、プロジェクトに関わっている人たちの間には、不満が充満していたのです。


そんな状態が一ヶ月ほど続き、メンバーの疲れも出ているだろうと会社の上層部が判断したのでしょう、ある日、全員残業せずに定時で帰ることになりました。


Aさんはは、H君と連れだって、飲み屋街に出かけた。
AさんとH君がいきつけの焼きとり屋に行くと、そこには、プロジェクトに関わっていたMさんと、Mさんと同期のKさんがすでに飲んでいました。AさんとH君を見つけたMさんが手招きをして、一緒に飲もうということになりました。Kさんとはほとんど面識がなかったのですが、元気で楽しそうな人に見えた。


MさんもKさんも少し前に課長に昇進していました。二人とも優秀だという評判で、おそらく将来我が社の中心になっていく人たちなのだろうと、Aさんは思っていました。だから、一緒に飲むのはとても勉強になるのだろうけれど、H君と思い切り愚痴ろうという目論見はとりあえず諦めなければと思いました。


MさんとKさんの話していた話題は、予想通り現在Aさんたちも携わっているプロジェクトについてでした。MさんもKさんも、このプロジェクトの進め方に不満を持っていました。AさんとH君は、ただお二人のお話を聞くというスタンスに徹していました。何度かKさんから、「君らも言いたいことがあったら言ってもいいんだぞ」と言われたのですが、その言葉に乗っかるのは、危険だと思っていました。
「いや、私たちは、まだわからないことも多いので・・・」などと謙虚さを装いながら、「どうぞどうぞ」とビールを注いで、その場を凌いでいました。


しかし、だんだんMさんとKさんの話が白熱してきて、特にKさんが、上層部批判とも取れるかなり過激な意見を言うようになりました。Kさんの意見を、なるほど一理あると思いながら聞いていたとき、「君ら若手も、いろいろ不満があるだろう。今日は無礼講だ。思ったことを何でも言ってみろ!」と、再びKさんが私たちに話をふったのです。AさんとH君は、手を振りながら断ろうとしたのですが、Kさんは、「なんだ、若いくせに覇気がないな。言いたいことは言えるようにならなきゃダメだ!」と、許さないのです。
Aさんは、その言葉に乗ってしまいました。「それならば」と、Aさんがこれまで思ってきた不満を述べ始めました。酒は、ビールから酎ハイに変わっていました。


後から思うと、結局「無礼講」などという言葉に乗っかってしまったのが悪いのですが、酔いも回っていたAさんは、日頃感じていたことをとうとうと述べてしまったのです。少し過激なことも言ったのですが、Aさんからすれば、さっきまでKさんが話していたことと同じような方向の話だし、せっかくの無礼講だし、この際だから、あまり遠慮せずに自分の意見を言ってしまおうと思ったのです。気持ちよく話していたAさんは、Kさんの顔がこわばってきたことには気づきませんでした。


Aさんが我にかえったのは、Kさんの突然の「なんなんだそれは!」という言葉でした。


Aさんがなんのことやらわからず唖然としていると、Kさんの機関銃のような説教が始まりました。「お前は生意気だ!」、「お前らみたいな若いのは、上から言われたことをただ聞いていればいいんだ!」、「えらそーなことを言うんじゃない!」、「そんな意見は十年早い!」などと、反論する余地もなく、矢継ぎ早に、AさんはKさんから叱られてしまいました。


Mさんが、「まあ、いいじゃないか。お前が無礼講って言ったんだから・・」ととりなしても、Kさんの怒りは収まりません。


その後も延々と、Kさんのお説教が続きました。Mさんが「もういいかげんにしろよ」と言うのですが、Kさんは、「若いやつらには、しっかりと言い聞かせなきゃだめだ!」と、聞く耳を持ちません。Aさんは、ただばかばかしい思いでKさんの説教を聞いていました。


ついAさんも、「二十八ですから、もう若くないですよ」などと余計なことを言ってしまいました。
Kさんは、目をむき、このやろう口答えしやがったなという表情になり、
「じゃあ、お前は若年寄りだ!」
と、訳のわからないことを言い始めました。


「いい加減にしろ」とMさんがたしなめますが、Kさんは止まりません。MさんがAさんに向かって目配せをし、Aさんはうなずいて、H君と店を出ました。


「飲み直しだ!」とAさん。温厚なH君も「なんなんですか?あのKさんって人は」と、珍しく不快感を露わにしていました。


AさんとH君とは、別の居酒屋で気分よく飲み直し、その後、もう一軒寄ってから帰ろうと言うことになり、なじみのスナックに行きました。


その店のママさんたちと馬鹿話をして、焼きとり屋での不快な思いもだいぶ薄れてきた頃、なんと、KさんとMさんが、その店に入ってきたのです。彼らも、Aさんたちと同じように、帰る前にもう一軒ということだったのでしょう。


狭い店だったので、KさんとMさんは、すぐにAさんたちをみつけ、ボックスにやってきました。


「なんだ、お前らも来てたのか」とKさん。そして、KさんとMさんは、そのままAさんたちの席に座ったのです。


Mさんは、「もう説教は終わりだぞ」とKさんに釘を刺したのですが、Kさんは、再びAさんに向かって、先ほどの焼きとり屋と同じ話を始めました。「お前は、若いくせになまいきだ」、「お前らは、上の言うことを聞いて黙って仕事しろ」などと、同じことの繰り返しでした。


Mさんは、Kさんに「もうやめろ。だいたいお前だって、さんざんプロジェクトの進め方に文句を言っていたじゃないか」と、少々怒った顔でさとしました。Kさんもさすがに、その時は説教をやめたのです。


ところが、倉橋さんの沈黙は長くは続きませんでした。
Mさんがトイレに立ったとたん、再びAさんに対する説教が始まったのです。内容は、まったく同じことの繰り返しでした。


そっちがそのつもりなら、受けて立とうかと、Aさんは、その瞬間に決意しました。Aさんは、Kさんが何を言おうとも、何も返事をせず、ただKさんをじっと見ていました。Aさんは沈黙を続け、Kさんは、言葉を失いました。
店の中に話し声がなくなりました。その直後、Kさんが突然立ち上がり、テーブルにあった水割りをつかむと、Aさんの頭にその中身をあびせかけ、そのまま店を出ていきました。Aさんは、反射的にKさんを追いかけ外に出ました。


その後店の外で、ちょっとした騒ぎが起こりましたが、トイレから出てきたMさんが、異変に気づき、外に出てきてその場を収めました。


Mさんは、その場にうずくまっているKさんに向かって、「今日のことは、K、お前が全て悪い。今あったことは、だれにも言うな。もし言ったら、お前がやったことを、おれは全て会社に話すぞ」と、言い放ちました。Kさんは、力なくうなずきました。Aさんは、「お俺の会社員生活は終わった」と確信しました。


Mさんは、さらに、ママさんと、もうひとりいた店のホステスさんに「今あったことは、だれにも言わないように」と箝口令をしいたのです。


この事件の後、Aさんは、絶望的な気持ちになりました。Aさんが何をやっても会社では批判されるのみたいなのです。Aさんには。会社員生活は向いていないことは明らかでした。相変わらず、課長からは毎日のように小言を言われ、評価も最低のままでした。当時Aさんは、抑うつ的になっていたのでしょう。「もう生きていても仕方がない」などと考えるようにもなりました。
それからしばらくして、Aさんは友人から紹介されたあるグループワークに参加したのです。(続く)


*イラストは、ChatGPYに描いてもらいました。

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