見出し画像

ソーンダイク『占星術鑑(スぺクルム・アストロノミアエ)』の来歴 6


〔アルベルトゥスの他の著作にみられる引用との類同性〕ここでやっと『鑑』の著者をアルベルトゥスとしたい肯定的な証拠、これまで見逃されてきたものについて僅かばかり見ておこう。彼の他の著作群には『鑑』で列挙され断罪されている降霊術(ネグロマンツィア)の諸著の幾つかについて語られている。彼の神学『大全』において、邪悪な諸霊とのかかわりにおいて魔術が語られるところ、彼は聖人たちの権威や一般的な知見によってばかりでなく、「図像や指輪やヴェヌスの鏡や悪鬼たちの封印」について取り扱う「降霊術(ネグロマンツィア)の一部門の教え」に依拠して彼の観点を語り、ギリシャのアコット[1]、バビロニアのグレマ[2]、エジプトのヘルメスその他の論考について解説している[3]。また『鉱物論』では、貴石にはどうして図像が刻まれるべきであるかを論じつつ、彼は典拠(権威)として、ギリシャのマゴール[4]、バビロニアのゲルマ[5]、エジプトのヘルメスを引用している[6]。『鑑』でもその降霊術(ネグロマンツィア)の図像の書の一覧に、ギリシャのトツ[7]、バビロニアのゲルマス[8]、ベレヌス[9]、ヘルメスが挙げられている[10]。ベレヌスを除き、他の三者が先の二著の三者と同一であることにはほぼ疑いがない。ここからも同じアルベルトゥスが『大全』、『鉱物論』、『鑑』を書いたのだろうと思いこまされるばかりでなく、図像と降霊術(ネグロマンツィア)に対する後者二書に認められる態度の相違は前二著の魔術に対する態度の相違よりも大きくはない。ここからしてもアルベルトゥスが『鑑』では「魔術」について沈黙を守る第三の態度を採用したと考えることができそうである。

〔『星学(占星術)鑑』は1277年の断罪と関係があるのかどうか〕残された問いは、『星学(占星術)鑑』がいったいいつ、なぜ著されたかという問い。その調子からすると、これは星学(占星術および天文学)の全般的な擁護のために書かれたものではなく、一部降霊術(ネグロマンツィア)やその他の禁じられた隠秘な業とともに断罪された星学著作に向けられたある具体的(特殊)な攻撃に反論するために著されたものである。そうした攻撃はたとえば1277年のパリにおける断罪に認められる。これはブラバンのシゲルスに帰される219箇条からなる断罪で、その多くは星学(占星術)にかかわり、これらは土占い(ゲオマンツィア)論考、降霊術(ネグロマンツィア)著作、「運命の箭、悪鬼の召喚、魂にとって危険な呪詞」の書とともに断罪されている[11]。『星学(占星術)鑑』とこの事件とを結びつけて考えるのは自然なことであり、これはマンドネの著作を読む以前にすでにわたしのこころに浮かんでいたものである。またロジャー・ベイコンはその(科学)知識のせいで迫害され、魔術の嫌疑をかけられたのだったという旧来の観念を想起するなら、1277年の断罪と1278年に彼に降りかかった「彼の新機軸に対するなんらかの疑念からする」断罪の間に関係があったのではないかという疑念が生じるのも自然である。この発想をしたのはなにもマンドネがはじめではなかった[12]。いずれにしても彼こそ、ベイコンが1278年に断罪されたのは1277の他の断罪に関連して『星学(占星術)鑑』を著したせいであると示唆してみせた最初の人だった。しかしすでに見たように、ベイコンの断罪が星学あるいは魔術によるものであったとみなす理由がない。第二に『星学(占星術)鑑』のような中庸を保った著作が断罪されたと疑ったり、1277年にその内容がなんらかの「新機軸」を提示したものであったと考えることもできない。第三に、すでに見たように『鑑』を著したのはアルベルトゥスであってベイコンではない。第四に、1270年にアルベルトゥスはブラバンのシゲルスの事件に関連してアクィナスの援けとなるよう、パリに一論考を送り、1277年には自らのアリストテレスの教えを擁護するとともに、219箇条の断罪に関連して亡きアクィナスを擁護するため彼自身パリを訪れている。とすると、キリスト教神学者たちおよびアリストテレス自然学者たちを代表する長老として以上に、この機会に信仰と哲学の双方を代表してこれを書くにふさわしい者が彼以外にあっただろうか。

[1] (706)Achot of Greece
[2] Grema of Babylon
[3] Summa, II, 30.
[4] Magor Graecus
[5] Germa Babylonicus
[6] Mineral., II, iii, 3.
[7] Toz Graeci
[8] Germath of Babylon
[9] Belenus
[10] Speculum, cap.2, Germath, Gergis, Girgithについては付録II参照。
[11] Denifle-Chatelain, Chartularium Universitatis Parisiensis, I, 543.
[12] Cf. “The Life and Writings of Roger Bacon”, in The Westminster Review January, 1864, LXXXI, 13.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?